英雄の死に就いて
『栄光』205号、昭和28(1953)年4月22日発行
今度のスターリンの死について、考えるまでもなく、この人は今世紀における最も偉大なる存在であった事は今更いうまでもない。とにかく彼の来歴をふりむいても分るごとく、ロシヤ帝政時代のアノ圧制極まる帝国主義を、根底から覆(くつが)えしたレーニンの後を継いで、善い悪いは別としても、ともかく今日のごとき共産大帝国を作り上げたその手腕は、驚異に値するといってもよかろう。しかも色々三十余年にして、現在見るがごとき、強大なる米国と相対峙(あいたいじ)して、ビクともしない態勢は全く世紀の巨人として英雄の名を冠してもいいであろう。
にもかかわらず彼の死に対し、心から哀悼(あいとう)する者は世界中果して幾人あるかであろう。これは今始った話ではないが、昔から幾多の英雄が死ぬ場合、大多数の感想をいえば、なるほど外形的には輝かしい存在としてその卓越せる鉄腕には感嘆せずにはいれないであろうが、ただそうなるまでには数え切れない程の多くの犠牲者が出た事である。これだけでも無条件に賞(ほ)める事は到底出来ないのである。というのはそれら被害者の怨恨(えんこん)は深刻なものであり、そのままでは霊は承知しないからである。つまり目的のために手段を択ばず式の英雄特有の利己的観念を見出すのであって、この観念の根本こそ全く彼らの無神思想から生まれたものである。とすれば世に無神思想程恐るべき幸福の破壊思想であり、文明の敵であるのは言うまでもあるまい。
右は英雄と無神思想についてかいたのであるが、この事は英雄ならざる一般人民に対してもいえる。すなわち目的のために手段を択ばず、勝てば官軍式の考え方で、この種の人間が現在余りにも多いのである。しかもそういう人間が成功者として崇(あが)められるのであるから、それを見習う人間が増え、社会悪がドシドシ作られるのである。この悪思潮に対しそれを防止するには宗教以外にないのは知れ切った話である。これによってみても宗教なくしては、到底明るい住みよい社会は出来るはずはないのはもちろんである。このように宗教が社会不安の防止に役立っているかは計り知れないものがあるにかかわらず、世の識者のほとんどはこれに気が付かず、反って宗教をもって無用の長物視しているので実に情ない話である。この原因こそ全く科学中毒のためであって、知らず識らず人間の幸福を阻害し、それが文化人と思い得々(とくとく)としているのが今日の有様である。
そうして無神主義をもって望み通り、英雄に祭り上げられたとしても、その歓喜と満足は到底長く続くものではない。これは歴史がよく物語っている。すなわち英雄と名のつく者で、終りを全(まっと)うした者はほとんどないといってもよかろう。事実英雄が死に際会して安楽な往生を遂げた者はなく、今度のスターリンのごときは、珍しい平穏な死を遂げたといえるが、しかし彼の死後現在の大ソビエットは、いつまで続くかという疑問である。というのは彼によって歓喜幸福を与えられた者の数よりも、彼のために生命を奪われ、不幸に陥った人の数の方がどれ程多いか分らないであろうからで、いずれは多数者の怨霊の塊は、同国を倒さずには措(お)かないと共に、霊界の鉄則としてそういう大きな罪人が死後霊界に往(おもむ)くや、暗黒無明の地獄界に転落し、名状すべからざる悲惨な境遇に落ち、その罪を赦(ゆる)されるまでには、少なくとも数百年はかかるのである。従ってこれを知るやいかなる英雄豪傑でも一溜(ひとたま)りもなく後悔するが、時既に遅しでどうにもならないのであるから“哀れなる者よ、汝の名は英雄也”と言いたいのである。それに引換え神を信じ、一人でも多くの人を救い、歓喜と安心を得させる吾々こそ永遠なる栄光の下に、真の幸福者たり得るのである。
(注)
対峙(たいじ)二つの勢力が向き合ったまま動かないでいること。