本能主義と禁欲主義
『栄光』188号、昭和27(1952)年12月24日発行
ドイツの有名な哲学者ニーチェの本能説に従えば“人間誰もは生まれながらにして種々な本能をもっていて、それはどうにもならない宿命のようなもので、もちろん人為的に抑える事は不可能に近いというべきものである”というのである。なるほど一応は納得できないこともないが、それだけの説き方では不道徳も許されるということになり、一種の危険思想である。従って相当智性のある人なら、一つの学説として取扱うこともできるが、吾々宗教人からみる時絶対受け入れ難い説である。
ところが右と全然反対な説もあって、しかも古くから実行もされている。それは宗教中のある種のものであって、本能の罪悪観である。それがため極端な禁欲主義に陥り、その苦しみを聖なる実践と解し錬磨修業の道程ともされている。これを吾々から客観すると承服できないと共に、こういう信仰に限って社会とも同化せず、独りよがりに陥っている。このたぐいの信仰で代表的のものとしては、彼のマホメット教(別名回々教、イスラム教)とインドのバラモン教、キリスト教中での清教徒(ピューリタン)等であって、日本には余り見られないが、若干それに似たのが今なお残っている。
以上のごとき相反する両者を並べてみると、そのどちらにも軍配は挙げられない。というのはもちろん一方に偏しすぎているからであるが、これについて神は厳たる標準を示されている。そうしてこの誤りは簡単に分りそうなものだが、割合世人は軽視し勝で分らないようだ。これを一口に言えば彼の孔子の唱えた中道説である。これについては私は常にあらゆる面から説いているから、信者はよく知っているだろうが、実際問題としてはヤハリ孔子のいった今一つの“言うは易く行いは難し”である。ところがこの事こそ実は信仰の本道でもあって釈尊の唱えた覚りもこれである。そこで私はこの理をできるだけ平易に説いてみるとこうである。
まず卑近な例ではあるが四季の気候を見ても分るごとく、極寒と酷熱は人間誰もは嫌うが、寒からず暑からずという中和を得た春秋の気候こそ快適であり喜ぶのは当然である。昔からこの季節に仏教重要行事としての彼の彼岸会(ひがんえ)がある。それは気候が極楽浄土の実相を表しているからである。だがそれは別として今私の言わんとするところは、処世上についてであるが、これも一切万事極端を避けなければ駄目だ。ところが人間はどうも右か左かどちらかに片寄りたがる。これがいけないので、失敗の原因も大抵はここにあるといっていい。そうかといって決めなければならないこともあるから、この取捨按配(しゅしゃあんばい)が中々難しい点である。そうしてこれを一層徹底的に言えば、つまり決めないと思う心がすでに決めている訳であるから、決めてもいけず、決めなくてもいけず、といって中途半端でもいけないという実に曖昧模糊(あいまいもこ)としているようで、実はこれが厳たる法則であり、ここに世の中の面白味があるのである。つまり応変自在、自由無碍の境地になればいいので、要は一切に捉われないことである。観世音菩薩の別の御名無碍光如来も、それを表わされているのである。
そうして今日の政治や思想問題にしてもそうだ。彼の右派とか左派とが、資本主義とか、共産主義とか決めてかかるから間違が生ずるのである。なぜなれば決めれば局限されるから他との衝突は免れない。これが今日屁のようなことでも、一旦は必ず悶着が起り、どこもかしこもテンヤワンヤであるのはこのためである。またこれは世界を観ても同様、国際関係にしても年中ゴタゴタが絶えないのである。もっとも今日までの世界はこれあるがため物質文化の発達を見たのであるから止むを得なかったが、これからは逆になる以上、頭の切替えが肝腎である。ということは、いよいよ真の文明時代が今や来らんとする時となったからである。つまり彼岸の気候を標準として進めばいいので、これが我救世(メシヤ)教の本領でもある。