法律と人間の野蛮性
『栄光』118号、昭和26(1951)年8月22日発行
現代の世界では、文明といわれる国程法的制度が進んでおり、法律条文も年々増えつつあるのは衆知の通りであって、全く現代は法律万能時代といってもよかろう、従って法規の多い事は、その局にある司法官や、弁護士なども、全部を覚えるには一生涯掛っても難しいであろう、事実自分に関係のある部分のみが漸(ようや)くというくらいであるとしたらその効果は相当目に見えるはずであるにかかわらず、肝腎な犯罪は減らないどころかむしろ年毎(ごと)に増えつつあるのはどうした事か、実に不可解千万ではなかろうか、全く文化の進歩とはおよそ矛盾しているのである、そこで私はその原因についてここに検討してみようと思うのである。
そもそも、法の主なる目的は、社会から犯罪を減らし、ついには犯罪者なき世界を作るにある事は今更言うまでもないが、事実は前述のごとくその逆であって年々国会においては、法規の条文増やしが、議事の大半を占めている、もし文化が予期通り進歩するとすれば、犯罪者は順次減少して、法規の条文中不必要なものが出来るに違いないから、国会においての議事も、法規の一部廃止法案が討議されるようになるべきはずではなかろうか、ところがその反対であるという事は不思議であるに対し、怪しむ程の者もない、というのは何人(なんぴと)の考えも、今更どうしようもないとして諦めているためであろう、これによってみても、犯罪を無くすのは、法律だけでは到底駄目だという事が、よく判るのである、そうかといって今のところ、法がないとしたら、これはまた大変である、そうなったら最後悪人の天下となり、良民はとても枕を高くして寝る事は出来ないから、やはり法は法として今のままにして置き、他の有力な方法を併(あわ)せ行えばいいと思うのである、しかし外のものといっても、まず教育と宗教のこの二つよりないが、これも余り期待はかけられ得まい、何となれば何世紀、何十世紀それを続けて来た今日といえども現在のごとき人間世界の有様であるからである。
これについて以前もかいた事があるが、大体法律というものは獣を収容する檻と同様の意味で、つまり檻がないと人畜に危害を及ぼす危険があるから厳重に太い格子や、網を張って漸く取締っているにすぎないので、彼らは隙があると破って出ようとするから、段々細かく隙のないようにしているだけである、その手段として年々法を密にし、取締りを厳にするのであるからむしろ人間の恥辱といってもよかろう、そのような訳で今日の人間は、獣と同様の扱いを受けているとしたら、余り威張った口は利けたものではあるまい、従ってこれらの点をよく考えたら、一日も早く目覚めるべきで、昔からよく言われる人間の形をした獣とは現代人にも当はまらない事もあるまい、これを一言にしていえば、まだ半文明半野蛮の域を脱していないのである。
とはいうものの、それにも厚薄がある、すなわち人間扱いをされていい人と獣扱いをされなければならない人とがあるのは止むを得ないので、国にしても軍国主義と、平和主義とがあるごとく、前者は野蛮国であり、後者は真の文明国である。
次に教育であるが、これも今日は既に試験済みとなっているから、あえてかく程の事もないが、知らるるごとくこれも幾世紀に渉(わた)って、大勢の学者、教育家等が努力して来たのである程度の功績は認められるが、それ以上の力はなかった、もっとも野蛮時代からみれば人智は進み、政治にしろ、社会機構にしろあらゆる方面に渉って驚くべき進歩発達を遂げたのであるから、全く教育のお蔭も疎かには出来ないが、そうかといって精神面すなわち魂の改善には、力が足りなかった事は争えないところである、何よりも法律という檻を不要にする事が、今もって出来ないからである、教育の問題はこのくらいにしておいて、次の宗教であるが、これも昔から偉い聖者や、卓越せる偉人が幾人も現われしかもその弟子や信徒までが生命を賭し、血の滲むような苦心努力を続けて来たにかかわらず、ある程度の精神的救いは無論認められるが、法を不必要とするまでには到っていなかったのである、としたら既成宗教にも多くの期待は持てない訳である。
そこで人間から真に獣性を抜き、檻を必要としない社会を作るには、どうすればいいかという問題であるが、これこそあらゆる既成文化を超越した破天荒的な力が現われなくてはならないのは言うまでもあるまい、ところが喜ぶべし、その力こそ主の神としてのエホバから吾らに与えられ、今現に発揮しつつある事実で、これが本教の真髄であるから、本教は全く超宗教的大いなる存在であって、やがて来るべき光明世界の先覚者として、第一番人類の迷蒙を醒ますべき警鐘がこの文と思って貰いたいのである。