医学の考え方
『栄光』123号、昭和26(1951)年9月26日発行
現代医学においての、根本的誤謬をかいてみるが、それは考え方のいかにも浅い事である、今その二、三をかいてみるが、例えばビタミンが不足しているから、それを補えばいいというが、本来ビタミンが不足するという事は、ビタミン生産の体内機能に故障があるからで、その故障を除けばいい訳である、ところが悲しいかな、医学ではその故障の発見が出来ないので、止むを得ず口からビタミンを入れるのである、そうして不思議な事には、ビタミンなど知らない時代の人間の方が、現代人より余程健康であったようである、またいつもいう通り下痢であるが、これは汚物の排泄作用であるから、腹の中の掃除が出来て、健康上頗(すこぶ)る結構であるにかかわらず、医学はそれを止めて出さないようにするのであるから、恐らくこんな間違った話はあるまい、ところが滑稽なのは下痢に対し、よくお腹が壊れたというが、これを吾々からみれば、こんな馬鹿馬鹿しい話はあるまい、この事について私はいつも言うのであるが、人間の腸は瀬戸物や硝子(ガラス)で出来たのではないから、壊れるなどという訳はないと大笑いするのである、それと同じように咳や痰、鼻汁、汗等の汚物排泄も、医学は停めようとしたり、熱が出れば氷で冷し、盲腸が痛めば切って除ってしまうのである、盲腸が痛むのは痛む原因があるからで、その原因を除りさえすればいいのであるが、それが出来ないので切るのだろうが、それに対する言い訳が拙(まず)い、いわく盲腸など人間の体には余計なもので、無い方が安全だというのであるから、恐れ入ってしまう、人間を造られた神様も、呆(あき)れて苦笑なさるであろう、また腎臓もそうで、悪いと剔出してしまう、こうみてくると病気に対する考え方の、安直で乱暴なる驚くべきだと言えよう、これが医学の進歩だそうである、ちょうど悪い人間を善くするのでなく、邪魔だから放り出してしまえというのと大差あるまい、実に非文化的なやり方ではあるまいか、これについて以前私は現代医学の手術は、野蛮極まるとある論文にかいたら、早速警察へ呼び出され、散々御目玉を喰った揚句、過料に処せられた事があったが、これでは野蛮は医学のみではなく、司法行政も同じだと思った事がある、これを一層分り易く言えば、熱が出て冷すというのは、ちょうど怒った人間を殴って押静めるようなものである、痰や洟(はな)、汗、下痢などを止めるのは、ゴミ箱の蓋(ふた)を釘付けにして、掃除が出来ないようにするのと同様であろう、ところが世間一般はこれが進歩した医学と、随喜(ずいき)渇仰(かつごう)して生命を御委せしているのだから、開いた口が窄(すぼ)まらないのである、以上のごとく私は忌憚なく現代医学を批判してみたが、これを読んだら少しは判るであろうと思うが、こうまで言わなければならないのは、むしろ悲しむべきである。
最後に結論をかいてみるが、つまりこれまでの医学の考え方は、表面に現われた結果を押えつけようとして、それのみを研究して来たので、今一歩深く掘下げる事に気がつかないのである、その結果真の原因が掴めないまま、相変らず邪道を進んでいるのである、一切は原因があって結果があるとしたら、現代医学者も何とか目が醒めて、考え直して貰いたいのである。