現代医学に対する哲学的考察
『栄光』161号、昭和27(1952)年6月18日発行
私は常に現代医学の迷蒙なる点を指摘しているが、ここで科学にも宗教にもよらない哲学的見地から、批判してみようと思うのである。それについてはまず人 間なるものの実体であるが、人間誰しもオギァーと生まれるや、親の乳を呑み、段々育つに従って固形物に進んでゆき、空気、水、太陽の恵によって、一人前に 育つとなるや、人間各々の天性による特長、技能を発揮し、社会構成の一員となるのは今更言うまでもないが、それらを意識的に行う人は少なく、一般は無意識 的にそれぞれの役目を荷(にな)うのである。そこでこれらをよく考えてみるとどうしても目に見えない何物かに命令されたとしか思えない程に、決定的に従わ せられている。これを名付けて人間は運命というが、しかしこの運命に満足する者は至って少なく、大抵な人は不満が起ってそれに反抗しようとする。ところが 運命という奴実に皮肉なもので、逆らえば逆らう程、反対に運命の反撃に遭い不幸な目に遭う。むしろ運命に従順である方が、反って倖せになるのは注意してみ ればよく分るのである。そこでこの運命について一層深く掘下げてみると、どうしても誰かがこの運命の綱を握っていて、自由自在に操っているとしか思えない のでこの誰かこそこの世界の支配者、すなわち絶対者である事も信じない訳にはゆくまい。
ところが右のごとき絶対者は別として、誰にも分り易い人間の運命を左右してる今一つのものがある。それは何かというと病である。この病こそ大変な曲者 で、一つよりない人間の生命を絶えず揺ぶっている暴君的存在である。というように運命の鍵を握っているのは、絶対者すなわち神とそうして病であるのはもち ろんである。もっとも昔から病神と言う言葉もあるくらいだから、満更縁がないでもないが、右の次第でとにかくこの病さえ征服する事が出来たなら、人間の運 命の半分は解決出来た訳である。だがそのような病を征服する力がこの世の中にありやというに無論今までの世界にはなかったが、二十世紀の今日これが出現し たのであるから大問題である。それは言わずと知れた我メシヤ教の生誕であって、今いう幸運の鍵は確実に本教は握っているのである。従って本教が世界に拡が るに従い、病人は漸次減少し、その結果人間の寿齢は百歳以上になるのは当然である。ところが現在の事実を見ると、今日六、七十歳になったといって、これが 医学の進歩のためとしているが、これこそ飛んでもない短見である。何となれば医学の全くなかった二千有余年前ですら、史実に明らかなごとく百歳以上の寿命 は通例となっていたらしい事である。しかもその時代には医薬は全然なかったのであるから、現代人としたら実に不可解千万と思うであろう。
右についてよく考えてみると、人類は二千有余年以前、医聖ヒポクラテスが創成された医学が、ここまで進歩したといっても右のごとくであるとしたら、どこ かに大いに誤った点があるに違いないのは、あえて呶々(どど)を費(ついや)す必要はあるまい。その上病の数でさえ年毎に増え、伝染病の脅威も益々加わる という不安極まる現状を見れば昔人とは到底比較にならない程の深刻さである。にもかかわらず医学信頼の迷夢は到底醒めるどころではなく、益々盲目的に突進 しているのであるから、その無智なる評する言葉はないであろう。そんな訳で人々の考えは病気は容易に治らないもの、医療はいか程進歩しても病気の解決は困 難であると決めているのである。にもかかわらずこれを進歩させさえすれば解決するものと漫然と信じていると共に専門家といえどもそう信じて熱心に努力研鑚 の結果、新薬や新療法を次々出すのであるが、何しろ根本が的外れであるから、効果はいずれも一時的で、時が経てば駄目になってしまう例は、常に嫌という程 見せつけられている。従って専門家の中でも心ある者は、医学の進歩に疑問を抱いているので、我浄霊法を知るや転向すべく考えている人も相当あるようである が、何しろ肩書の名誉に経済的不安等も伴うので、容易に決心がつき兼ねているらしいのである。
以上のごとき盲目悲惨なる現在の世界を救うべく最高の神は我メシヤ教によって、医学の真理を全人類に開示され給わんとされているのである。
(注)
呶呶(どど)、やかましくいう事。