人間は健康の器
自観叢書10編『神示の健康法』昭和25(1950)年4月20日発行
よく昔から人は病の器などというが、これほど間違った話はない、吾らはこれを訂正して人は健康の器なりというのである。前項に述べたごとく元々人間は健康に造られたものであるからである。ところが実は病なるものは人間に付物で、どうしても解決出来ないのが現実で、やむを得ず宿命として諦めてしまったのである。もちろん人間一度病に罹るやなかなか簡単には治らない。長くかかったり頻繁に病気に罹ったり人によっては健康時よりも罹病時の方が多い事さえある。それがため病の器としか思えないのでそのような状態が長く続く事によって病の器などという言葉が出来たのであろう。というのは病気の本体が不明であったからで、病気も死の運命も免れ得ないとされて来たのは無理からぬ事であった。彼の釈尊の言われた生病老死の諦めもそのためである。また今日予防医学という事を言われるが、これらも一度病に犯されるや容易に治し得ないからの窮余の産物としか思えない。何となればもし医学が治病能力が絶対であるとしたら、予防医学など考えられ得ないからである。ここで再び本論へ戻るが、前述のごとく病原である反自然とはいかなる点であるかを説明してみるが、まず人間罹病するや唯一の方法として薬剤を用いるがこれがそもそもの誤謬である。薬剤とは漢方においては草根木皮、洋方においては鉱物植物等から抽出されるもので、これが根本的反自然である。考えてもみるがいい。右のごとき薬剤の性質は必ず苦味、臭味、酸味等、例外なく人間の嫌忌(けんき)される味をもっている。よく昔から「薬の後の口直し」という事がよく物語っている。これらの呑み難いのはなぜであろうかを考えるべきで、神は有毒であるから服んでは不可である事を示されているのである。彼の苦痛緩和用の麻痺剤としての阿片は罌粟(けし)の花から採るのである。元来芥子(けし)の花とは神が人間の眼を楽しませる目的で造られたもので決して人間が服むべく造られたものではない。また近時流行薬の一として用いられるペニシリンにしても、原料は植物の苔という事であるが、これらも人間が口へ入れるものとして造られたものではない。石または土に美観を添えるためのものである。この理によってあらゆる飲食物は人間の嗜好に適するよう造られている以上それを食えばいいので、それが自然である。よく何が栄養になるとかないとかいうような事などはもちろん誤りである。食物はすべてその土地の気候風土によって幾分の差異はあるが、それがその土地に生れた人間に適すべく生産されているのである。黄色人が米を食い、白色人が麦を食うのもそうであり、日本が島国であるという事は魚食を多くせよという事で大陸人は肉食である事もそれでいいのである。この理によって農民の菜食も自然に適っている。二六時中休みなく労働に堪え得るという事は、菜食が適しているからである。その理を知らない栄養学は近来農民に魚肉を食わせようとするが、これを行えば農民の労働力は減少するのである。それに引換え漁民は魚食のため持続的労働は出来ない、間歇(かんけつ)的に労働する。また魚食は敏感性を高めるので漁業に適するので自然は実によく出来ている。
以上は、薬剤と食物の反自然的誤謬を概略かいたが、特に薬剤がいかに有毒であるにかかわらず、なぜ昔から応用したかという根本原理を漸次説き進めてみよう。