現当利益
『栄光』77号、昭和25(1950)年11月8日発行
本教は、自画自讃ではないが、現当利益の素晴しい事である。昔から幾多立派な宗教が生まれ、今なおキリスト教、マホメット教、仏教の三大宗教を初め、有力なる宗教がそれぞれの地位を確保しているが、そのほとんどは出発時から、精神方面の救いを専らとして来た事は誰も知るところである。
本教は、開教後日いまだ浅く、他に比べては教線はなはだ微々たるものではあるが、それでも発展の速かなる事は、前例がないとさえ言われ、注目の的になっており、そのため五月蝿(うるさ)い事も多いが、これもまた止むを得ない過渡期の現象であろう。といってもこれは時の問題で、いずれは公平なる世の批判の下に真価を認められる日の来る事はもちろんである。しかし本教も他の宗教と同様、教義もあれば理想もあって、精進努力しつつあるが、それについて本教が既成宗教とは根本的に相違する点があるのをかいてみよう。この点が認識出来なければ、本教の実体は掴み得ないのである。
それは何であるかというと、本教は現当利益が大いにある事である。それに対し有識者等が、宗教を観る場合、現当利益的宗教は低級であるとし、ほとんど歯牙にかけない態度である。しからばなぜそうであるかを考えてみるに、それには訳がある。今日本における数ある宗教を見渡したところ、世俗的のものと非世俗的のものとの二種がある。一方は例えば何々稲荷とか、何々様とか、何々明神とかいうのが、信仰の対象となっており、これら信仰者は例外なく現当利益が目的で、理論も哲学も智性的のものはないといっていい人達で、ただ御利益本意であってみれば、識者からみれば愚劣で、問題視するには足らないものとしている以上、現当利益追求は、直に低級信仰と決めてしまうのである。
そこで現当利益など問題にせず、教義を学問的に扱い、巧妙に理論付けている宗教形態を高く評価する。しかも相当古い歴史をもっており、その間有名な中興の祖や、幾多の高徳(こうとく)が排出している以上、その宗教を重視するという訳で、これらを高級と見なすのである。要するに看板が物を言う訳である。これに対し私は率直に批判の言葉をかいてみるが、ともかく前者の信仰は卑俗的ではあるが、事実は予想以上に一般民衆をリードしている。何しろ民衆としては智的レベルが低いため理論もヘチマもない。ただ時々お参りに行き、何かの願望を祈願し、金銭を献(ささ)げてそれで満足感に浸って来るのだから、至極簡単である。しかしこれらの信仰も社会人心にとってある程度のよい感化を与えている事は争えない、というのはこういう信仰でも見えざるものを信ずるという唯心観念からである以上、唯物主義に固まったものよりは、社会上プラスになっているのは確かである。仮にも神仏を拝むくらいの心の持主であるとすれば、平気で兇悪犯罪など犯す訳はあるまいからである。
次に後者であるが、これは前者と違い、見えざるものは信ずべからず、見えざるものを信ずるのはことごとく迷信であるとして排斥する人達で、現在有識階級に最も多いようである。もちろん唯物主義者である以上、宗教を学問的に扱うのを可としている。ゆえに彼らは宗教を云々する場合、ことごとく理論化し哲学化されなければ承知しないので、吾らから観ても、その論旨なるものの多くは外皮的浅薄極まるもので、吾らを批判する場合も単なる悪口にすぎないのである。従って本当に宗教を批判するとしては、その宗教に深く没入し、内容に向かって鋭い眼をもって、その実体を見極めるべきである。そうしてどこまでも主観を捨て去り、白紙となって批判すべきである。由来宗教の本質は、外容的のものではない。内在的のものである。としたら彼らの批判的態度も大いに革(あらた)める必要があろう。
右のごとくであるから、本教にしては批判の場合外廓だけをみて、現当利益本位だから世俗的信仰だと決めてしまおうとする、不親切な軽率さである。これを改めない限り百の批判も意味をなさないといってよかろう。ゆえに本当に本教を検討すれば判るが、本教は世俗的信仰でもあり、理論的宗教でもある。いまだ嘗(かつ)て人類に経験のない超宗教と言ってもいい。そればかりではない、本教の主張は独り宗教に関するもののみではない。医学も、農業も、芸術も、教育も、経済も、政治も人事百般重要な部門はことごとく対象としており、最高の指針を与えている。これを一言にしていえば、信仰即生活の理論を如実に表わそうとするのである。
(注)
高徳(こうとく)、徳がすぐれて高いこと。また、徳のすぐれて高い人。