神と硝子玉
『栄光』225号、昭和28(1953)年9月9日発行
私が唱えている医学の誤謬の根本としては、何といっても医学を科学の分野に入れた事である。元来万有の構成原理は、人間と人間以外の一切とは、根本的に立別けられており、本質ももちろん異(ことな)っている。それというのは元来人間は地球の王者であり、支配者であるに対し他のあらゆる物質は、ことごとく人間に隷属(れいぞく)しており、人間の自由意志のままに動かされ、人間の肉体を保護し、人間生存上必要なそれぞれの役目を果しているからであって、分り易くいえば主人と家来との違いさである。この理によって人間以外のあらゆる物は、人間が作った科学によって思いのままに変化させ進歩させることが出来るのは当然で、それがため現在のごとき素晴しい文明が構成されたのである。しかも最近に到っては原子科学というような驚くべき発見がある等々、これら現実を見る人間は、ついに科学一辺倒となり、何物でも五感に触れないものはことごとく非科学的と言う、今日の人間にはお誂向(あつらえむき)の魅力ある言葉をもって抹殺してしまい、これが社会通念となっているのである。特にこの考え方が智識人に多く、文化人のマークとなっている程で、形は異(ちが)うが迷信邪教信者と何ら撰(えら)ぶところはない。その結果科学の分野に非(あら)ざる人間生命の問題にまで立入ってしまった。それが医学であるからむしろ僭上沙汰(せんじょうざた)といっていい。そのような文化的侵略者たる医学としたら、真の医学ではないことはもちろんであり、このような非医学をもって生命の神秘を暴(あば)こうなどは、木によって魚を求むるのと同様である。
この意味から私は医学の誤謬に対し、事実をもって彼らの眼を開かせ、真の医学を教えるので、これが神の意図である。つまり病だけは神の力以外地球上に治す力はあり得ないのである。これを一層徹底的にかいてみると、今日医学が病原としているのは、言うまでもなく黴菌である。菌発見以来医学が画期的進歩を遂げたのは衆知の通りであって、その後長期間に渉(わた)る経験によっても、予想外に不成績であるにもかかわらず、邪教信者と同様一度信じた上はそれが逆結果であっても目に入らないという迷盲である。
そうして前記のごとく、病原はことごとく菌としており、菌さえ殺すことが出来れば、万病は解決されると固く信じ、それのみに向って研究している。従って顕微鏡という硝子玉(ガラスだま)が、医学の鍵を握っている訳であるから、この硝子玉こそ人間の生命を自由にしている神以上の存在である以上、万物の霊長様も実に情ないものである。この頭脳によって宗教を観る時、神の実在を否定するのも当然であり、なおこれで判ったことは医学が尊い人間の肉体を矢鱈(やたら)に切り刻(きざ)むのも、これまた当然である。この意味において私が今実行しつつある救いの業こそ、神と硝子玉との闘争であって、どちらが勝つかこれは読者の判断に委せるとして、次に重要なことは、現在顕微鏡で見得る限度は二十万倍とされている。これでみると現在は二十万倍以内の大きさの菌を対象とし、その菌を殺す方法に専念しているのである。ところが実は菌の限度は二十万倍どころか、百万倍あるいは一千万倍にも上るか知れない。否それ以上無限かも知れないと推定される。たとえば大空の無限大なるごとくその反対は無限小であるからである。としたら帰するところ病菌といえども無限小であるに違いないから、これを殺すとしたら科学で造る有限力では駄目であり、どうしても無限なる病原は、無限の力でなくてはならないはずである。無限の力とはもちろん神の力であり、神の光である。この光を自由無碍(むげ)に行使する機関こそ特殊の人間であり、その人間こそ私というものである。何よりも現在現わしつつある治病の実力をみても分ると共に、益々それを信ずる人々が増えつつある趨勢(すうせい)を見ても何ら疑うところはあるまい。自分でいうのも心苦しいが、かくのごとき超人的力を有する者は、古往今来一人もないのは誰も知るところであり、昔からいわれている神人合一もこのことである。ゆえにこの著を読めば分るが、その説くところ神霊の解剖であり、人間生命の本原であり、キリスト、釈迦、マホメットの三大聖者を始め、いかなる聖者も説き得なかったところの、深奥無極の真理の開明であり、天国の福音でもある。