善人よ強くなれ 社会悪排除法
『光』31号、昭和24(1949)年10月15日発行
つくづく今日の世相を観るに、悪い奴があまりにノサばり過ぎている、それがため、善人がいか何に虐(しいた)げられ苦しみつつあるかで、これは誰も知るところであろう、それについてその根本の原因をかいてみよう。
昔からとかく善人は弱いもの、悪人は強いものとされている、これがため悪人共は益々跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する、といって昔は今日のごとく法規の完備、暴力取締の機関がないから、悪人の暴力に対し善人は手が出せないんで、泣寝入になってしまうという訳で、町人階級は腕っ節の強い奴、無鉄砲な奴が巾(はば)を利かしていた、また武士階級といえどもその中の悪人は、剣の力を悪用するので、町人階級は恐れて手が出せないのであった事は、歴史や物語りに数知れず遺(のこ)っている、という訳で今日とは雲泥の相違があった、もっとも維新後世は文明開化の時代となり、漸次法規も完備し、暴力否定の傾向に社会全般が向かいつつ今日に到ったのであるが、悲しいかな、我国民性は今もって暴力根絶とはならない、特に終戦前までは軍閥や右翼の浪人壮士輩が、多少の暴力を伝家の宝刀として隠しつつ、機に触れ用いた事もあるにはあった。
ところが、終戦後は軍閥もなく、右翼もほとんど鎮圧されたので、この点よほど明るくはなったが、近頃の悪人共は暴力以外の手段を巧妙に行使し始めた、もちろん金銭を目的に善人を苦しめるのである、それはどういう手段かというに、いわば合法的脅〔恐〕喝である、つまり紙一重で法に引かからないようにする、それらは常に本紙に掲載しているユスリ、タカリの類は素より、本紙には載せないが数件に上る訴訟事件もある、これらももちろん虚偽や捏造で法規を悪用し、自己の欲望を達成しようとするのである、しかもこれらは中流以上の人士であるから情ない話である。右は数十年以前から私は訴訟の絶えた事がないにみて明らかである、という事は、私は昔から一種の主義を堅持している。
その主義というのは、善人は悪人に負けてはならない事で、悪よりも強い善が真の善であると思うからで、事実善人が悪人に負けるから悪人が覇張(はば)るので、それが社会悪根絶の出来ない最大原因である、そのため悪人はそれを好い事にして益々爪を伸ばし善人を苦しめる、この点特に中流以上の者に多い事でいわゆる智能的犯罪である、また善人が悪人からイジめられた場合、それを告訴したり抗議を発する事は知っていても、犬糞的シッペイ返しを恐れると共に、裁判をすれば費用と手数がかかり、打算上馬鹿馬鹿しいから諦めてしまう、これらの例は実に多いのである、ゆえに私の訴訟なども私を善人に見て、これくらいの事をしても必ず諦めるだろうと多寡をくくって始めたが、私は前述の主義によって悪に負けられないから勝つまで闘うので、結末までには非常に長くかかるのである、一番長いのは今年で十一年になるが、いまだ勝敗は決しない訴訟がある。
ボスが絶えないのも右の原因であり官吏の醜聞の絶えないのもそうである、不正に反抗したくも犬糞が恐ろしいので諦める、これが官吏腐敗の一原因である事は誰知らぬものもない事実である。
以上種々の例を挙げたが、一言にしていえば社会悪の原因は善人が弱いからである、とすれば弱い善人は真の善人ではない、実は意気地なしである、悪に対する奮激が足りないからで、いわば消極的善人で、かような善人が殖えた所で、善人自身は悪をする勇気がないからその点はいいとしても、悪の跋扈(ばっこ)を許すところの自己安全のみを希う一種の卑怯者である、判りやすくいえば悪人共はどうしても善人には敵わない、善人という奴は実に強い、始末が悪い、悪人ではいくら骨折っても駄目だから、いっそ悪人をやめて善人の仲間へ入る方がいいというようになれば社会悪は激減し、住みよい明るい世の中となるのは必然である。
右の理論を肯定するとして、何程善人が歯ぎしりしても個人では不可能である、とすればどうすればよいかというと、まず善人が団結し連盟を作るのである、名称は悪徳排除連盟とでも言ったらよかろう、こういう案を私は提唱するのだが、これこそ社会改善に対する最も有効手段と思うからである。
(注)
跳梁(ちょうりょう)、跳ね回ること。悪人がのさばること。
跋扈(ばっこ)、勝手気ままに振舞うこと。のさばりはびこること・