新宗教に正信はないか
『救世』50号、昭和25(1950)年2月18日発行
今日、雨後の筍(たけのこ)のごとく新宗教が現れ、現在約四百くらいあるとの話である、ところが中にはいかがわしいものも少なくない事実は誰も知っているが、これに対しジャーナリストは新聞雑誌に書く場合全部が全部迷信邪教と片づけてしまうのも無理はないが、実をいえば全く玉石混淆(ぎょくせきこんこう)で、無論本教などもその仲間へ入れられているのだからやり切れない。
しかしこの事実は今始まった事ではない、古くはキリスト、マホメットをはじめ日本でさえ法然、親鸞、日蓮、天理教祖中山ミキ女等、今日大を成している宗教ほど最初の中は迷信とされ迫害を蒙り、法難に苦しんだ事は歴史の示すところである、ただ釈尊のみがそういう事がなかったのは皇太子出身であったからでもあろう、とすれば吾々は誤解を受ける事は当然で、むしろ罪が軽いと思うべきで、現代文化特に民主主義の恩恵によるとして満足すべきであるかもしれない。
といっていつまでも本教に対し真の認識を得られないはずはないのである、したがって近き将来において、世の中に急激に認められる事になろう、何となれば本教出現の基本としては、最高の神霊が世の終末に際し、絶対力を揮われ給うからである、今回世界救世教会の名に改められた事もそのためである。
ここで特に言いたい事は、ひとり新宗教に限らず、既成宗教をも全部含めて本教と対比する時、本教が発揮する神霊の力のいかに画期的なものであるかを知り得るのである、もちろんその時期も迫りつつある今日、信者諸士においても最後の大活動を期待するので、それには何よりも神書を出来るだけ拝読し、身魂を磨かなければならないのである。