―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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新世界の誕生

『栄光』167号、昭和27(1952)年7月30日発行

 我メシヤ教は宗教ではなく、宗教はメシヤ教の一部であるのは、常に私の唱えているところであるが、では一体どういう名称ならピッタリするかというと、標 題のごとく新世界建設事業という名が合っていると思う。しかしこれでは何だか土建屋の看板みたいだから、今のところメシヤ教と呼ぶより仕方があるまい。そ うしてまず本教の企画であるが、それは現在の唯物科学と唯心科学を並行させ、文化の進歩発展を図る事である。御承知のごとく今までは科学文化が非常な速度 で走りつつあり、現在も走り続けているに対し、唯心文化である宗教の方は、兎に対する亀である。数千数百年以前文化がまだ幼稚な時代に生まれたままで、ほ とんど進歩はなかったため、ついに千里の差を生じてしまったのであろう。
 その結果として、今日科学のみがクローズアップされ、霊的の方は眼に入らないまでに遠くなってしまったので、ついに霊を無視し、科学のみを文化の全体と 思い込み、人間は科学の王者の前に跪(ひざまず)き、奴隷に甘んじているので、これが現在の世界の姿である。何よりも貴重なる人間の生命でさえ安心して、 科学の掌中に委ねているではないか。ところが事実科学では生命の安全は保証出来ないにかかわらず、それに気が付かず、相変らず盲目的に信頼しているのが現 代人の考え方である。そこで神はその迷
を 哀れみ給い、私をして現在それを教えているのである。すなわち生命は物質には属しない事、生命は眼に見えないだけで、厳然たる存在であって、神の支配下に あるものである事を事実をもって示されているのである。事実とは唯物医学で駄目と断定された者が、ドシドシ神力によって治されている。これが何よりの証拠 である。
 これについて考えなければならない事は、それではなぜ今日まで生命に関する程の重大問題が、不明のままであったかという疑問であるが、これも無理はな い。そこでこの事を想像してみると、科学文化をある程度まで進歩させる必要上そうされたのであって、これも神の経綸で、過渡期における一時的現象である。 それに対して神はその行き過ぎを訂正すると共に、唯物科学の分野と唯心科学の分野とをハッキリさせ給うので、これによって唯物唯心の科学は、歩調を揃えて 進歩し発展し、ここに真の文明世界が生まれるのである。一言にしていえば現在の旧世界は、ここに終りを告げ、新しき世界が造られるのであるから、私の仕事 はその産婆(さんば)役といってもいい訳である。