―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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黴菌の発生

『結核信仰療法』昭和27(1952)年12月1日発行

 前項に説いたごとく、結核菌は、自然発生であるとしたら、ではどこからいかなる過程を経て発生したかを、何人にも理解し易いよう理論物理学的に、理論心理学的にかいてみるが、何しろ見えざる霊を対象とするのであるから容易でない事は、今日まで何人といえども試みた者のないにみても明らかである。というのは事実の裏付が困難であったからでもあろうが、私は事実を根拠とした理論を発表するのであるから、たとえ唯物科学をもっていかに反対するといえども、打ち破る事は不可能である。
 それについて前もって知っておかねばならない事は、世界というものの構成である。これ程進歩した現在の学問でも、そこまではいまだ判明していないに反し、私はそこまで徹底して説くのであるから、静かに心を潜めてこの文を熟読すれば、何人といえどもこの発見の偉大さに驚くと共に、医学の誤謬に目醒めない訳にはゆかないであろう。そうしてまずこの世界の構成であるが、それは一次元の物質界と、二次元の空気界と、三次元の霊気界との三段階から成立っているものである。ところが現在までの学問では、一次元と二次元の世界だけしか判っていないため、この二つの世界を基本として形成されたものが現代科学であるから、その点に一大欠陥があったのである。というのは右の無とされていたこの三次元の世界こそ、実は一切万有の力の根源であって、この力によって万物は生成し化育し、無限の発展を遂げつつあるのである。ところがそれに未知である学者は、現在の科学をもってすれば、何物をも解決出来得るとするこの科学過信の誤りが、三次元の霊気界を否定し、今日のごとき不具的医学を作ってしまったのである。その結果今までに種々説明したごとく、表われた病気症状を抑えるだけで、根本的治病は不可能なるため、結核は減らないのである。
 右のごとく根本から外れた医学としたら、進歩すればする程横道に迷い込んで、枝葉末節に囚われてしまい、すべての病原を黴菌にしてしまったのである。その証拠には甲の病気を解決しようとすれば、乙、丙の病気がおこるというように、ただ形を変えるだけの事で、これが余病である。さて論旨を進めて右の霊界と人間とは一体どういう関係にあるかというと、もちろん人間といえども右の三段階中の存在である以上、肉体は物質であり、水分も空気でヤハリ物質であるが、今一つの見えざる霊こそ実は人間の本体であって、これが病気の発生源である。ところが唯物医学は病気とは肉体だけのものと思い、一切の病原を肉体に帰し、外部からの黴菌浸入のためとの、言わば外敵説に反し、吾々の方は内敵説であり、医学の感染説に対し、吾々は自然発生説である。しかし外部説は機械で分かりうるが、内部説は分かり難いため、今日のごとき迷妄に陥ってしまったのである。それを以下順をおって解説してみよう。
 ここで一体人間の霊なるものは、何であるかというと、科学的に言えば非常に密度が高く超稀薄なものであって、現在進歩した原〔電〕子顕微鏡でも、到底見る事は出来ない程の超々極微粒子であるにもかかわらずこれこそ前記のごとく人間の本体であるから、全く想像もつかない程の神秘幽幻なものである。この理によって病原の最初はこの霊の全部または一部に曇りが発生する。曇りにもその原因に二種ある。一は人間が犯す罪穢によるものと、二は薬毒によるものとである。前者の罪穢とは言うまでもなく因果説に属するもので、人を苦しめるとか、社会を毒すとかいうつまり悪の行為からであり、後者の薬毒とは先天性のそれと後天性のそれとの合併したものであるが、それは別の項に譲るとして、ここでは曇りそのものについてかいてみるが、曇りの本質はちょうど大空の雲のごときもので、言わば水素の密合体である。これにも不純性と純粋性があり、後者は晴れた日の鱗(うろこ)雲や段々雲に等しいもので結構だが、前者に至ってはいずれは風雨発生して払拭されなければならない。これが天体の浄化作用であって、人間の病気もそれと同様であるにかかわらず、それを知らない医学は、せっかくの浄化作用を停止するのであるから、この不純性の曇りは漸次濃度を増してゆくと共に、ここに一種のバクテリヤが発生する。これは無機質植物性のごときもので、時の進むに従い段々生育し、遂には有機質に変化する。この有機物こそ黴菌の卵であって、この卵が時を経て一人前の親となり個性となって、初めて顕微鏡で見得る程度になるのである。この理を知ったなら彼のウイルスも分かるであろう。すなわちウイルスとは右のごとくまだ親にならない黴菌の子供であるから、顕微鏡では見えないが、確かに育って親となり病原となるので、これは学問でも認めている。
 以上の理によって根本的に病気を治すとしたら、右のごとき黴菌の発生源である霊の曇りを解消する以外に、真の治病法のない事は明らかである。としたらこの原理こそ現代科学の水準よりも、遥かに高度である事も認識出来るであろう。ではその曇りの解消はどうすればいいかというと、私はこの方法を神から教えられあわせてその力をも授けられたのであるから、本著の付録〔略〕に見るごとき、素晴しい実績を挙げつつあるのである。以上のごとく私は病理の根本にまで突き進んで説いたのであるが、なお一層深く解説したいが、そうなると宗教的分野に入り、第三者には信じ難いから、ここでは出来るだけ科学的に解り易く説明するつもりである。
 それについての曇りの解消とは一体どういう意味かを説明してみるとこうである。すなわち施術者は患者の患部にむかって掌をかざすや、施術者の掌から一種の光波が放射されるのである。ではこの光波とは何かというと、分かりやすく言えばこれは太陽の精であって、私はこれを火素と名付けた。すなわち空気の本質は水素であるに対し、霊気の本質は火素であるからで、もちろん火素といえば火には違いないが、人間が現在目で見、熱く感じるそれは火素の体であって、右の火素とはつまり火霊である。この火霊が人霊の曇りに向かって放射されるや、曇りの中の不純分子だけ焼尽され、その灰に相応する分子が排泄物となって体外へ排除され、純粋分子は漿液中に混入されてしまい、ここに曇りすなわち病原は解消されるのである。
 では本教信者になると、このような治病力ある火霊が、なぜ放射され得るかというと、これは信者が首に掛けている御守から発する光波である。この御守というのは私が書いた文字で、光、光明、大光明の三種あるが、これこそ主の神(エホバ)の神霊が、私の霊体を中継として御守に伝達され、御守から信者の掌を透して放射されるのである。しかしこの説明を聞かされても、すぐに信ずる事は出来まい。むしろ反感を抱く者さえあるかも知れない。そんな馬鹿な事がこの世の中にあってたまるもんか、インチキにも程があるとするかも知れないが、それも無理とは思わない。何となれば有史以来、かくのごとき超物理的例はないからである。しかし事実はあくまで事実であり、百の議論よりも一の事実にしかずである。これを一言にしていえば、いよいよ天の時来って、神は人類救済の大任を私に命じられたのである。その一着手としての医学の革命であるから、この事を知ったなら今私の行っている事は、何ら不思議はないはずである。
 以上のごとくこの項はすこぶる神秘的な説明になったが、これは神秘でも何でもない。実は純然たる科学である。ゆえにこれを読んで神秘と思われるとしたら、それは現在科学のレベルが低いからで、将来一層も二層も進んだ暁、容易に理解出来るのはもちろんである。そこに到って初めて科学と宗教との一致点が見出され、真の文明は生まれるのである。そうして今日口を開けば学問の目的は、真理の探究にありとしているが、私からいえば最早真理は発見されたので、その解説がこの著である。
 ここまで説明してもなお信ずる事は困難であろうが、そもそも真理とは何かというと、端的に言えば現実そのものである。たとえば東から太陽が出るのも、人間が生れて死ぬのも現実であって真理である。としたら私が説くところの神秘な説といえども、理想でも桁外れでもない。現実そのものである。まだ色々言いたい事があるが結核問題とは段々離れてしまうから、このくらいにして置くとする。