諦めを説かない宗教
『栄光』235号、昭和28(1953)年11月18日発行
今まで宗教という宗教は、残らずといいたい程その根本は諦(あきら)める事の教えである。これを解剖してみると、諦めの根本は色々な苦しみに遭(あ)いながら解決する事が絶対不可能であるからで、せめて精神的なりともその苦しみから逃れたいという希望に応(こた)えてくれるものが、すなわち諦めという一種の逃避手段であろう。つまりそれ程苦しみを解決出来る方法は絶無であるからである。一例を挙(あ)げれば病気、災難にしても、人間の理屈でも努力でも解決が出来ないので、昔は宗教に求めたが、それでも駄目なので諦めを説いたのである。ところが近代に至って科学が生まれ、素晴しい力を発揮したので人間はこれによってこそ、諦めなくとも解決が出来ると信じてしまったのである。
ところが事実は案に相違で、なるほど物質的にはある程度希望を満足させてくれたが、深い根本的のものに至っては、解決出来そうにみえて、その実不可能という事が沢山ある事も漸次分って来たのであって、現在は一種の懐疑時代といってよかろう。