人間を愚にするな
『光』37号、昭和24(1949)年11月26日発行
今日口を開けば新宗教は迷信邪教であるというジャーナリスト等に注意したい事がある、それは彼らの思うごとき、迷信やインチキ宗教であるとすれば、多数の有識者を初め数十万に及ぶ信徒が、熱烈な信仰を傾けるはずがないではないか、その点を心を落着けてよく考えるべきである、今日の世智辛い世の中に北海道から、九州から、自観先生の一時間の講話を聞くために、高い汽車賃を払い、暇を潰し月に二度も三度も来るという事は何かなくてはならないはずである、その理由の一つ二つをかいてみよう。
永い間病苦に悩み、大病院も名医もありとあらゆる療法に手をつくし、莫大な療養費を費し命旦夕(たんせき)に迫った者が、本教によって起死回生の御利益を得たり、懐疑に煩悶懊悩(はんもんおうのう)死を覚悟した青年や、不幸のドン底に陥った人達が本教によって光明を認め一転歓喜の境地に救われた者等は、全く本教によって生命を与えられたのであるから、その感謝感激が熱烈な信仰を生むのは当然である、決して気紛れや思いつきではその境地に達する事は出来よう訳がない、君達はそれらを全然知らないのである、それは頭から迷信と決めてしまって、知ろうとも触れようともしないのだからいわゆる縁なき衆生と見るの外はない、それらの事実に眼を蔽(おお)い、一般人に向かって口に筆に迷信邪教と宣伝するのであるから、実に危険千万である、本当からいえば未知なものは、いわず書かず沈黙すべきにかかわらず、さも新宗教の底の底まで見通しているかのように、大所高所から観察批判する態度は、吾らから見れば迷蒙(めいもう)邪記者でしかない。
したがって、迷信邪教に走る愚をわらうよりも、君ら自身をわらうべきである。
以上のような訳であるから、吾らからみれば君らが常にかけている黒眼鏡を外されたいのである、そうすればはなはだ容易に真相を把握し得らるるのである、しからば右の黒眼鏡とは何ぞやと言えば、唯物思想という眼鏡である。