―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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活字の浄霊

『栄光』184号、昭和27(1952)年11月26日発行

 この題を見たらちょっと見当が付くまいが、左に説くところを読んでみればなるほどと合点がゆくであろう。それは私のかいた文章を読む事によって、目から浄霊を受けるのである。ではどういう訳かというとすべては文章を通じてかく人の想念がそのまま映るものであるからで、この点充分知らねばならないのである。これを霊的にみれば、つまりかく人の霊が活字を通して読む人の霊に通ずるので、この意味において私がかく文章は神意そのままであるから、その人の霊は浄まるのである。
 このように読書というものは、読者の魂を善くも悪くもするものであるから、作家の人格がいかに大きな影響を及ぼすかはもちろんである。従ってたとえ小説のようなものでも、新聞記事でも同様で、この点作家もジャーナリストも、大いに考えて貰いたいのである。といっても固苦しい御説教がよいという訳ではない。もちろん興味津々たるものでなくては、好んで読まれないから役に立たない訳で、面白くて読まずにおられないと、いうような魅力が肝腎であるのはいうまでもない。
 ところが近頃の文学などをみても、売らんかな主義のものがほとんどで、単なる興味本位で評判になり、本も売れ、映画にもなるというような点のみ狙っているとしか思われないものが多く、読み終って何にも残らないという活字の羅列にすぎないのである。こういう作者は小説家ではない、小説屋だ。人間でいえば骨のないようなもので、一時は評判になっても、いつかは消えてしまうのは誰も知る通りである。
 そうして現在の社会を通観する時、社会的欠陥の多い事は驚くくらいであるから、その欠陥をテーマの基本にすれば取材はいくらでもある。私は映画が好きでよく観るが、たまたまそういう映画に出遭った時、興味津々たると共に何かしら知己を得たような気がして嬉しいので、その作者やプロデューサーに頭を下げたくなるのである。しかもそういう作は必ず評判になって、世間からも認められ、本屋や映画会社も儲かるから一挙両得である。以上思いついたままかいてみたのである。