自由なる信仰
『栄光』177号、昭和27(1952)年10月8日発行
信仰の自由は、新憲法制度以来そうなったので、これについては論ずる必要はないが、私の言わんとするところは、信仰それ自体の自由である。というのは世界中大中小幾多の宗教があるが、例外なく自分の宗教は最高であり、他の宗教は必ず劣るとしているのは誰も知るところであろう。という訳で他の宗教へ触れる事を極力戒めている。他教は邪教であるとか、コチラの神様のおとがめが恐いとか、二心あっては救われないとかいうのである。それが宗教によっては随分厳しいのがある。万一転向でもすると、大きな災いが来る、大病に罹る、命が失くなる、中には一家死に絶えるというような、縮み上がるような事をいって喰止めようとする布教師もある。これこそ邪教の常套手段であって、もちろんこのような事は常識的に見ても、馬鹿馬鹿しいが、本人自身は案外信じて、中々決心がつき兼ねる。ところがこういう信仰は新しい出来星の宗教のみではない。相当古い立派な宗教でも、それに似たような事が往々あるのだから不可解である。これなどもよく考えてみると、自由思想は政治や社会面のみではない。宗教にも封建の桎梏(しっこく)は相変らずのようである。
右のごとくであるから、私は宗教についての自由を言いたいのである。それは信者の意志を制約して、教団の都合を図る事で、これこそもっての外である。しかもその手段として用いるのが言葉の脅迫であるから、ここに至っては最早赦(ゆる)すべからざる信仰的脅迫である。その一例として私はこういう事を聞かされた事がある。自分は随分長い間熱心に信仰して来たが、年中病人は絶えず、貧乏の苦しみからも脱けられないので、段々信仰が嫌になったので脱けようとすると、その布教師は恐ろしい事をいうので、どうしていいか分らないで迷っているといって相談をかけられたので、私はそういう宗教は無論邪教だから、一日も早く止めなさいといってやった。しかしこういう宗教も世間仲々多いようである。
ではその理由はどこにあるかというと、もちろん信者を減らしたくないからの苦肉の策でもあろうが、その他の理由もある。それは昔からある事だが、その宗教が隆んになるとよく贋物が出たがる。本教なども今までにそういう事が時々あるので、その都度私はいうのである。宗教も化粧品と同様、売れると贋物が出るもので、贋物が出るくらいなら世の中から認められた証拠だから、むしろ結構ではないかと笑うのである。この事は形は異(ちが)うがキリスト教にもあるようだ。それは偽キリスト、偽救世主が今に出るから注意せよと戒めているが、これは善い事もあれば悪い事もある。なぜなればもし本物の救世主が出ても、偽物と思い誤り、救われない人が出来るからである。
ところで一番困るのは、自分の信じている宗教が最高のものと思い込んで、熱烈な信仰を捧げている人の多い事である。しかしこれは本当にそう思っているのだから、精神では救われているから、御本人だけは満足しているが、それは本当ではない。なぜなれば物質面も救われ、霊体揃えて天国的生活者にならなければ、真の幸福ではないからである。ところがその事を知らない盲信者が多いとみえて、一生懸命信仰をしながら、不幸から解放されない人も随分多いようである。右について今一つ注意したい事がある。それは他の宗教に触るるのを恐れる理由は、その宗教より以上の宗教があるかも知れないとの懸念のためであろう。というのはその宗教に弱点があるからで、大いに注意すべきである。
そうして自画自讃で言い辛いが、我メシヤ教に限ってその点実に自由である。これは信者はよく知っているが、他のどんな宗教にでも大いに触れるべしと云っている。もちろん研究も結構で、それだけ見聞が拡まるからである。その結果もしメシヤ教以上のものがあったとしたら、いつ転向しても差支えない。決して罪とはならないからで、本当の神様ならその人が救われ、幸福になりさえすればそれでいいのである。