―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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名人の失くなった理由(二)

『栄光』191号、昭和28(1953)年1月14日発行

 次に今度は美術界特に画家方面をかいてみよう。この方も近頃は名人と云われる人はほとんど失くなった。ただ僅かに玉堂、大観の両大家が残っているくらいである。もちろん両画伯とても年が年だから、そう長くは期待出来ないから日本画壇の前途を思う時、当分は寂しさが続くであろう。その他の有名画家にしても、有りのままをかいてみれば、技術の方は益々円熟の境に達しているが、その反面まことに活気が乏しく、特に大家程その傾向が著しいようである。その中で今日ともかく元気な人としては龍子画伯くらいであろう。という訳で近頃の展覧会へ行っても、大いに引きつけられ印象に残るような作品はほとんどないといってよかろう。それにつけても懐(おも)い出すのは、院展が出来てから後のアノ頃の華やかさである。何しろ次から次へと素晴しい傑作が出るので展覧会開催の日が待遠しいくらいで、それを今日に比べるまでもなく、時代の推移として諦めるには余りに残念に堪えないので、むしろ一面不思議とさえ思えるのである。そうして最も遺憾な点は、東洋画の生命である筆力の没却である。なるほど有線画も多少あるにはあるが、実に弱々しい細い線で、輪廓だけを後生大事に描き、そこへ絵具を塗るだけであるから、迫力もなければ深味もない。そこへゆくと古人の名画に至ってはアノ味わいといい、ボリュームの豊かさといい、何ともいえない魅力があり、観ていて暫くは目が離せない程で、見終って軽い疲れさえ覚えるのである。これは多くの好事家も同様であろうが、全く芸術の匂いとその高さである。
 ところが今日有名画家の画としても、その弱さはまるで病人の絵を見るようで、その上塗抹絵(とまつえ)と来ているからなおさらである。これこそ筆力が思うように出ないのと、描き損っても塗抹で直せるからであろう。近来油絵式が旺(さか)んになったのもその辺にあると私は思っている。そうして近頃の展覧会を見て気の付く事は、大家の画も初心者の絵も左程異(ちが)いのない事で、落款(らっかん)を見てそれと分るくらいである。というのは考えるまでもなく、大家といえども油絵の模倣は初心者と同様であるからである。そこへゆくと以前は一見して大家の作は直ぐ分る。断然光っているからで、この点からいっても今日の絵の真価が分るであろう。という訳で近頃の展覧会を見終るや、失望、落胆、悲哀、憤怒交々(こもごも)湧くのはどうしようもないので、せっかく楽しまんがための当(あて)が外れて、苦しみのお土産(みやげ)を頂戴する訳である。以上は少し酷評すぎるかも知れないが、日本画の将来を思うとどうしても言わざるを得ないのである。では一体この原因はどこにあるかというと、私は真の原因を知っているから、次に詳しくかいてみよう。これについて前もって言いたい事は支那(シナ)の古名画であって、これは画家も好事家もよく知っている通り、特に宋元時代の画である。その中で傑出しているのは、何といっても彼の牧谿(もっけい)と梁楷(りょうかい)であろう。この両者については以前武者小路実篤氏がかいた事があるから、読んだ人は知っているだろうが、東洋画としての最高峰であり、神技といっていいくらいで、見る度に頭が下るのである。その他としては顔輝(がんき)、馬遠、馬麟、高然暉(こうねんき)、日観等であるが、右はいずれも墨絵であって、彼の千の利休が茶会を催す毎に必ず墨蹟を掛けるが、画としては牧谿だけだという事を何かの本で見た事がある。そうしてこれらの名画を見て最も驚く事は、その筆力の雄渾(ゆうこん)さである。この筆力こそ宋元画独特のもので、日本人は固(もと)より外国人も嘆賞措(お)く能わざるものとしている。
 そうして日本でこの宋元画を学んで生まれたのが、彼の東山時代における雪舟、周文、啓書記(けいしょき)、雪村、蛇足等の逸才であって、この人達こそ日本絵画の祖といってもよかろう。しかしながら宋元画に比べたらもちろん遜色あるのは致し方ないとしても、その後に生まれた日本独自の絵画こそ特筆すべきものである。すなわち仏画、土佐派、琳派、大和絵、浮世絵等がそれであって、これだけは日本絵画芸術のため大いに気を吐いており、世界に光っているのは誰も知る通りである。次に明治以後も相当巨匠が現れたが、何といっても琳派を骨子(こっし)とし、西洋画のいいところを採入れて成功した美術院派と、今一つは稀世の天才栖鳳を中心とした京都派であろう。この二者によってそれまで長夜の夢を貪(むさぼ)って、旧態依然たる日本画壇に一新生命を吹込んだのは確かで、その功績は高く買ってよかろう。その後戦争の影響によって暫くは沈黙状態であったのが、国の復興と相まってようやく動き始めたので喜んでいたところ、意外にも前記のごとしとすれば、私は長大息せざるを得ないのである。嗚呼(ああ)一千年以上に及んで積上げて来た日本画の美の殿堂が、今や揺ぎ始めたのである。しかもその跡へ打樹てられようとしているのが泰西(たいせい)の殿堂であるとしたら事はすこぶる重大である。もっとも日本画も相当以前からこの傾向はあるにはあったが、これは新しい時代芸術を生む温床として、私は好い意味に解釈して来たが、何ぞ知らんいつの間にか裏切られ、プラスと思っていたのがマイナスになったのである。
 以上大体分ったであろうが、ではなぜこのような傾向が生まれたかという事であるが、これには大いに原因がある。それを次にかいてみよう。


(注)
川端龍子(かわばたりゅうし、1885-1966)
日本画家。和歌山市に生まれる。1904年(明治37)中学校を中退し、葵橋洋画研究所、太平洋画会研究所で洋画を学んだ。院展で頭角を現し、17年には同人に推された。28年(昭和3)に美術院を脱退、翌年、主宰する御形塾を母胎として青龍社を創立した。59年に文化勲章を受章。62年、青龍社創立35周年を記念して自邸に龍子記念館を建設し、自作を公開した。

牧谿(もっけい)
中国、宋末・元初の画僧。法名は法常、牧谿は号。西湖六通(りくつう)寺の開山という。多岐にわたる水墨画を描いたが当時興った文人画の系列でなく軽視された。日本へは早くから伝わり、日本水墨画に多大な影響を与えた。大徳寺伝来の「観音・猿・鶴」三幅図ほか伝称作も含め多くが伝わる。生没年未詳。

梁楷(りょうかい)生没年未詳。
中国、南宋の画家。東平(山東省)の人。号、梁風子。嘉泰年間(1201-1204)画院の待詔となる。精妙な山水画・道釈画のほかに減筆体の人物画にもすぐれ、日本の室町時代の水墨画に大きな影響を与えた。

顔輝(がんき)生没年不詳。
中国、元代前半期の画家。浙江省江山の人。字は秋月。鬼神や猿などに妙技を発揮し、また道釈人物画を得意とした。

馬遠(ばえん)生没年未詳。
中国、南宋の画院画家。河中(山西省)の人。字(あざな)は欽山。夏珪(かけい)とともに南宋の院体山水画を代表し、「馬夏」と並称される。日本の室町期の山水画に大きな影響を与えた。

馬麟(ばりん)
中国南宋後期の画家で臨安(浙江省杭州)の人。北宋から南宋にかけ5代にわたり、7人の宮廷画院画家を生んだ馬氏一族の中心的存在であった馬遠の子で、家学を受けて山水図に秀でていた。

日観(にっかん)
中国宋時代末から元時代初期の画僧、葡萄画を得意とした。

啓書記(けいしょき)祥啓(しょうけい)の別称。生没年未詳。
室町中期の画僧。字は賢江。号、貧楽斎。祥啓は諱(いみな)。建長寺の書記を務めたことから啓書記ともよばれる。芸阿弥に水墨画を学び、山水画にすぐれた。

周文(しゅうぶん)
室町中期の画僧。字は天章。号、越渓。相国寺の僧で、のち室町幕府の御用絵師となる。生没年未詳。詩画軸の形式および日本水墨画の様式の確立に大きな役割を果たし、雪舟・宗湛らはその弟子。

雪村(せっそん、1504-?)
室町後期の画僧。常陸(ひたち)の人。諱(いみな)は周継。号、鶴船・舟居斎。雪舟に私淑。関東・東北地方で活躍した。

蛇足、曾我蛇足(そがだそく)
室町後期の画家。曾我派の始祖的な画家で京都の大徳寺真珠庵の襖絵を描いたと伝えられるが、経歴・生没年ともに未詳。そがじゃそく。