幸福の秘訣
『光』29号、昭和24(1949)年10月1日発行
幸福の秘訣などというと、何か特別の魔法でも使うように想うかも知れないが、決してそうではない、至極当り前の話である、ただその当りまえの事を世人はあまりに気がつかないのである。
今社会全般を見渡した時、真の幸福者は一体幾人あるであろうか、恐らく一人もないといってよかろう、事程、さように苦悩の世界である、実にいかなる人といえども失敗、失業、病苦、貧困、不和、懐疑、悲観等、実に首伽、足伽をはめられ、牢獄に呻吟(しんぎん)しているというのが有りのままの姿であろう。
まず、誰しも平静になって考える時、こういう疑問が起るであろう、全体造物主である神様は、人間を造っておきながら、これ程苦しませるという事はどういう訳であろうか、なぜもっと不幸よりも幸福の多い世界にしてくれないのであろうかと思わない訳にはゆくまい、と考えると何かそこに割り切れないものがあるに違いない、従ってその割り切れない点を誰しも知りたいであろうから、それを説明してみよう。
人間の発生した原始時代から今日ただ今まで厳然として存在を続けているものとしてはまず善と悪とであろう、これは真理である、そうしてこの善悪という相反する性質のものは、常に摩擦し争闘しつつ、今もって勝負がつかないでいる、ところが、よく考えると、この善悪の摩擦によって今日のごとき文化の発展を見たのであるという事もまた真理である、この事について私はよくたずねられた事がある、それは神様は愛であり、慈悲であるとしたら、最後の審判などといって人間に悪い行いをさせ、罪を作らせておきながら、それを罰するというのはどうも訳が分らない、最初から悪人を作らなければ罰も、審判の必要もないではないかと言うのであるが、これはもっとも千万な話で、実をいうと私もそう思っている、しかしながら私が人間を造ったとすればその説明は容易だが、私といえども造られた存在である以上徹底した説明は出来ようはずがない、強いて説明をすれば神の御心はこうであろうと想像する以外、説明のしようはないであろう、とすれば、そんな穿鑿(せんさく)は有閑人(ゆうかんじん)に委(まか)せて、吾々としては現実を主とし、生ある間幸福者たり得ればそれでいいのである。ゆえに何よりも右の根源を発見し実行する事である、ではその方法はといえば常に吾々のいう、他人を幸福にする事で、ただこの一事だけである、ところがそれには最もいい方法がある、その方法を私は長い間実行していて、素晴しい好結果を挙げているので、それを教えたいためにこの文をかいたのである。
右をまず簡単にいえば、出来るだけ善事を行うのである、始終間さえあれば何か善い事をしようと心掛けるのである、例えば人を喜ばせよう、世の中のためになら妻は夫を気持よく働かせるようにし、夫は妻を親切にし安心させ喜ばせるようにする、親は子を愛するのは当然だが、叡智を働かせて子供の将来を思い、封建的でなく、子供は親に快く心服し、愉快に勉強させるようにする、その他日常すべての場合相手に希望をもたせるようにし、上役に対しても下役に対しても愛と親切とを旨とし出来る限り誠を尽すのである、政治家は自分の事を棚上げにして国民の幸福を第一としすべて模範を示すようにする、もちろん、一般人も一生懸命善事を行う事につとめ智慧を揮い、努力するのである、かように善事を多くした人程幸福者になる事は受合である。
以上のようにみんなが気を揃えて善事を行ったとしたら、国家も社会もどうなるであろうかを想像してみるがいい、まず世界一の理想国家となり、世界中から尊敬を受けるのはもちろんである、その結果あらゆる忌わしい問題は解消し吾らが唱える病貧争絶無の地上天国は出現し人民の幸福は計り知れないものがあろう事は、大地を打つ槌は外れてもこれは決して外れっこはない。
ところがだ、現在としての現実はどうであろうか、およそ右と反対で、悪事を一生懸命しようとする人間が滔々(とうとう)たる有様で、嘘をつき人を誤魔化し、己のみうまい事をしようとして日もこれ足らずの有様である、実に悪人の社会といっても過言ではない、これでは幸福などは千里の先へ行きっきりで帰るはずはない。その上困った事には、こういう地獄世界を当然な社会状態と決めてしまって、改革などは夢にも思わないのである、しかも吾々がこういう地獄世界を天国化すべく活動するのを妨害する奴さえある、これこそ自分から好んで不幸者となり、最低地獄へ落ちるようなものである、こういう人間を吾らからみる時、最も憐むべき愚人以外の何物でもないと共に吾らはこれらの人間の救われん事を常に神に祈願しているのである。
あまり長くなるからここで筆を擱(お)くが、以上の意味をよく玩味すれば、幸福者たる事は、あえて難事ではない事を知るであろう。
(注)
有閑人(ゆうかんじん)、ひまな人。