善と悪
『天国の福音』昭和22(1947)年2月5日発行
私は神と悪魔について説こうと思うが、これは洵(まこと)に困難である。何となれば人間は人間であって神でもなければ悪魔でもないからである。 しかしながら人間には自由がある。ここでいう自由とは自由主義ではない。しからば何か、それは人間が神にもなり得れば悪魔にもなり得るという自由である。 そこで私は霊界研究から得た神と悪魔なるものについての見解を述べてみよう。
まず神の意志とは何ぞやというに、それは絶対愛と慈悲そのものであ る。しかしながら私の言う神とは正しい神であって、邪神ではないという事も変な訳であるが、神には邪はなく正そのものが本質であるからである。従ってここ でいう邪神とは、本来正しい神でありながら一時的過誤に陥ったという訳である。なぜ神にして過ちを侵すかというに、正神邪神は常に闘争している。その場合 八百万の神といえども最高級の神から最下級の神に到るまでの階級は百八十一とされている。従って二流以下の神は往々邪神に負ける。すなわちある期間邪神の 虜になるのである。本居宣長の歌に「八百万神はあれども心せよ鳥なるもあり虫なるもあり」というのがあるが、その点をよく喝破している。そうして今日まで の夜の世界は邪神の力が強く正神は常に圧迫され勝であった。世の乱れはそれがためである。そうして昔から善悪不二、正邪一如等という言葉があるが、これは 全く真理である。善悪とは相対的なものであって、善があるから悪があり、悪があるから善がある。従って善悪は時処位(じしょい)に応じて決めらるべきで、 たとえば今日の時代に善であったものが、次の時代には悪になる場合もあり、個人的には人一人殺しても殺人罪になるが、戦争のごとく集団的に多勢を殺す場 合、罪人どころか殊勲者として賞讃さるるのである。しかしながら個人にせよ、国家的にせよ悪は一時栄えても結局は破滅するが、善においては一時的には苦し むが、時が来れば必ず栄える。しかも死後の世界の実相を知るにおいて、善は永遠の幸福者たり得るのである。そうして人間が神になるか、悪魔になるかを容易 に知り得る方法がある。それは見えざるものを信ずるか否かである。すなわち見えざるものを信ずる人は神にまで向上し、その反対者は悪魔にまで堕落する危険 があるのである。
そもそも人間が悪を行わないという事は、見えざるもの、すなわち神仏が見て御座(ござ)る――という観念によるからで、この世 界に見えざるものは何にもないと思う心は、人に見られない、知られなければいかなる悪事をしても構わないという観念になる。故にこの思想を推進(すす)め てゆく時結局悪魔にまで堕する訳である。従って唯物主義者に真の善人がありよう訳がない。もし唯物主義者にして善人でありとすれば、それは衷心からの善人 ではなく、信用を保たんがための打算的で、暴露の場合信用の失墜を恐れるからで、いわば功利的善者でしかないという事になる。読者よ、こういう偽装善人が あまりにも多い現代社会ではあるまいか。この意味において見えざるものを信ずる人こそ真の善人でありと断定して差支えないのである。
ここに注意 すべき事がある。それは正神と邪神との信仰の結果である。それは世間往々神仏を熱心に信仰しながらも、家庭のものや他人に対する行動のおもしろからざるも のがある。愛が無く利他的観念が乏しかったり、または虚偽、不正を平気で行うという人があるが、これらは信仰の目標である神仏が邪であるからで、それにつ いてこういう話がある。ここに一人の旅人があったが、無銭飲食によって警官が訊問し懐中を査(しら)べた。ところが胴巻に百円の札束があったので詰問した 所、この金は○○寺様へ奉納する金だから、百円から一文も減らす事は出来ないという。これなどは邪宗信者の典型であろう。従ってその様な信仰者は一生懸命 信仰しながら邪道へ陥り、不幸者となるのである。故に信仰に熱心であればある穏健康を増し、家庭は円満となり、家は富み栄え、他人から敬愛されるというよ うになるこそ、正しい信仰の結果で、もちろんその神は高級なる正神正仏である。
またこういう事もある。全くの至誠をもって神に仕え、熱烈なる信 仰を捧げ長年月に及ぶも病気、貧困、不幸等絶えず襲いかかり、苦悩の生活から離脱出来ない人があるが、それに対し道理をつけて善に解釈する。すなわち神の 試練または罪障消滅なる言葉である。また難病の場合、宗教家に相談すると、いわく人間は須(すべから)く死生に超越せよなどというのである。しかるに私は 思う。右の両方共正神であるが、実は二流以下の神で絶対の力がないからである。しからば今日まですべての宗教、すべての神はなぜ絶対力を発揮し得なかった かという点であるが、これには理由がある。すなわち夜の世界の期間は、月神系の神仏であって、月神系は二流以下の神格であるから、絶対力を発揮し得なかっ たのである。