日本人は欲がない
『栄光』76号、昭和25(1950)年11月1日発行
日本人くらい、無欲な民族はないと言ったら、読者は定めし驚くであろう。ところが立派な事実であるから仕方がない。ただ多くの人は気がつかないだけである。それを今かいてみよう。
実例を挙げてみれば、今日の日本人は、信用という事に余り関心をおかない。たとえばいつかは必ずバレるような事や、判り切った嘘を平気で吐く。ひどいのになると直に尻からバレるような嘘を吐く。何よりも時間を約束しておきながら、実行しない人が多い。これなども立派な嘘を吐いたのであるが、これしきの事は日常の茶飯事として、誰も当り前のように思っている。またちょっと物を貰うにしても売手も買手も嘘の吐き合いだ。もっとも売手の方が余り正直では、儲らない事になるからある程度は止むを得ないとするも、余り嘘がヒド過ぎる。結局信用を落すばかりか、第一取引上時間の浪費と繁雑な手数が掛ってやりきれない。売る方が掛値をするから、買う方は値切る事になる。買う方が値切るから、売る方が掛値をするという鼬鼠(いたち)ゴッコだ。少し大きな取引となると、半日も一日も、押問答をしなければならない。中には数日、数十日、数ケ月も掛る事さえある。このような訳で、双方の無駄と浪費は大変なものであろう。
私の例を挙げるのは、少しうしろめたいが、私は買物する場合、ほとんど値切らない方針である。ただ目に余る程高いとか、付込まれるとか言う場合は、止むを得ず値切る事もあるが、そういう事は滅多にない。私はどうしてそうするかというと、値切るとその次から先方は、掛値をするに決まっている。そこでまた値切るという訳で、これも鼬鼠ゴッコになるから、手数が掛ったり不快な思いをするだけである。以上は売買の例であるが、官吏や会社員などの場合もそれと同じようだ。この種の人達は早く出世をしたいため、自分の手柄を見せたがったり、吹聴したり、恩に被せたりする。こうするのが利口なつもりでいるが、実は上役は目が高いからそれを見透かしてしまう。あいつは上面ばかりよく見せようとする、どうせそういう奴は、心から忠実ではあるまいと思われ、信用されない事になるという訳である。
また企業家などは、金がない癖にありそうに見せたがったり、大きな背景があるように思わせようとしたり、非常に有利な事業のように吹聴したりするが、こういう策略も一時はうまく行っても、決して成功するものではない。
また世間よく、仲人口と言って、結婚の相手を世話する場合実質以上に賞めそやす事が当然のようになっているが、これらも巧く成立しても、早いのはその以前、遅いのは以後、結局破綻になって、当事者同士が迷惑するばかりか、橋渡しや仲人も信用を失う事になる。また売薬化粧品などジャンジャン広告を出して、一時は大いに売れるが、効能は広告程でないからやがて売れなくなる、という事がよくある。
右のような例を挙げればキリがないが、要するに何事でも信用第一だ。信用がなくてはお終いだ。外の事はいくらうまくやっても何にもならない。ザルに水汲むようなものだ。ところがそこへ気のつく人は案外少ないようである。このような訳で結局大いに欲張って、巧くやったつもりでも、事実は信用がなくなり、骨折り損の草疲〔臥〕(くたびれ)儲けという事になる。こういう人はつまり欲のない訳である。従って嘘を吐かず真面目にやれば、あの人の言う事なら間違いない。あの人なら絶対信用が出来る、という人になる。そうなれば金も儲かるし出世もし、人から敬愛されるのは当り前だ。従ってこういう人こそ本当の欲の深い人である。だから私はいつも言うが、人間は大いに欲張れ、但し一時的ではなく、永久的欲張りになれというのである。