安心立命
『栄光』186号、昭和27(1952)年12月10日発行
よく安心立命という言葉があるが、これは精神的の面に限るように世人は思っているようだが、この考え方は大きな間違であって、真の安心立命とは物質も伴わなくてはならないのはもちろんである。考えてもみるがいい、病気、貧乏、争いの三つの災厄の内の、たとえ一つでもあるとしたら、どこに安心があるであろうかという事である。俺は一生涯病気の心配はない。貧乏になりっこはない。争いを起すような事もないという自信がもててこそ、真の安心立命は得らるるのである。ところがそのような三拍子揃うなど、今の世の中では到底夢でしかあるまい。そんな人は恐らく世界中ただの一人もないといってよかろう。
まず世間をみればよく分るごとく、何事も思うようにならない。嫌な事は次々降って来る。好いことなどは滅多に来ない。全くこの世の中は地獄そのままだ。第一健康にしてもそうだ。いつ何時病気に罹るか分らない。ちょっとした風邪を引いても、簡単に治ることもあれば治らないこともあるし、拗(こじ)らしたり大病の前兆になることさえあるのだから、風邪くらいなどといって安心してはいられない。また医学でいっている通り黴菌はそこら中ウヨウヨしているから、いつ何時伝染病や結核菌が飛込むか分らない。それがため当局でも医学衛生を喧(やかま)しくいい、清潔にせよ暴飲暴食をするな、外出から帰ったら含嗽(うがい)をしろ、食事の前は手を洗え、食物に注意せよなど、何だかんだと煩さい程注意を与えている。それらことごとくを信ずるとしたら現代社会生活は全く恐怖の渦の中にいるようなものである。
もちろん貧乏も争いも、そのほとんどは金銭問題が主となっており、その原因がまた病気であるから、どうしても無病息災、真の健康人にならなければ、絶対安心は出来ないのは言うまでもない。しかし世人はそんなことは到底出来ない相談でしかないと思うであろうが、それが立派に出来るとしたら、大変な福音であろう。ところが必ず出来るのだから大したものである。そのために現れたのが我救世(メシヤ)教であり、救世教を措いては世の中に決してないことを断言するのである。