奇蹟の解剖
『栄光』107号、昭和26(1951)年6月6日発行
奇蹟とは一言にしていえば、あり得べからざる事実がある場合をいうのであるが、実は有り得べからざるところに有るという事は、本当はないのである。だからあると思うのは、それは誤解以外の何物でもない、というと何だかややこしい話だが、その理由を左にかいてみよう。
右は、有り得べからざる事と、決めてしまっているその既成観念が、既に錯覚なのである。何となれば、その観念こそは表面に現われた、すなわち現象そのものだけを観て、決めてしまうからである。もちろん、現在までの物の考え方は、唯物的社会通念を通して見るのであるから、たまたま、変った事があると、不思議に思えるのである、すなわちあるべきはずがないのに、まざまざと見る事実である、例えば高い崖から落ちた子供が何ともないとか、自転車へ自動車が衝突しても、怪我もなければ、時には車が少しも破損しない事さえある、汽車へ乗り遅れたので、次の汽車へ乗ると、前の汽車が脱線転覆したり、衝突したりして難を免れる。入りかけた泥棒が浄霊で逃げてしまったり、盗まれた物が間もなく戻ったり、隣家まで焼けて来た火事が浄霊するやたちまち風向が変って助かるというように、大なり小なり特別奇蹟の多い事は、本教信者の常に体験するところである。
右のごとき、種々な奇蹟は、一体どういう訳で起るのであろうか、どこに原因が潜んでいるのであろうか、という事は誰もが、大いに知りたいと思うであろうから、ここに書いてみるが、言うまでもなく奇蹟の元は、実は霊界にあるのである、しかし奇蹟にも自力と他力があるから、まず自力の方からかいてみるが、私が常にいうごとく、人間には霊衣と言って霊の衣(ころも)がある、それは普通人には見えないが、身体の形の通り、白色の霧のようなものに蔽(おお)われている、もちろん厚い薄いがあるが、これは魂の清濁によるので、魂の清い程厚いのである、普通人はまず一、二寸くらいだが、有徳の人は二、三尺、神人となると無限大である。それに引換え濁った身魂は、霊衣が薄く貧弱である。
そうして災難を免れる場合、例えば自動車が人間に衝突しようとする刹那(せつな)、自動車にも霊があるから、人間の霊衣が厚いと、突当る事が出来ないで、横へ外れてしまうので助かる、高い所から落ちた場合、霊衣が厚いと地や石の霊に打(ぶ)つかってもフンワリ軽く当るから、怪我をしないし、また家にも霊があるから、その家の主人が有徳者であると、家の霊衣が厚いから、火事の時など火の霊はそれに遮(さえ)ぎられて、燃え移らないのである。熱海大火の際、本教仮本部が不思議に焼けなかったのもその意味である。しかし稀には焼ける場合もない事もないが、それは焼ける必要があるからで、これは神様の経綸のためだが滅多にはない、次に他力の場合をかいてみよう。
そもそも人間には本、正、副の三つの守護神がある。この関係は以前かいた事があるから略すが、右の中の正守護神とは、祖霊の中から選ばれた霊で、危急の場合助けたり、重要な事は夢で知らせたり、また特殊の使命をもつ者は神様(大抵は産土神)がお助けになる事もある。例えば汽車が衝突しようとする場合、神様はどんな遠くでもよく知られるから、一瞬にして汽車の霊を止めてしまう、その場合何百、何千里でも、一秒の何十分の一の速さでその場所へ到着し救われるのである。以上によってみても、奇蹟なるものは、決して偶然やマグレ当りではなく、立派に理由があるのであるから、それが判ったなら、奇蹟は不思議でも何でもない事になる、だから私などは奇蹟があるのが普通で、奇蹟がないと不思議に思うくらいである、この例としてたまたま難問題に打(ぶ)つかって、解決がグズグズしていると、もう奇蹟がありそうなものだと待っていると、間もなく奇蹟が出て解決する事がよくある。これは信仰が深く、徳を積んだ人はそういう体験は数ある事と思う。従って、人間は善を思い、善を行い、徳を積み、霊衣を厚くするよう心掛けていれば、不時災難など決してないのである。また霊衣の厚い人程接すると何となく温味を感じ、慕わしい気持が起る、よく人を惹きつけると言うのはそういう人である。だからこういう人には自然多くの人が集ってくるもので、仕事も旨くゆき、発展するようになるのである、今一つの例を挙げてみるが、以前から私が行き始めると、その家は必ず繁昌する、また私に接近する人は、必ず発展し幸福になる、これは私の霊衣の幾分でも貰うからである。