名人の失くなった理由(三)
『栄光』192号、昭和28(1953)年1月21日発行
以上の原因を検討してみると、画家の体力が弱ったことは争えない事実である。それと共に経済関係もあって、大体この二つであろう。まず前者からかいてみるが、彼の白人は先祖代々肉食人種であるからそれでよいとしても、日本人は異(ちが)う。何しろ祖先から菜食の方が多い民族であったことは言うまでもないと共に、明治から大正時代までは左程でもなかったが、昭和に入った頃から非常に肉食が多くなってきた。殊(こと)に終戦後は国民の劣等感も手伝って肉食が増え、また牛乳の飲用も旺(さか)んになったのは衆知の通りである。ここで菜食についての私の実験をかいてみよう。
私は十八歳の時一年以上患(わずら)っていた結核が段々悪化し、ついに有名な某博士から死の宣告まで受けたので、失望懊悩(おうのう)の結果何らかの方法はないかと思ったところ、ちょっとしたある事によって菜食のよいことを知ったので三カ月間絶対菜食をしたところ、病気はメキメキ快くなり、発病以前よりも健康になったのである。その時自分の体でわかったことは、目立って根気のよくなったことである。それと共にその頃遊び半分絵を描いていたのでわかったことは、筆力である。以前は線など震えて思うようにかけなかったものが、一気に思うように描けるようになった。そこで思われたのは、美術家には菜食も大いに必要であるということである。という訳で今日の画家が線が思うように描けず、迫力のないのもこの点にあると思うのである。
何しろ今日少し名が売れてくると、生活も裕かになり、肉食勝ともなるし、その上衛生に注意するようになるから、以前なら放っておくようなちょっとした病気でも早速医者にかかる。医療は健康を弱らす方法であると共に、医師は大切に大切にというので、その通りにする以上病弱となり、年中ビクビクもので生きているので活気もなくなる。それが作品に影響するので、そういう画家の絵は実に弱々しく迫力がないにみてもわかる。そのような訳だから名前が出るようになると、夭折(ようせつ)するのも不思議はないといえよう。全く理由はここにあるのである。
これに対して支那及び日本の古画である。今日でも優れた名品として珍重されている絵でも書でも、作者はほとんど禅僧である。この人達の修行は絶対菜食で、二六時中厳しい行をするので、人格は磨かれ、霊力も強くなっている以上、それが作品によく表れている。私はそれを知って観るからか、余計高い強い官能に頭が下るのである。また仏画の曼陀羅などの大作を見ると、その根気の良さにいつも一驚(いっきょう)を喫(きっ)するのである。
次に後者の経済関係であるが、何しろ今日の社会は、昔の人間のように暢気(のんき)に画業三昧に耽(ふけ)ってはいられない。うっかりすると顎(あご)が干上(ひあが)ってしまうからで、その心配は並大抵ではないのと、今一つは昔と異(ちが)ってパトロンがない。何しろ昔の御大名などは金と暇に飽かして、傑作さえできればいいとして作者を擁護していたから、良いものができたのは当然である。このことが日本美術に対する一大奨励となったのは言うまでもない。この点大いに御大名に感謝していいと思うのである。そうして明治以後でも美術院が現れ、日本画壇の重鎮となったことは誰も知っているが、その陰にはやはり立派なパトロンがあった。その人は細川護立と原富太郎の二氏である。ところが原氏は没したが、細川氏は時代の変遷のため、今はそういう訳にはゆかないから止むを得ないが、その後はそういう人は全然出なかった事も、近頃の日本画不振の原因でもあろう。しかも両氏共単に経済上ばかりではなく、素晴しい眼識を有(も)って批判もし、指導もしたことなど与(あずか)って力あったので、その当時傑作が出来たのもゆえあるかなである。
以上によって大体わかったと思うから、この辺で筆を擱(お)くこととする。(完)