邪神活躍
『地上天国』19号、昭和25(1950)年12月25日発行
そもそも、万有一切は霊主体従の法則によって動きつつある事は、今更言うまでもないが、あらゆる物象の動きは、霊界に先に起り、現界に移写されるとしたら、その場合時間の遅速があるのはもちろんで、これはその事象の大小によるのである。すなわち速きは数日、遅きは数年経ってから移写される事もある。しかし、これが昼の世界になるに従って短縮されるので、最近に到って余程短縮されたようである。それどころか現在の霊界は、かつてない程の混乱状態を呈していると共に、変化の激しい事も、よく世の終末を物語っている。
邪神の一大活躍
今、最も著しい事は、邪神の必死的活躍である。何しろ何千年という長い期間、大いに巾を利かして来た彼らは、没落の運命の迫るに従って、最後の足掻(あが)きという奴で、乗るか外(そ)るかの暴威を揮っている。そうして邪神にも頭目があり、今最も活躍しているのは、赤龍並びに黒龍で、その眷族(けんぞく)に至っては、無慮十億近くに上るのだから大変なものである。彼らにも上中下の階級があって、階級によりそれぞれの役目がある。彼らといえども命令された仕事は忠実に成し遂げようとして一生懸命である。というのはその功績次第で出世もし、論功行賞にも与(あずか)る場合があるからである。もちろん総本部に鎮座まします頭目からは、一々指令が出て、霊線を通じて、人間に憑依せる副守護神に伝達されるのである。この場合人間界におけるその人の地位や階級に相応する眷族が働きかける訳で、彼らの任務としてはあらゆる手段を講じて、人間を悪に悪にと導こうとする。それが今日の世相に遺憾なく現れているから厄介だ。しかもその手段たるや実に巧妙残虐極まるもので、例えば下級の人間には殺人強盗とか、暴行とかいうような兇悪犯罪を行わせるが、少しマシなのになると詐欺や、貨幣、証券、書画等の偽造をさしたり、また婦女子などを言葉巧みに誘拐したり、姦通などを面白がったりする。その上になると余程高級で、善の仮面を覆〔被〕って智謀的犯罪を行わせる。人の財産を捲き上げたり、人を瞞して金儲けをさしたり、贈収賄、涜職、脱税、隠匿物資、闇の売買等はもちろん、酒を呑ませ、婦女子を弄ぶ等も彼らの常習である。
以上、いずれもその行為が発覚すれば法に触れ犯罪者となるから、誰が目にも悪人に見られるがそれらと異なり善の仮面を覆らせ、悪を行わせる場合もある。これらは比較的中流以上に多く、特に智識階級に最も多いので、大いに注意を要するのである。例えば常に誰が目にも正しいと思うような説や、何々主義などを真理と思わせるよう口や文書にかいたりして、世人に信用をさせ、蔭ではそれと反対の行いをしている。この種の人間は智識人で信用があり、すこぶる巧妙なので、その可否はちょっと判り難い程である。これらは政治家や、名士論客にも多く、社会的相当の地位を占め、人から重んじられている人もあるから、仲々油断は出来ないのである。
神見の善
また最も始末の悪いのは、善と信じて懸命に行う事が、結果において悪の場合がある。彼の五・一五や二・二六事件のごときもそれである。はなはだしいのになると、善なり正なりと信じ、命がけでやった事が、反対の結果になった偉い人達もある。先頃処刑された戦犯者なども無論そういう側の人達である。ここで全然人の気の付かない罪悪がある。それは立派な学説と思い、それに身を挺して実行しているが、実は人類に禍を与えているという気の毒な人達もある。以上説いた者は、いずれも邪神が操っているのであるが、科学で固まった頭脳では到底判りようがないのである。
ところが、断然レベルを抜いた、高級な人々がある。この種の人は宗教の教祖、新学説や新発見をした大学者、有名な思想家等々、まず超人型である。従って、こういう人々は没後数世紀に亘って崇敬の的になり、偶像的に扱われる場合もよくある。この種の人はもちろん邪念などはいささかもなく、私利私欲など微塵もなく、真に人類のためと信じて、一生をそれに傾け尽したという立派な人もある。ところが私から見ればそれら偉人の業績も、人類に対し福祉を与える点もあり、また禍を与える点もあって、功罪どちらにも決められない場合もすくなくないのである。
言うまでもなく、右の偉人達は邪神とは関係はないが、その業績がある時期までは有用であったが、いつか有害無益になる例もある。学者にもそれがあり、宗教家にも同様の事がある。開教当時は立派なものであったのが、長年月を経て弛緩し、その宗団に争いが起ったり、堕落者等が出たりして、マイナス的存在になる事も、よく見聞するところである。また学問の場合も同様、発見当時一世を風靡した程のものでも、年の遷(うつ)るに従い有害な存在となる事もよくあるのである。
要するに、一切は主神の経論であって、文化発展上、正邪相争い、明暗、美醜相混じり、かくして一歩一歩理想に近づくので、これも深奥なる御神意であって、到底人智の窺い知るを得ざる事を知るべきである。