医学は迷信か
『栄光』235号、昭和28(1953)年11月18日発行
医学は迷信か否かについての最も分り易い説明をしてみよう。それは何かというと、外国はともかく我国の現在における治病法と名の付くことごとくは、誰も知るごとく医療と医療以外の多くの民間療法で祈祷(きとう)、禁厭(まじない)、信仰療法等々あるが、これらを総計したら恐らく数においては医師以上であろう。しかもそれぞれ相当の繁昌を見せている点から考えても、今後増えるとも減る事はあるまい。としたらこれは何を物語っているかを考えるべきであろう。
これについて有りのまま言ってみれば、医学は世人が思う程進歩していないのである。もし本当に進歩しているとしたら、大衆は何を好んで国家も有識者も口を揃(そろ)えて礼讃し奨励している医学を捨ててまで、疑惑の雲に包まれている非医学的療法に走るかという事実である。言うまでもなく一般人は病気に罹(かか)るや例外なく早速医師にかかる。しかし簡単に治る場合もあるが、中には何程金をかけ、医師も熱心に治療しても思うように治らないのみか悪化する一方で、ついには治る見込はないとして、医師も匙(さじ)を抛(な)げざるを得ない事になる。こうなると患者も助かりたい一心で、あらゆる療法を探し求めるのは当然であろう。人間として命程大切なものはないからである。ところがこの際周囲の者達は口を揃えて言う事は、これ程進歩した医学がありながら、世間からとやかく言われている新宗教などに命を委(まか)すのは迷信に違いないといって、常識論を振翳(ふりかざ)し、極力止めさせようとするのが御定法(ごじょうほう)である。ところが肝腎な病人はそんな事は百も承知であるから応じないのが当然で、このような経緯はお蔭話中にも沢山見らるる通りである。
これを要するに、問題の鍵は医療で完全に病を治しさえすればいいので、それ以外何もないはずである。ところが医療では何としても治らないからこそ窮余の結果他の療法を求めざるを得ないのであるから、むしろ同情すべきである。ところがこんなハッキリしている事を棚へ上げて信仰療法を非難し妨害するのであるから、強(し)いて事実に目を蔽(おお)っているとしか思えない。そうでなければ医学迷信の虜(とりこ)となっているため、盲目となりきっているとしか考えようがないのである。また医師とても御自分が匙を抛げた病人を、吾々の手で助かるとしたら、大いに感謝してもいいと思うのである。そのような事実に対し、医療を何程信用せよと太鼓を叩いても無駄であり、どうしても本当に治る方に赴(おもむ)くのは致し方あるまい。つまり医療が余りに拙劣であるからで、医療で完全に治りさえすれば、黙っていても非医者などに赴く患者は一人もあるまい。こんな簡単な道理が分らずとやかく言うのは、その人達の頭脳を疑いたくなるのである。
以上のごとくこれ程進歩した時代の一面に辻褄(つじつま)の合わないような事も中々少なくないので、それが社会全般に被害を与えているのであるから、全く盲聾(もうろう)の世の中である。ところが右は常識論であるが、これに対して我救世教の浄霊医術である。信者はよく知っているが、まだ知らない人のために一言いうが、医療は前記のごとく無力どころか、それ以上のマイナス的存在である事の認識が出来さえすれば病気の心配からは解放され、真の安心立命を得らるるのである。次に世人の気の付かない今一つの驚くべき事実がある。それは無薬療法すなわち信仰や民間療法で治るのは、その療法の効果よりも、病気を増悪させていた医薬を中止したからである。という訳で皮肉な言い方かも知れないが、信仰療法や民間療法が繁昌するのは結果からいって、医学のお蔭といってもいいであろう。