―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

help

自殺者の無責任

『光』45号、昭和25(1950)年1月14日発行

 いつの時代でも自殺者が絶えない事は誰も知るところであるが特に近来は多いようである、とすれば文化の進歩は自殺とは関係がない事を知るのである、自殺にもその動機が日本と外国とは余程異(ちが)うように思う、まず吾らの観るところでは、外国人の自殺者は多く精神的苦悩が原因のようだが日本のそれは別のようである、というのは、昔の封建時代はお詫びの印とか、殿様に対し一身を犠牲にして諌言(かんげん)のためとか、身の潔白を示すためとかいう崇高なる精神的動機が多かったので、自殺者へ対し一種の尊敬さえ払われたのである、彼の乃木大将のごとき自殺の結果神に祀られたというのにみても推して知るべきである。
 ところが近来は右のような動機はほとんどないといってもいい、つい最近自殺した学生高利貸山崎某なる者のごときは、一時は成功してヤンやと言われたのも束(つか)の間で、遂に二進(にっち)も三進(さっち)もゆかなくなり、苦境を逃れんがためと謝罪の意味もあろうが、自殺の止むなきに至ったのであろう、しかしながらよく考えてみると、実は無責任極まると言うべきである、人にサンザ迷惑をかけておきながらいささかの償いもせず、あの世へ逃避するのであるからはなはだ怪しからん行為といってもいい、本当から言えば身命を賭しても出来るだけ生き長らえて迷惑の幾分なりとも償うべきであるにかかわらずそうしないのはむしろ卑怯者と言ってもよかろう、また近来話題に上る文士の自殺のごときも無責任の譏(そし)りは免れ得まい、自己の不道徳による苦悩の清算からでもあろうが死によって遺族や関係者にいかに不幸や迷惑を与えるかである、そうして特に言いたい事はこの種の自殺者に対し、社会の一部には讃美する者さえみらるるのであるが、この輩はむしろ一種の罪悪を作るといってもいい、その証拠には最近自殺した田中英光氏のごときは、太宰氏の墓前において自殺したにみても太宰氏の行為に憧れを持ったからであろう、それのみではない、太宰氏が玉川上流に投身した同じ場所でその後数十人に上る追随者が出たのであるから飽きれざるを得ないのである、今もってかの数十年前華厳の滝へ飛込んだ藤村操の跡を追うものが、絶えないという事等も右をよく物語っているのである。
 次に、近来の自殺の原因に相当多いとされているヒロポンやアドルムのごとき麻薬中毒であるが、これらに対しても大いに反省の要がある、麻薬中毒の最初はただ一服であって、それが将来の生命とりになる事を徹底的に知らしむべきである、最近当局においてもそれに気が付き禁止の手段に出たがむしろ遅しというべきである。
 以上自殺行為は無責任極まるものであり、卑怯者であるという事を強調し、いささかの讃辞など与えないよう特にジャーナリスト諸君に警告したいのである、本来宗教的からいえば死人に鞭打つ事は宜しくない事ではあるが、今後出るであろう自殺者を未然に防ぐ意味から、あえて自殺の不可を注意したのであるから、死者の霊もまた満足すると思うからである。