学問のズレ
『地上天国』5号、昭和24(1949)年6月25日発行
一口に学問と言うが、学問にも生きた学問と死んだ学問とがある。というとおかしな話であるが、判りやすくいえば、学問のための学問は死であり、学問を実社会に活用するのが生の学問である。しかし真理探究のための学問はまた別で、これは貴重なものである。
まず学問とは何ぞやという事であるが、今日大中小の学校において教科書を経(たて)とし、実地を緯(よこ)として先生から教えられる。ところがその教育方法は幾多の先哲学究が刻苦研讃(こっくけんさん)の結果構成されたもので、今日のごとき学問形態となったのである。もちろん新発見や新学説が表われては消え、現われては打破されその中の価値ある部分のみが、残存集積され来ったのは言うまでもない。その当時真理として受入れられ金科玉条(きんかぎょくじょう)としていたものも、それ以上卓越せる新学説、新発見が現われた事によって跡方もなく消滅したり、また今もって生命を保ち社会の福祉を増進しつつあるものもあり、一切は時がそれを決定するのである。
この意味において、現在絶対真理とし永久不変のものと確信しているものといえども、それを破るところの新学埋がいついかなる人間によって主唱さるるかも分らない。ところがこれは昔からその例に乏しくない事であるが、ともすれば新発見が表われた場合、その新発見なるものはそれまでの既成学理の型には当はまらないのが当然で、当はまらないだけその価値がある訳である。一言にして言えば型破りであり、それが大きければ大きい程、価値が大きいのである、このように旧学説が退陣するという事は、それ以上の新学説が生れたからであり、真理と思ったものが葬り去られるという事は、それ以上の真理が生れたからである。かくして止りなき文化の進展があり得るのである。
私は今一層掘り下げてみよう。それは既成教育は長年月にわたって構成されたところの一応の整った形式が成立っている。ところが文化の急速な進歩は、その固定的形式を非常な速度をもって切り放すのである。最近私は某大会社の社長某氏の述懐を聞いた事がある。その人いわく「十年以上経った大学出の秀才も、今日では実際問題に当って適合しない事が多い。何となれば、その時代修得した学問と、今回の時代とは余りに隔絶しているからで、いわば時と学問のズレである。技術家において特にしかりである」というのである。これらをみても、私がさきに述べたごとく、学理はその時代までの基準が本質である以上、その後の文化の進歩と平行しなければ死んでしまうのである。これについて今一つの例を挙げてみよう。それは今日の政治家は、非常に型が小さくなったと言われる。つまり肚(はら)の大きい、腹芸をやるような政治家はほとんど見当らない。この頃の大臣は機略など薬にしたくもなく、ただ当面発生した問題のみを処理するに汲々(きゅうきゅう)たる有り様で、肚が見え透いていると言われる。これは何がためであるかというと、今日の大臣級は官立大学出であり、古い学理に捉われ勝で、何事も理屈一点張りで、理外の理というものを知らない。ちょうど自動車の走っている街路に馬車を曳き出そうとするようなもので、馬車の操縦は習ったが自動車は知らないと同様であろう。全体、学問は人間の頭脳を開発しある程度の基礎を作るものであって、いわば建築なら土台である。その基礎の上に新建築を打建てなければならない。すなわち学問を活用し、進歩せしめ新しいものを作るのである。日進月歩の文化と歩調の合う事である。否それ以上に前進し指導的役割をすることこそ生きた学問である。彼の米大統領トルーマン氏が、一九二一年頃は小間物雑貨商人であったとは彼が最近の言明で、これによってみても彼の実社会的経験がいかに役立ったかは想像に余りある。
私は十数年以前から、医学に関する新学説を唱え、それを著書として発刊するやたちまち発禁となった。三回までも発禁となったのでやむを得ず今は諦めている、それは現在の医学とはおよそ反対の説であるからとの理由によるのである。ところがその実績においては、現代医学の治癒率に対し、私の医学は数十倍の効果を奏する事で、しかも一時的ではなく根本的に治癒するのである。これは一点の誇張もない事実で、著書の中にも「実験にはいつでも応ずる」旨を書いておいたにかかわらず、当局も専門家も一顧だも与えないので、どうしようもないのである。
そもそも医療の目的はあらゆる病患を治癒し、人間の健康を増進させ、寿齢を延長させるという以外に何の目的があろう。いかに学理を云々し、唯物的施設や、機械的巧緻を極めるといえども、右の目的に沿わない以上、何らの意味もない事になる。私の説がただ既成医学の理論と異なるのゆえをもって、何らの検討もなく抹殺してしまうという事は、文化の反逆者たる譏(そしり)は免れまい。しかも政府がそれに絶対の信を与え何ら疑義を起さないのであるから、現代人こそ洵(まこと)に哀れな小羊というの外はない。
以上に述べたごとき大胆極まる私の説は何がゆえであろうか。私といえども狂人ではない、絶対の確信がなければ発表し得らるるはずはない。全く今日進歩したと誇称する医学には恐るべき一大欠陥の伏在している事を私は発見したのである。この発見こそ今日までのいかなる大発見といえども比肩するものはあるまい。何となれば人間生命の問題の解決に役立ものであるからである。ゆえにこの大欠陥に目覚めない限り、人間の病患は決して解決出来得ない事を私は断言するのである。しかし近き将来現代医学が一層進歩したあかつき、必ず発見さるるであろう事も予想し得らるるのである。
翻(ひるがえ)って衢(ちまた)を見る時、誤れる医学によって重難病に呻吟しつつある憐れな者がいかに多数に上るかは何人も知るところであろう。これらを見る時、吾らは到底晏如(あんじょ)してはいられないのである。ここにおいて私は今のところ、ただ神に祈るより外に術はない。
嗚呼、この誤れる医学に一日も早く目覚めさせ給え、しこうして人類の健康を全(まった)からしめ給え。万能の神よ!
(注)
金科玉条(きんかぎょくじょう)、金玉の科条(法律)のこと。最も大切にして守らなければならない規則、法律。