―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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本教と文化革命

『地上天国』33号、昭和27(1952)年2月25日発行

 世間一般から観ると、本教は宗教を看板にしており、いささか変ってはいるようだが、ヤハリ新興宗教の一種に過ぎないくらいに思っているであろうが、それも無理はない。今まで本教のごとき素晴しい宗教は出なかったからである。というのは本教は既成宗教的観念で見て分るような、単なる宗教ではないからで、外に名の付けようがないから、止むを得ずメシヤ教としたまでである。ではなぜ適切な名称がないかというと、今まで本教のごとき性格のものは全然なかったからである。そこでどの点が変っているかをかいてみるが、それは本教は宗教以外、基本的文化に関するあらゆる誤点を発見し、真の文化のあり方を知らせんとするのであって、それと共にその方法をも明示するのであるからいわば大規模な文化革命である。
 従ってこのような本教の構想が、全世界に知れ渡るにおいては、全人類特に有識階級の人々はいかに大いなる嘱目(しょくもく)を払うかである。なるほど昔から今日までその時代時代先覚者が現れては、文化に稗益するところの革命的偉業も幾度かはあったが、それはある範囲に限られていて、かつ永遠性に乏しかった事は、現在の世界を観てもよく分るであろう。ただしかしともかくその中での立派な業績を挙げた者としては、釈迦及びキリストの宗教革命であろうが、これとても精神面が主で、物質面にはほとんど触れていなかったといってよかろう。しかも範囲においても東洋とか、西洋とかに、大体限られていたのであるが、その当時としては今日と異(ちが)い、文化もはなはだ幼稚で、交通その他の条件も具備していなかったから止むを得ないとしても、二十世紀の前半を過ぎた今日の文化に至っては断然進歩しているとしたら、私によって今や行われんとする一大革命も、決して夢でない事が肯かれるはずである。そうしてその課程としてはもちろん破壊と創造であるが、破壊といっても他動的のものではなく、神の審判による自己清算であると共に、一方新文化の建設であろう。これは好むと好まざるとにかかわらず、今やその時期が刻々と迫りつつあるのである。言い換えれば善なるものは残され、悪なるものは潰滅するのである。としたら大体神の御目的も想像出来るであろう。
 しかしこのような架空としか思われない程の大事業が、果して吾々の生ある内に実現されるであろうかという疑問である。それどころではない、私自身としても最初からそんな事は夢にも思わなかったのである。ただ宗教家として出来る限り人類を救いたい、それが自分の天からの使命であると思ったのである。ところがその仕事が漸次進むに従い、右のような大任を負わされていた事がハッキリ分ったのである。それと共に驚くべき奇蹟が続出するに従って、ここに私は一大決意をせざるを得なくなった。その最も大いなる奇蹟はこの大偉業が主の神によって、何万、何十万、否何百万年以前から、周到なる準備をされていた事である。何となればそれを証するに足る数多(あまた)の事象をこの眼で見ると共に、昔からの幾多聖者の予言も、この事の示唆であった事も分ったからである。ここにおいて何ら遅疑する事は要らない、大磐石(だいばんじゃく)の信念の下に全身全霊を打込み、救世の大業に邁進しつつあるのである。従ってこれを知らない人から見れば、一種の誇大妄想狂的と思うかも知れないが、元来私の性格は人並外れて用心深く、虚偽りは絶対言えない臆病さで、むしろ馬鹿正直の部類の人間であるにかかわらず、このような大胆極まる事を言うのは、いかに確信があるかを想像されたいのである。