正愛と邪愛
『栄光』74号、昭和25(1950)年10月18日発行
信仰は愛なりとは、よく言われる言葉だが単に愛といっても色々ある。正なる愛、邪なる愛、大なる愛、小なる愛というように、多種多様である。このような訳であるから、信仰者は愛に対しても正しい認識を失ってはならない。
まず、その例を挙げてみるが、正愛に属するものとしては、夫婦、親子、兄弟等の家庭愛はもとより、友人、親戚、知人等に対する普通人間としての愛は、それがいか程昂(たか)まっても別段非難するところはない、問題なのは邪愛である。
邪愛は、説明するまでもないが、右と反対で夫婦の仲は円満を欠き、親子兄弟の間は冷たく、友人、親戚等とも仲異(なかたが)いとなり、疎遠勝ちとなったりする等で、これは世間にはあまりに多い話で、邪愛による事もあり、薄愛のためもある。
以上は正愛と邪愛を簡単に類別したのであるが、愛の中で最も批判を要するのは、何と言っても恋愛であろう。これは、以前も説いた事があるが、単に恋愛といってもそこに大いに正邪がある。もちろん、純粋なる青年男女が結婚の目的で相愛するのは、正愛であるが世間よくある気紛れな一時的衝動に駆られた、いわゆる、刹那的、熱病的恋愛はもちろん邪恋である。早い話が、およそ叡智の閃きのないのが邪恋と思えばいい、ところが、邪恋が極端に進むと必ずといいたい程悲劇を生む、それは妻あり夫あるにかかわらず、他に恋愛の対象を作るのだから厄介である、暫時(ざんじ)の享楽に耽った結果、一生の破滅的運命に陥ったり、中には生命を失う者さえあるのだから、こんな算盤(そろばん)に合わない話はない、最も慎むべきものである。
右は、恋愛の正邪について、簡単に批判したのであるが、ここで、最も言いたい事は、愛の大小である。すなわちさきに述べた家庭愛や周囲愛は小乗的愛で、利己愛の部に属するが、一般人はこの種の人が一番多く、いわゆる普通の善人型で、無信仰者にもあり、別に非難の点はないが、本当の信仰者となると、全然違うのである。信仰者の愛こそは大乗であって、いわゆる利他愛である。この大乗愛が最大に拡充されたものが、すなわち人類愛であり、世界愛である。
ここで注意すべきは、終戦前までの日本人は真の大乗愛を知らなかった、というのは最も最高のものとされていたのが国家愛であった。国家のために生命を捧げるのが、人生最大の目標とされていたのは、周知の事実であるが、これは小乗愛であって、これを最高のものと信じられて来た結果が、今日のごとき悲惨なる日本の現実となったのである。
この理によって、民族愛も階級愛も本当のものではないから、一時は栄えても最後は必ず失敗する。ゆえに何々主義などといって、限られたる目的の下に、何程努力しても大成の可能性のない事は前述の通りである。ゆえに、主義とすれば世界主義だけが本当のもので、宗教といえども、世界主義的でなくては本当の救いとは言えないのである。本教が世界の文字を冠したのも、そういう意味からである。