霊と体
『世界救世教奇蹟集』昭和28(1953)年9月10日発行
以上のごとく、一切万有は霊主体従が原則であるとしたら、本著にある幾多の奇蹟もこの理が分れば敢(あ)えて不思議はないのである。例えば危機に際し間髪を容れず難を免れたり、高所から墜ちても疵(きず)一つ受けず助かったり、博士や大病院から見放された重難症患者でも、何なく治るという事実である。しかしながらこれを充分徹底するには、どうしても宗教的解説が必要であるから、読者はそのつもりで読まれたいのである。
それについてまず知っておかねばならない事は、霊界と現界との関係である。というのは人間という者は肉体の着衣と同様、霊も霊衣(アウル)を着ており、霊衣とは一種のエーテルであって、これは霊から放射される光で朦朧(もうろう)体ではあるが、肉眼で見る人もある。そうして霊衣なるものは天気と同様、常に晴れたり曇ったりしている。すなわち善を思い善を行えば晴れ悪を思い悪を行えば曇るのである。ゆえに正しい神を信ずれば光を受けて曇りはそれだけ消されるが、邪神を拝めば反って曇りが増すのである。ところが普通人は霊的智識がないため神とさえいえばことごとく正神と思うが、これが大変な誤りで、実は邪神の方が多いのである。その証拠には先祖代々熱烈な信仰を続けているにかかわらず、不幸の絶えないという家をよく見かけるが、これは拝む本尊が邪神かまたは弱神であるからである。ゆえに正神に帰依し、人を救い善徳を積めば積む程、光は増すから霊衣も厚くなる。この厚さは普通人は一寸くらいだが、善徳者になると五寸から一尺くらいに及び、神格を得た高徳者になると数十尺から数哩に及ぶ者さえある。大宗教家などは数国もしくは数民族にも及ぶもので、釈迦、キリストのごときはこの種の人である。ところが救世主となると人類全体を光に包むという実に驚くべき威力であるが、しかし今日まで救世主はいまだ世界に現われた事のないのは歴史が示している。以上によっても分るごとく、霊衣はその人の心掛次第で厚くもなり薄くもなるので、人間はこの事を信じて大いに善徳を積むべきである。例えば汽車自動車などが衝突しても、霊衣が厚ければ車の霊は霊衣につかえて当らないから助かるが、霊衣が薄かったり無である場合、死んだり重傷者となるのであるから、本教信者が災害を免れるのもこの理によるのである。
次に運不運も同様であって、この理もザッとかいてみるが、人間の体は現界に属し、霊は霊界に属しており、これが現界、霊界の組織である。そうして霊界は大別して上中下三段階になっており、一段階が六十段で、それがまた二十段ずつに分れ、総計百八十段になっている。もちろん下段は地獄界、中段は中有界といい、現界と同程度の世界であり、上段が天国になっている。そうして一般人のほとんどは中段に位し、その人の善悪によって上にも昇れば下にも降る。すなわち善を行えば天国に上り、悪を行えば地獄に堕ちるのである。しかも現界と異(ちが)って霊界は至公至平にして、いささかの依怙(えこ)もないから悪人には都合が悪いが、この事が信じられる人にして、真の幸福者たり得るのである。もちろん地獄界は嫉妬(しっと)、怨恨(えんこん)、嫉(ねた)み、憎み、貧窮等仏教でいう貪瞋痴(どんしんち)が渦巻いており、下段に降る程濃厚となり、最下段は根底の国、または暗黒無明、極寒地獄、煉獄ともいわれている。といっても死後ばかりではなく、体は現界にある以上、霊そのままが移写されるから、七転八倒の苦しみの末、一家心中まで企(くわだ)てる者のあるのは、常に新聞に出ている通りで、人間の運不運は、霊界の地位いかんによるのである。もちろんその因は善悪の因果律による以上、悪人程愚かな者はない訳である。事実悪で出世をしても一時的で、いつかは必ず転落するのは前記のごとく霊界における籍が地獄にあるからである。それに引替え現在いかに不運であっても、その人の善行次第で、霊界の地位が向上する結果、いつかは幸運者となるのは、厳として冒すべからざる神律である。従ってこの理を諭(おし)えるのが宗教本来の使命であるにかかわらず、今日まではなはだ徹底しなかったのは経典と説教を主とし、肝腎な実力すなわち奇蹟が伴わなかったからである。
ところがいよいよ時節到来、主神は今や絶対力を発揮され給い、本教を機関として驚くべき奇蹟を現わし、人類の迷妄を覚ますのであるから、いかなる人といえども信ぜざるを得ないであろう。
(注)
貪瞋痴(とんじんち)
仏語。むさぼりと怒りと無知。貪欲と瞋恚(しんい)と愚痴。三毒。