―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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文化の迷蒙

『栄光』96号、昭和26(1951)年3月21日発行

 周知のごとく、現在の日本としては、対外問題は別とし、対内問題を見る時、何が最も難問題であり、急速に解決しなければならないかというと、もちろん結核問題であってこれ以上重要なものはないと言ってもよかろう、他のいかなる問題でも、智能と、金銭と、努力によれば、必ず多少の効果を顕(あら)わし、一挙に解決が出来ないまでも、漸次的に解決に向かうのは、一の例外もあるまい。しかるに独りこの問題のみは年々多額の費用を使い、官民共に能う限りの努力を払いつつあるにかかわらず、何ら効果を見ないばかりか、むしろ年と共に増加の傾向さえ見らるるのである。ゆえにこの問題を吾々は何物にも捉われる事なく、白紙となって冷静に検討して見る時、前途は全く悲観の一途あるのみである。
 とはいうものの、当局者も専門家も確信ある医学的智識によって対策を考究し、遺憾ないと思う程の施設方法を採り、努力しつつあるのを見れば何人といえども相当の効果を奏し、結核は漸減するに違いない。と思わざるを得ないのであるが、豈(あに)計らんや、結果はそれを裏切って前述のごとく、減るどころか益々増えるというのであるから、普通ならば、疑念を起さなければならないはずであるにかかわらず、いささかもそのような事なく、飽くまで馬車馬的に、不確実な方法を続けているのである。しかもそれによって、人民の血や汗の結晶である巨額の税金は徒(いたず)らな浪費となり、多数人間の努力も空費となるに至っては、軽視する事は出来ないのである。
 ところが、吾々のいいたい事は、現在政府が行いつつある、結核対策費の何万分の一にも足りない少額な費用をもって、結核は完全に治癒され、患者を漸減させる事が可能なのである。これは単なる言葉だけではなく日々多数に上る生きた実例によっても、明らかであり、その報告は本教刊行の新聞雑誌に満載されつつあるにみて、一点の疑う余地はあるまい。ところがこの記事は結核対策の任に当る人の幾人かは、必ず見ないはずはないと思うが、今日までそれに関し訪ねて来た者は一人もないのであるから、実に不可解である。まず神経の通っている人間なら、右の記事を見た以上首を捻って、本教が誇示するがごとき事実が、果してありや否やを進んで検討しなければならない。事実これほど官民共に年々努力を払っていてさえ、容易に治らないものが、薬も機械も使わないで、治るとは本当とは思えない程で、もし本当とすれば大問題であると共に、そうでないとすれば怪(け)しからん宗教であるから、断乎たる処置に出なければならない訳になる。従って、いずれにせよ大いに検討の必要ありとして、乗り出さなければならないにかかわらず、そのような事は今日までないとすれば、彼らの心理こそ実に解するに苦しむのである。察するに宗教だからというただそれだけの理由でしかないのであろう。また今一つは彼らの考えは結核問題解決は、唯物科学より外には、世界中絶対ないと信じて、決めてしまっているからでもあろう。ちょうど幕末期における、切支丹(キリシタン)バテレンを恐れた人達と同様どころか、むしろそれ以上の封建的考え方ではあるまいか。
 本当から言えば、急を要するこれほどの問題でありながら、どうしても医学では予期の効果を得られないとしたら、他に方法を求めるべきである。すなわち結核が医学以上に治るものでさえあれば何でもいいとして、大いに探すべきであって、それより外に問題解決の鍵は絶対あり得ない事を断言するのである。としたらそれに当はまるべきものは、本教浄霊法以外他には決してないのであるから、それを実行さえすれば、それでこの難問題も容易に解決出来るのは、火を視るよりも瞭(あきら)かである。しかも至極簡単に費用もほとんど掛らないで、目的を達し得るとしたら、何を苦しんで在来の方法を固守しつつ、目を他に転じないのであろうか、その盲点は見るに忍びないのである。本教が数年前より、実際効果を何程知らしても、目を蔽うて見ようとはせず、いかに声を嗄(か)らしても、耳には入らないという現代智識人にも困ったものである。これが御自分だけの問題なればいいかも知れないが、それがために幾千幾万の人命が犠牲になるとしたら、これ以上由々しき問題はあるまい。むしろ戦争にも劣らない悲劇と言ってもよかろう。
 以上のごとく、随分私は思い切って言わざるを得ないのは、全く現在の急迫せる事態を観るに耐えないからで、ここに一大警告を与える次第である。