小乗信仰
『救世』53号、昭和25(1950)年3月11日発行
今日宗教を批判する場合、こういう事をよく聞くのである、それは宗教の本来は教主初め幹部その他も、粗衣粗食茅屋(ぼうおく)に住み、出ずるに電車バスまたはテクで、出来るだけ質素にすべきであるというのである、なるほど、往昔(おうせき)の開祖教祖が信仰弘通(ぐつう)に当って、草鞋(わらじ)脚絆(きゃはん)で単身巷(ちまた)に出で街頭宣伝をやったり、時には野に伏し山に入り、断食をし滝にかかる等あらゆる辛酸を嘗(な)めたり、または牢獄へ投ぜられ、遠島の刑罰まで受けたのであるから、今日からみればその苦難の実蹟〔績〕は、涙なしでは見られないのである、そうしてようやく得たところは一区域一地方がようやくであって、大抵は死後数代または数十代を経てから全国的に拡がるという訳で、今日に比しその不遇に終始した事実は想像以上である。
右のような実情が一般人の頭にコビリ着いているため、新宗教を見る場合もそういう眼鏡を通すので誤られやすいのは当然である、もちろんこのような宗教こそ小乗信仰というのである、この小乗信仰の発祥は最も古く釈迦誕生以前の印度(インド)に生まれたバラモン宗からで、この教の主眼とするところは、難行苦行によって悟りを開くとされている、今でも印度の一部にはこのバラモン行者が少数ではあるが残存しているそうで、彼らは相当霊力を発揮し、奇蹟も表わすそうである、彼のガンジーの断食行も彼が若い頃バラモン行者であったからであろう。
これについて面白い話がある、釈尊が八万四千の経文を説いたその根本はこうである、釈尊がその頃の印度の状態を客観する時、何しろバラモン宗が蔓(はびこ)っていたので、難行苦行をやらなければ悟りが開けないとなし、それが信仰の本道とされていたのである、今日日本各所に遺っている羅漢の絵画彫像はバラモン行者の難行苦行の姿であるにみて、いかなるものかが想像され得るであろう、ここにおいて釈尊の大慈悲心はこれを見るに忍びず難行苦行によらないで悟りを得る方法を開示されたのが彼の経文である、経文をただ読誦(とくしょう)するだけで難行苦行によらずとも、悟道に徹し得るというのであるから、それを初めて知った大衆の歓喜は言うまでもない、実に釈尊ほど有難い聖者はないとして敬慕讃仰し、ついに仏法は印度全般を風靡したのである、これによってみても釈尊の救業中、最も大なる功績がこれであったといえよう。
小乗宗教は時代錯誤
以上の意味にみても、苦行的小乗信仰は釈尊の大慈大悲の御意志に背く訳で、実は釈尊の救いの対象であったバラモン宗に傾く訳であり、いかに誤っているかが判るであろう、ゆえに釈尊も極楽界においてさぞ歎かせられ給うと想うのである、右によってみても小乗信仰のいかに誤っており、時代錯誤であるかを知るべきである、また別の面から観る時、今日の宗教弘通(ぐつう)の上において、交通や出版術等の発達は、昔十年かかったものが一日で同様の事をなし得る以上どうしても時代に即応し文明の利器を極度に利用すべきが本当である、しかるに独り宗教のみが古代人的のやり方では、真目的が達し得られないのは判り切った話である、何よりの証拠は、今日既成宗教が時代から離れんとしつつある事実にみても余りに明らかである。
従って、吾々が現に行いつつある宗教活動を見る時、小乗的眼鏡の持主は、ただ驚歎するのみで、真相の把握など想いもよらないのである、それだけならまだいいが、ある一部の人は吾らを目して金殿玉楼に住むとか、豪奢な生活をするとかの悪評を放つ事である、しかしながら、吾々は多数の信徒からの寄進のみで経営しつつある以上、金銭による必要はないと共に、仮に小乗信仰者の批評を是とすれば、せっかく寄進した食物も腐らすか、塵溜へ捨てなければならない事になろう、また種々の物品も闇で売る訳にもゆかず、返還する訳にもゆかない、しかも信徒の誠で大きな家を献納されるので、それを使用しない訳にもゆかない、それどころかそれによって人類を救うべき大きな仕事が出来るのだから、これらを考える時、小乗者の観方のいかに誤っているかが判るであろう。
歓喜の生活つくる本教
しかも本教の理想とする所は、病貧争なき世界を作るにある以上、入信者のことごとくは健康で裕かで、和気藹々(あいあい)たる歓喜の生活者たり得るので、今日のごとき地獄的社会に呻吟しているものからみれば、想像も付かないばかりか、むしろ実現を否定し、大衆を釣るための好餌くらいにしか思わないであろう、そうして現在造りつつある地上天国の模型を、金殿玉楼的贅沢品くらいに思うかも知れないが、吾らの目的は今日の地獄的社会を脱(のが)れて、時々天国的塵外境に遊ばせ真善美の天国的気分に浴せしめ、歓喜の境地に浸りながら、高い情操を養わせるのであるから、いかに現代人にとって必要事であるかは、今更多言を要しないであろう、全く今日の社会の雰囲気では下劣な人間が造られ、青年を堕落させ、到るところ社会悪の温床たらざるはないのであるから、この地上天国こそ現代における唯一のオアシスと言ってもよかろう、吾らのこの遠大にして崇高なる計画を真に認識さるるにおいては、非難どころか双手(もろて)を挙げて賛意を表すべきである。
次に今一つの重要事がある、それは日本人が過般の侵略戦争によっていかに世界から誤られ、信用を失墜したかは今更言うまでもないが、その信用を一日も早く挽回する事こそ吾らに課せられたる最も切実な問題であろう、この意味においても日本の自然美と日本人の特色である美的才能を示すべき重要施設であろう、今後益々外客の訪日に対し旅情を慰めると共に、日本高度の文化面を認識させる上にいかに役立つかは実現の暁世を挙げて讃美するであろう事を今より期待しているのである。
以上が小乗信仰と大乗信仰の解説である。