―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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龍神界

『天国の福音』昭和22(1947)年2月5日発行

 龍神などというと、現代人は荒唐無稽(こうとうむけい)の説と思い、古代人の幻想による作為的のものとしか想うまいが、実はそうではないので立 派に実在しているのである。それについて私の体験から先に書いてみるが、私が宗教や霊の研究に入った初めの頃である。ある日精神統一をしていると、突然異 様の状態となった。それは口を大きく開くと共に、口が耳の辺まで裂けてるような感じがし、眼(まなこ)爛々(らんらん)として前額部の両方に角の隆起せる ごとく思われ、猛獣の吼えるがごとき物凄い唸り声が自然に発するのである。私は驚くと共に、予(か)ねて霊の憑依という事を聞いていたので、これだなと 思った。そこで私は、この霊は虎か豹かライオンのごときものではないかとも思ってみたが、右の獣は無角獣であるからそうではない。そこで当時先輩であった ある指導者格の人に質(き)いてみたところ、それは正(まさ)しく龍神の霊であると言う。その時私も龍神などというものは実際あるかどうか判らないと思っ ていたが、そう聞くとなる程と思った。しかも神憑りの場合、脊柱上方部の骨が隆起するような感じがしたのも龍の特徴である。その様な事が何回もあったが、 その中に私以外のものが私の身体の中で喋舌(しゃべ)るのである。それは右の龍の霊であって、私に憑依した事によって人語を操れるようになったと感謝して おり、種々の物語りをした。その話によれば「自分は富士山に鎮まりいます木之花咲爺姫命(このはなさくやひめのみこと)の守護神であって、クスシの宮に鎮 まりいる九頭龍権現(くずりゅうごんげん)である。」と言うのである。しかるにその後数年を経て、私は始めて富士登山を試みたが、それまでは龍神から聞い たクスシの宮は山麓であると思い、尋ねたが見当らない。遂に富士山頂へ登った。頂上の登り口右側に大きな神社がある。見ると久須志神社と書いてある。ああ これだ、全く龍神の言は偽りでない事が判った。右の龍神については種々神秘があったが、いずれ他の著書で発表しようと思う。この事によって私は龍神の存在 をまず知り得たのである。私は種々の点から考察するにこの大地構成の初め泥海のごとき脆弱な土壌を固め締めたのは無数の龍神群であったが、龍神が体を失っ た後、その霊が天文その他人間社会のあらゆる部面に今もなお活動し続けているのである。龍神がこの大地を固めた。次が科学者の唱えるマンモス時代で、これ は巨大なる象群が、大地を馳駆し固めたものであろう。今日満州の奥地からたまたま発見される恐龍の骨などは最後の龍と想う。
 また龍には種類がす こぶる多く、おもなるものを挙げてみれば、天龍、金龍、銀龍、蛟龍、白龍、地龍、山龍、海龍、水龍、火龍、赤龍、黄龍、青龍、黒龍、木龍等々である。伝説 によれば、観世音菩薩の守護神は金龍となっている。浅草の観音様を金龍山浅草寺というのもそのためであろう。また白龍は弁財天ともいい、赤龍は聖書中にあ る「サタンは赤い辰なり」という言葉があるが、それであろう。黄龍及び青龍は支那の龍であり、黒龍は海の王となっている。木龍は樹木に憑依している龍で、 世間よく大きな樹木を伐り倒したりすると祟るというが、これは憑依せる木龍の憤怒によるのである。故に切り倒す前まず小さくとも同種または似通える樹木を 代りとして近くへ植え、御饌御酒(みけみき)を供え、うやうやしく霊の転移を冀(こいねが)うのである。それは言葉によればいいので、それだけの手続をす ればなんら祟りはないのである。
 そもそも龍神なるものはいかなる必要あって存在するかというに、皆それぞれの職責を分担的に管掌の神から命ぜら れ、それによって不断の活動を続けているのである。なかんずく天文現象すなわち風雨雷霆(らいてい)等はそれぞれの龍神が、祓戸(はらいど)四柱の神の指 揮に従い担掌するので、もちろん天地間の浄化作用が主である。その他一定地域の海洋湖沼河川や、小にしては池、井戸に至るまで、大中小それぞれの龍神が住 み、守っているのである。従って池沼井戸等を埋める場合その後不思議な災厄が次々起こる事は人の識る所である。それは龍神の性質は非常に怒りやすく自己の 住居を全滅せられたための怒りであり、また人間に気を付かせ、代りの住居を得たいからでもある。故に初めから小さくとも代りを与え木龍のごとく転移の手続 をすればいいので、事情により甕のごときものに水を入れてもよいのである。元来龍神は霊となっても熱しやすく水がなくてはいられないので、非常に水を欲し がるのである。人間の死後龍神に化するという事は既説の通りであるが、もちろん執着心によるので、これらは霊界における修行によって再び人間に生まれ替る のである。彼の菅原道真が死後、生前自己を苦しめた藤原時平等の讒者(ざんしゃ)等に対し、復讐の執着から火龍となり、雷火によって次々殺傷し、ついには 紫宸殿(ししんでん)にまで落雷し、その災禍天皇にまで及ばんとしたので驚いて急遽神に祭る事となったので、それが今日の天満宮である。それ以来何事もな かったという事で、これらは歴史上有名な話であり、現代科学では到底解釈し難いであろう。次に明治から大正へかけての話であるが、今の霞ケ関の大蔵省の邸 内に彼の平将門(たいらのまさかど)の墓があった。それに気の付かなかったためか、大蔵省関係者に不思議な災厄が次々起こるので、種々調査の結果、将門の 霊のためではないかという事になり、盛大なる祭典を行ったところ、それ以来何事もなくなったという話であるが、これらも将門の霊が龍神となったものであろ う。そうして龍神に限らずあらゆる霊は祭典や供養を非常に欲するものである。何となればそれによって霊界においての地位が向上するからである。
  龍神は大体画にあるごとき形体であるが、有角と無角とあって、高級の龍神はすこぶる巨大でその身長数里または数十里に及ぶものさえある。彼の有名な八大龍 王は古事記にある八人男女(やたりおとめ)すなわち五男三女神であり、有名な京都の祇園祭は八大龍王の祭典である。伝説によれば彼の釈尊が八大龍王を海洋 に封じ込め、ある時期まで待てと申渡したということである。私の考察によればその時期とは、夜の世界が昼の世界に転換する時までである。何となれば仏法は 一言にして言えば真如の教えであるという、釈尊の言葉がそれである。すなわち真如とは月の意味で、全く夜の世界の事である。ちなみに八大龍王は人間に再生 し昼の世界建設のため、現在活動しつつある事になっている。
 昔から龍神の修行は海に千年、山に千年、里に千年という事になっている。これらも相 当根拠はあるようである。しかし龍神の修行は、関係者の供養や善行等によって期間は短縮されるのである。そうして龍神の修行が済むと昇天するが、その場合 雲を呼び暴風を起こし、いわゆる龍巻によって海水を随分高く上げ、天に昇るのであるが、これを見た人は世間に数多くある。それについて私は私の一弟子から 聞いた話であるが、それはある時松の木に蛇が絡んでいる。じっと見ていると蛇は段々木の頂上に昇り、ついに木から離れて空中へ舞上った――と見る間にずん ずん上昇し、ついに見えなくなったというのである。これは霊ではなく実物であるからおもしろいと思うと共に、有り得べからざる話であり、またあり得べき話 でもある。龍神が再生した人間を私は数知れず常に見るのであるが、いずれも身体に特徴をもっている。太股、横腹、腰等に鱗の形が表われており、鱗も人によ り大中小種々あり、顕出状態も鮮明なるもの、朦朧(もうろう)たるもの、赤きあり、黒きあり、千差万別である。また面貌によっても判るのである。龍神型と しては頬骨高く、額部は角型で、こめかみ部に青筋の隆起せるものがあり、眼は窪んだものが多く、顎も角張っており、特徴としてはよく水を飲みたがる。性質 は気位が高く、人に屈する事を嫌うが、覇気に富むから割合出世する者が多い。龍系型を熟視すれば、龍という感じがよく表われているから、何人も注意すれば 発見する事は容易である。また女性にあっては龍神の再生を龍女といい、多くは結婚を嫌い、独身者で満足する。また龍女は結婚の話などが纏まろうとする場 合、相手の男子が死ぬとか、本人が病気に罹るというように、故障が起こりやすい。これを無理に結婚させると、死別生別その他の事情によって破綻を生ずる事 が多い。特に龍女は嫉妬心や猜疑心が強く、夫婦生活の幸福は得難いのである。従って龍女系女性は世のため人のため善徳を積むか、または正しい信仰に入る等 によって、ある程度の浄化をさるれば結婚生活も遂げらるるのである。龍女の浄化とは龍神の霊が人間化する事である。普通龍女は一旦この世を去り、人間とし て祀られ、再生する事によって普通の人間となるのである。また龍女は眼澄み肌目(きめ)細やかにして美人型が多いのである。