―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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五智を説く

『光』23号、昭和24(1949)年8月20日発行

 単に智慧といっても種々ある、今それを分類してみよう、まず最高は神智、次が妙智、叡智、才智、奸智の順序で大別して五段階になる、私は名づけて五智という、これを一つずつ説いてみよう。
 神智とは最高の智慧で、これは普通人には得られない、特別の人間が神授の智慧で、それはその人が重大使命を神から委任されたからである、昔から「学んで知るを人智と言い、学ばずして知るを神智」と言うが、一言にしてよく表わしている。
 妙智というのは、観音妙智力などといい、前述の神智に対し仏智ともいうべきもので、神智は男性的とすれば妙智は女性的ともいえるので、妙の字が女偏であるのも面白いと思う。
 叡智とは、賢明な人間が表わす智慧で、仏教で智慧証覚とか、単に智慧というのはこれを指すのである、しかし今の世の中はこの叡智さえも働かない人が洵(まこと)に多いのである、それはいうまでもなく邪念のために心が曇り、物の正しい判断がつき難いからである、この例を一つかいてみよう、今日政治家はもちろんの事、あらゆる有識者といえどもある問題に対し会議をする場合、小さい問題でも、多数の人間が何時間も掛って頭をひねらなければ結論が見出せない、少し大きな問題になると十数人あるいは数十人が額を鳩(あつ)め侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を闘わし、何回も何日も会合しても仲々結論を得られないというのであるから、いかに頭脳の働きが悪いかという事である。
 考えても見るがいい、いかなる問題といえども結論はたった一つである、決して幾つもありようはずがない事は誰しも知っていながら、それが多勢の頭脳と幾日もの日時がかかるというのであるから、実に情ないの一言に尽きると吾らは常に思っている、これというのも全く叡智が足りないからで、叡智の足りないという事は頭脳が曇っているからで、頭脳が曇っているという事は邪念があるからで、邪念があるという事は唯物主義を信奉するからで、唯物主義を信奉するという事は神の実在を信じないからで、神の実在を信じないという事は神を信じさせ得る宗教がないからであるとすれば神の実在を如実に信ぜしむる宗教こそ、本当に役立つ生きている宗教といってよかろう、かように諄々(くどくど)しく言わなければならない事程さように現代人は叡智が欠けているという訳である。
 この意味において叡智ある人は、いかなる問題に打(ぶ)つかっても、数分間ないし数十分間に結論を発見し得るのである、これについて私は部下に対し、いかなる問題に当っても結論を見出すまでの論議はまず三十分くらいを限度とし、長くとも一時間以上になる場合は、その会合を一時中止すべきであって、他日を期して再会議するか、または直接私に相談せよというのである。
 私の事を言うのは心苦しいが、私はどんな難問題に対しても数分間で結論を見出すのである、たまには急速に結論を見出し得ない場合もあるが、そういう時は強いて見出そうとしないで一時それを延ばすのである、そうすると日ならずしてインスピレーション的に必ず結論が頭に閃めくのである。
 次に才智であるが、これは誰も知っている通り表面だけの浅智慧であるから一時的良くても時が経つと必ず失敗したり信用を落したりする、言い換えれば愚智または鈍智とも言えるのである。
 奸智は、これも読んで字のごとく邪悪の智慧でいわば悪人の用いる智慧で悪智慧ともいう、これも世間にはなかなか多く、しかも智〔知〕識階級、指導者階級にも相当多いのだから社会が良くなりよう訳がない、ゆえにこういう悪智慧が抹殺される日本になってこそ、明朗な社会が出現するのである、しからばこの奸智を抹殺する方法はありやというに、それは訳はない、悪智慧の発生地を全滅させる事である、その方法こそ神の実在を信じさせる力ある宗教の活動による外はない。