―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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社会悪は解決出来るか

『地上天国』20号、昭和26(1951)年1月25日発行

 我国における犯罪者の激増は、今までに見られない程であって、百人以上の集団強窃盗事件で被害高四億円などという大袈裟(おおげさ)なものや、集団暴行事件なども出たり、青少年犯罪の益々増えるなど、到底このままで済まされない世相である。それなら中流以上はどうかというとこれがまた問題である。ヤレ何々公団の涜職(とくしょく)、何々事業に絡まる贈収賄等々、忌わしい問題はほとんど尽くるところを知らないといってもいい。だがこれらはたまたま表面に表われただけの、言わば氷山の一角でしかないとしたら、現在日本の社会悪は底知れずの感がある。ちょうど一杯溜ったゴミの山のようなもので、足の踏み場もないという有様である。としたらいかにすれば、これを清潔に出来るかというその事が当面の大問題である。もちろんこれら多くの難問題に対し政府も有識者も憂慮し、解決に懸命になっているのは諒(りょう)とするも、容易に曙光(しょこう)すら認め得られないというのは、一体どうした訳であろうか。
 それについて吾らの見地から検討して見るとすると、当事者は実は飛んでもない見当違いをしているのである。それは全然目のつけどころが違っている。考えても見るがいい、第一犯罪のよって来るところは、どこに原因があるかという事である。この事がハッキリしなければ適切なる対策は立て得られるはずはないのは、判りきった話である。言うまでもなく犯罪の根本は人間の魂の問題で、これ以外には何にもない。すなわち魂の白か黒かで、善人ともなり悪人ともなるのである。従って黒い魂の持主を白に変える事こそ問題解決の焦点であって、それに気が付かないのが、今日の為政者及び有識者である。彼らはただ外部に表れたる枝葉末節の面のみを対象として各種の方策を立て、防犯施設に大童(おわらわ)になっているのであるから、言わば穴の開いている桶(おけ)へ水を汲んでいるようなもので、何年掛っても犯罪撲滅など思いもよらないのである。誰かの言葉に犯罪を徹底的に無くすには、一人の人民に一人の警官がつかなければ駄目だと言ったが、穿(うが)ち得て妙である。従っていかに司法制度を改善しても、警察や裁判所が懸命になっても、予期の効果を挙げ得られないのは当然である。
 では真に効果ある名案はないかと言うに実は大いにある。今、それを詳しくかいてみよう。前述のごとくすべての人間の魂を白に向かわせるにはただ一つの方法しかない。それは言うまでもなく宗教である。これ以外にない事は太鼓判を捺しても間違いはない。といって単に宗教でさえあればいいかと言うに、これがまた大いに考慮の余地がある。御承知のごとく宗教といっても八宗九宗色々ある。まず新しい宗教から採り上げてみるが、遺憾ながらこれはと思う安心の出来るものは暁の星のごとくである。としたら古い宗教はどうかというと、これも前述のごとき黒を白にする程の力あるものはありそうにも思えないのは、誰もが同感であろう。としたら、まず活眼を開いて、あらゆる宗教を検討してみる事である。その中からともかくこれならという宗教幾つかを選抜し、それを援助しないまでも、好意的に扱われる事であって、この方法以外良策はあり得ないと言えよう。
 ところがどうした訳か、当事者はいかに社会悪を憂慮しながらも、宗教に依存しようなどの考えは更に起さない。飽くまで前述のごとく唯物的方法にかじりついて離れようとしないのが現状である。としたら国民こそ不幸なものである。従ってこの盲点をひらき、真の宗教の本質を認識させる事が最緊要事であろう。言うまでもなく、犯罪者の観念は、見えざるものは信ずべからずという唯物観が基本である以上、人の目さえ誤魔化せばよいとし、それのみに智能を絞り、社会悪醸成を事としているのであるから、この観念を除去しない限り、他のいかなる手段をもってしても、一時的膏薬張り以外の何物でもあるまい。従って何としても唯心観念を根幹とし、神の実在を認識させなければならない。神の御目は不断に人間一人一人の行為を照覧し給うている事を信じさせ、悪因悪果、善因善果の道理を判らせるとしたら犯罪の根を断つ事は易々たるものである。
 しかしながら、この文を見た識者等はいうであろう。なるほど御説の通りに違いあるまいが、それだけで神を認めしむるなどは出来ない相談である、とするだろう。ところがそれは識者ら自身の観念がその通りになっているからで、在りもしない神の実在など押付けるとは、ヤッパリ迷信邪教の御託宣くらいにしか思わないであろう。というのは、彼らは単に宗教といえば、従来の宗教を標準として観るからで、これも無理はないが、ここで一歩退いて深く考えてみて貰いたいのは、科学文化である。これは実に駸駸乎(しんしんこ)として進歩し、次々発明発見が現われ、百年前と比べてみれば、その当時夢としていた事も今日は現実となっている。ところがひとり宗教のみは何百何千年前の立教当時と、いささかも変っていない事実で、この矛盾はなぜであろうか、という疑問が起らない訳にはゆかないであろう。
 ゆえに今日識者が宗教を観る場合、旧時代の遣物くらいにしか思わない、ちょうど骨董品的見方である。従って吾々が社会悪の解決は、宗教によらなければならないといっても、彼らは全然耳を貸そうとはしない、ここに問題がある。前述のごとく科学文化の進歩発展が、画期的時代を創りつつあると同様、宗教といえどもそれと同様なものが生まれなければならない。否科学の水準よりも一層前進したものが現われたとしても、あえて不思議はないであろう。としたら、その新生宗教こそ、科学で解決し得ないものを解決し得る力を有する事も、これまた不思議はないのである。この意味が納得出来たとしたら、本教の実態を把握されないはずはあるまい。忌憚なく言えば、本教がいかに偉大なる力を有してるかであって、一度本教に入るや、何人といえども容易に認め得るのである。考えても見るがいい、いかに立派なものでも、近寄らなければ見る事は出来ない。いくら美味の食物でも口へ入れなければ味は分らない。黄金の宝が土に埋っていても、掘らなければ掴めないと同様、ただ遠くで想像しているだけでは画にかいた餅である。人の噂や、新聞のデマなどに迷わされて、例の迷信邪教の一種くらいにしか想わないとしたら、自分から幸福を拒否するのである。まず何よりも進んで触れてみる事である。虎穴に入らずんば、虎子を得ずとは千古の金言であろう。


(注)
駸駸乎(しんしんこ)物事の進行の早く進むさま。