―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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生と死

『天国の福音』昭和22(1947)年2月5日発行

 人生死の問題ほど切実なる問題はあるまい。故に死及び死後について幻想的でない実証的の解説を得たならば、これ程の喜びはないであろう。私はこの問題に 対し霊的事象の研究から得た成果を発表し、あまねく世人に知らせ、蒙をひらきたく思うのである。もっとも死後の問題に対しては、欧米においても心霊研究家 としてオリヴァー・ロッジ卿、メーテルリンク、ワード博士等のごときは名著もあり、斯界(しかい)の権威でもある。日本においても故浅野和三郎氏のごとき は心霊研究家としてその造詣も深く、著書も多数あり、数年前物故したが、私もいささか関係があったので惜しまれるのである。
 私が霊の問題を説くにあたって断っておきたい事は、出来るだけ自分自身の経験を主として記述する事にした。これは正確を期するためで、何分霊に関した問題は捕捉し難い不可視的のものである以上、ともすればドグマに陥りやすいからである。
 人間はさきに説いたごとく、使用不能になった肉体から離脱した人間の霊は、霊界に復帰し霊界人となり、霊界生活が始まるのである。そうして、まず人間死の刹那はいかなる状態であるかを霊界から観察した時の模様をかいてみよう。
 死すなわち精霊が肉体から離脱の場合、おおむね人体の三個所から出る。すなわち前額部、臍部、足の爪先からである。この区別はいかなる理由によるかとい うに、霊の清浄なるものは前額部、中位のものは臍部、汚濁せるものは足部という訳である。その理由としては霊の清浄なるものは、生前善を行ない徳を積み、 霊が浄化されたためで、汚濁は生前罪穢をかさねたるもの、中位はその中間であってすべては相応の理によるのである。また左の例は死の刹那を霊視したある看 護婦の手記であるが、非常によく書いてあるから参考に供する事にした。
 これは西洋の例であるが、人によって霊の見える人が西洋にも日本にもたまたまあるのである。私はくわしい事は忘れたが、要点だけは覚えているからかいて みよう。「私は、ある時今や死に垂(なんな)んとする病人を凝視していると、額のあたりから一条の白色の霧のようなものが立ち昇り、空間に緩やかに拡がり ゆくのである。そうするうちに、雲烟(うんえん)のごとき一つの大きな不規則な塊のようなものになったかと思うと、まもなくしかも徐々として人体の形状の ごとくなり、数分後には全く生前そのままの姿となって空間に起ち、じっと自己の死骸を見詰めており、死骸に取りついて近親者が悲嘆に暮れているのに対し、 自分の存在を知らしたいようなふうに見えたが、何しろ幽冥所を異にしているので諦めたか、しばらくして向き直り、窓の方に進んでゆき、すこぶる軽げに外へ 出て行った」というのであるが、これは全く死の刹那(せつな)をよく表している。
 仏教においては人の死を往生という。これは現界から見れば往死であるが、霊界から見れば生まれてくる、すなわち往生である。また死ぬ前の事を生前という のも右の意味にほかならないのである。そうして人間は霊界における生活を、何年か何十年何百年か続けて再び生まれるのである。かくのごとき生き代わり死に 替わり何回でも生まれてくるので、仏語に輪廻転生とはこの事をいったものであろう。
 霊界なるものは、人間に対しいかなる関係ありやというに、それは現界において、神よりの受命者として人各々の業務を遂行するにおいて、意識すると意識せ ざるとに係わらず、霊体に汚穢(おわい)が堆積する。それと共に肉体も病気、老衰等によって受命を遂行し難くなるから、一旦体を捨てて霊界に復帰する。す なわち帰幽である。昔から霊の抜けた体を称してナキガラという事や肉体をカラダというのもそういう意味である。そうして霊魂が霊界に入るや、大多数は汚穢 の浄化作用が始まる。汚穢の量によって霊界生活においての高下と、浄化期間の長短があるのはもちろんで、早きは数年数十年、遅きは数百年数千年に及ぶもの さえある。そうしてある程度浄化されたものは、神の受命により再生するのである。右は普通の順序であるが、人により順序通りゆかぬ場合がある。それは生に 対する執着であって、死に際会し生の執着が強いものは、霊界の浄化が不充分でありながら再生する場合もある。こういう人は不幸の運命を辿(たど)るのであ る。何となれば浄化不充分のため、前生における罪穢が相当残存しており、それの浄化が発生するからである。この理によって、世間よく善人にして不幸な人が あるが、かかる人は前生において罪をかさね、死に際会し翻然と悔悟し、人間は未来永劫悪はなすまじと固く決心し、その想念が霊魂にしみついており、浄化不 充分のまま再生するをもって、悪を嫌い善を行なうにかかわらず、不幸の境遇をたどるのである。しかしながらこういう人もある期間不幸が続き、罪穢が払拭さ れるにおいて一躍幸福者となる例も、また少なくないのである。またこういう人もある。自分の妻以外の女は知らないという品行方正を誇りとする者や、妻帯を 欲せず、独身同様に終るものもあるが、これらの人は前生において婦人関係によって不幸の原因を作り、死に際会し女性に対する一種の恐怖心を抱き、その想念 が霊魂にしみついているためである。その他鳥獣、虫類等のある種に対し、特に嫌悪または恐怖を抱くものがあるが、それらも、その動物によって死の原因を 作ったためである。また水を恐れたり、火を恐れたり、高所を恐れたりするのは、それらが原因となったためである。
 人間恐怖症というのがある。たとえば多人数集合の場所を恐れるが、これらも人ごみで押し潰されたりして死せるためであり、おもしろいのは独居を恐怖する ものがある。私が扱った患者でこういう人があった。それは留守居が出来ない。すなわち己一人では淋しく恐ろしいので独居の場合は必ず外へ出て誰か帰るまで 待っているのである。これらは、前生において独居の際急病が起こり、人をよんでも間に合わぬうち死せるものであろう。以上のごとき数種の例によってみて も、人間は死に際し、執着や恐怖等なく、平安に大往生を遂ぐるよう、平常から心掛くべきである。
 生れながらにして畸形や不具者があるが、これは霊界において、完全に浄化が行なわれないうちに再生するからである。たとえば高所から転落して手や足を折った場合、それが治り切らないうちに生まれてくるからである。
 また早く再生する原因として、本人の執着のみでなく遺族の執着も影響する。世間よく愛児が死んでからまもなく妊娠し生まれるという例があるが、これらは全く死んだ愛児が母親の執着によって早く再生するのであるが、こういう子供はあまり幸福ではないのである。
 人は生まれながらにして賢愚の別がある。これはどういう訳かというと、古い霊魂と新しい霊魂との差異によるのである。古い霊魂とは、再生の度数が多く現 世の経験を豊かに持っているからで、これに反し新しい霊魂とは霊界において新生して間もないものであるから、経験が浅くどうしても愚かな訳である。そうし て新しい霊魂とは、霊界においても生殖作用が行なわれ生誕するのである。
 また誰しも経験するところであるが、見ず知らずの他人であっても、一度接するや親子のごとく兄弟のごとく、否それ以上に親しみを感ずる事があるが、これ は前生において、近親者または非常に親密な間柄であったためで、この事を称して因縁というのである。また旅行などした際、ある場所に非常に親しみを感ずる 事があり、ぜひ住みたいと思う事がある。それは前生においてその辺に住み、または長く滞在していたためである。また男女関係などの場合、熱烈な恋愛に陥 り、盲目的にまで進む場合があるが、これらも前生において心と心とで相愛しながら結合の機会を得なかった、ところが、今生においてその機会を得たので、爆 発的恋愛関係となるのである。
 また歴史をひもとく時、ある時代の場面や人物などに好感や親しみを持ったり、反対に憎悪する事があるが、それらも自分がその時代に生まれ合わせ、何かしら関係があったためである。