一種の罪悪
『栄光』129号、昭和26(1951)年11月7日発行
私はいつもいう通り、常に邪神と闘っているが、この具体的表われとして、私が力の限り悩める人を救い、不幸に沈淪(ちんりん)している人を幸福な境遇に導くべく、筆に口に霊的活動に専心努力しているにかかわらず、一方には私のこの仕事が癪(しゃく)に障って堪らないらしい人がある。この人達は何とかして私の仕事を妨害し、やっつけてやろうと常に心掛けているようにみえる。それでこういう人に限って宗教が嫌いで、特に新宗教となるとテンキリ虫が好かないらしい、だからほとんど感情的、ヒステリック的に神仏だの霊の世界などはあるもんか、この地上は空気だけで外には何もないのだ、だから神とか宗教などとぬかす奴は、それを利用して人を瞞(だま)し、甘い汁を吸うんだから怪しからん奴らだ、だから大いにやっつけるべしだと思い込んでいるのである。ところがそのように思い込ませるのは、実は自分自身の本心ではなく、邪神が憑依してそう思わせるのであるが、唯物主義者はそんな事は全然信じないから、盲目的に一生懸命悪魔の思い通り操られて、善に対抗する訳である。一言にしていえば、これこそ神と悪魔の戦いである。もっともこういう事は今始まった事ではない。古くからであって、彼の釈迦に提婆(だいば)、キリストにサタンというように、二千年以上も前から続いているので、独り私だけの問題ではない。としたら今更とやかくいう程の事もないが、この訳を充分分らせないと、知らず識らず邪神の虜(とりこ)となり、善いと思ってする事が、実は邪神のお手伝いをする事になるのだから、実に気の毒な人と言うべきである。
邪神は私の邪魔をする
以上によってみても、この邪神の智慧も仲々馬鹿にはならないもので、いつもその時代の権力者を狙って憑依し、巧妙な理屈を作っては、その人間の想念を狂わせる。例えば正しい宗教に対しても、アノ宗教は邪教だからやっつけなければいけない。アノ宗教を作った奴は怪しからんから葬ってしまえ、というように実に巧みに瞞し込み、しかも非常に執拗である。キリストを十字架にかけたピラトなどもその類である。
右のような訳で、世を救う善の力が強ければ強い程、邪神の方でもそれに相当する強い奴が腕を揮うので、私なども現在邪神界の方から目の敵にされている。彼らは何とか邪魔をしようと苦心惨憺しているが、どんな邪神でも私には憑依出来ない。というのは邪神は何よりも光を恐れるからである。従って信者の中でも誠の強い者に対しては、隙がないからどうしようもないが、アヤフヤな信者となれば、ちょっとした隙を狙っては憑依し、信仰を落そうとするし、またこれから入信しようとする者でも何や彼や妨害して入らせないようにする。これらの事は少し経験のある信者なら、よく分っているであろう。
事件が契機
そういう意味だから、信者以外の第三者なら、邪神は訳なく憑依して自由自在に操るという訳で、それには時の当局者とジャーナリストが一番効果があるので、昨年の事件などもその一つの表われである。そうかといって彼らの行為も、悪意にばかりも取れない事もある。というのは昨年の事件を契機とし、本教団内が大掃除をされ、邪魔をしていた不純分子が一掃され、それ以来頗(すこぶ)る明朗になり、堅実な歩みを続けるようになった事で、一時は腹も立ったが、今日は感謝してもいいくらいである。またその際多くのジャーナリストも手伝ってくれたのだから、これも同じ意味にとってよかろう。
ただ残念な事には、お蔭話にも沢山ある通り、重難病に苦しみ、命までも危うくなった際、本教を勧められても、平常から新聞雑誌に出ているデマ記事に迷わされて、躊躇(ちゅうちょ)浚巡グズグズしている内に、ついに死んでしまう人も少なくない事である。ところがその際意を決して縋(すが)った人は助かって、こんなに立派な宗教を何で新聞雑誌がアンナに悪くいうのだろう、それに瞞されていたので、余計な苦しみと無駄な金を使わせられたと言って、憤慨する人もよくあるが、全く邪神の計画に乗ったためである。こういう訳で、せっかく助かるべき人の命を助からないようにするジャーナリストの行為は、結果から言えば、筆の先で大量殺人を行うようなものである。従って、一人対一人の殺人などは小さなもので、この方がどのくらい大きな罪悪か分らないのである。私はこんな嫌な事はかきたくないが、悪質ジャーナリストを矯正させるには、このくらい徹底しなければ分るまいと思ってかいたので、これも多数の命を救おうとする以上、また止むを得ないのである。
(注)
ピラト(Pontios Pilatos)
古代ローマの皇帝直轄領とされたユダヤ、イドメア、サマリアを治めた第5代総督。在任26~36年。その任期中にユダヤ人が訴え出たイエスを十字架刑に処したことで有名。ユダヤ人の宗教心情を十分理解しないため衝突を起こしたことが記録されている。