医学の罪悪観
『栄光』172号、昭和27(1952)年9月3日発行
この標題を見たら、第三者としては余りの意外な言葉に、唖然として私の頭脳を疑うかも知れない。しかし私にして始めて言える言葉で、他のいかなる人も言う資格はないであろう。なぜなれば現在の世界はそのことごとくの民族は、現代医学をもって無上のものと信じ、いささかの疑いもなく、貴重な生命を委せている現状であるからである。そのような中にあって、私一人が医学をもって罪悪視するとしたら、一体いかなる理由であるか知りたいであろう。
しかしながらこのような大胆な事を言い得るには、言い得るだけの確信がなくてはならないはずで、今それを詳しくかいてみよう。まず病気に対する考え方である。私は長年にわたって現代医学のあらゆる欠点を指摘し、特に薬剤を主とする療法を、縦横無尽に解剖し、医学のごとき、だろう的かき方ではなく、断定的に解説するのであるから、いかに確信に満ちているかは言うまでもない。私としても医学に対してあえて怨恨がある訳ではなく、邪念などは寸毫もないのはもちろんであるが、私という者は人類救済の大命を神から委任されている以上、区々(くく)たる感情や、自己の利害など顧慮する事は出来ないので、ありのままの神示を発表するに過ぎないので、この点充分諒せられたいのである。
そうして私は医学の欠陥を知らされたばかりでなく、神から空前の治病力すなわち神の霊光放射の方法をも与えられたのであるから、それを自由に行使して、大衆を救いつつあるのである。これは事実が遺憾なく示している。従ってそれを直接見ないとしても、本教出版物に御蔭話として、無数に発表してある報告を一読すれば、一点の疑う余地はあるまい。まずその効果を正直にいえば、医学の治病力一に対して、本教の治病力は百といってもいささかも過言ではない。ではなぜそのような素晴しい治病成績を上げ得るかというと病原が正確に判ると共に、右のごとき偉大なる神霊光線によるためである。
これによってこれを見れば、現代医学では病気は決して治せないのに、治せるものと誤信している事である。そのため全世界の専門家はあらゆる努力を傾け、病原の発見や治療に予防に懸命になっており、特に新薬の発見は並々ならぬ研究と発見に智能を絞っているにかかわらず、その効果たるやことごとく一時的であるのは、何よりも後から後から新薬が出るにみて明らかである。ところがそれに目覚めない医学者は、現在の学理を進歩させさえすれば、解決出来るものと信じているその盲点で、これを私からみれば実に無益な努力を続けている勿体なさである。いつもいう通り、医療は病毒を固めて出さないようにし、一時的苦痛緩和を治るものと錯覚している事で、真に治る方法である病毒を溶解し、排泄させる事を知らないのである。もっとも知っても方法がないから、どうにもならないが、何よりも現代医療は治るように見えても治らず、むしろ段々悪化の経路をたどる事で、しかも医師も治そうとして熱心に治療するにかかわらず、結果は逆であるのはもちろんである。また医師が見込をつけても見込通りになる事は滅多にないと共に、患者に色々訊かれても、明瞭な答は出来ないのは、誰も知る通りである。
このような事は吾々が言わずとも、医師諸君も充分知っているであろう。従って医師諸君も医療では余りに治らず、予想が外れたり、患者から不平を言われたりするので、その苦衷(くちゅう)は容易なものではないと、以前某医博の述懐を聞いた事がある。そうかといって外に病気を治す確実な方法も見当らないから、不満ながらも医学を棄てる訳にもゆかず噛(かじ)りついているのが現状であろう。
ここで言わなければならない事がある。それは本教浄霊に来る患者の数は年々増加して、今日は全国で非常な数に上っているが、重難症患者は一人の例外なく、医療の結果そうなったというのである。これらを吾々からみると、最初から何もせず放っておけばすでに治っていたのであるが、医療を受けたために悪化に悪化しつつ重難症となり、ついに死の一歩手前にまで追い詰められた、この種の人のいかに多いかは、膚(はだえ)に粟(あわ)を生ずるくらいである。特に薬剤を多く用いた者程、悪化の度もはなはだしいのであるがら、知らぬ事とは言いながら由々しき大問題である。吾々は、いつも新規の患者に向かって言うのである。貴方達は薬という毒を服んで、危ないところまでになり、本教へ縋って来るのであるから言わば自殺未遂者である、というと、患者は目を丸くする。従って本当の事が分ったら、医学はプラスよりも、マイナスの方がどのくらい多いか分らないのであるから、標題の意味は分ったであろう。