―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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書に就て

『栄光』111号、昭和26(1951)年7月4日発行

 いつも独得な観察と、軽快な文章をもって、本紙を賑わしている江川君が今度書と宗教についてという感想文をかいたのを見て、私もそれに刺戟され思いついたままをかいてみよう。
 元来、書とは昔からよく言われている通り、その人の人格を筆によって表現するものであるから、偉人や高僧智識等のかいたものを尊しとされている、面白い事には茶道と書とは、切っても切れない関係のある事で、それについて私は以前、利休の茶会記事を読んだ事があるが、それによると利休は墨蹟(ぼくせき)を好み、茶会の時はいつも床へ掛けていたという事で、偶(たま)には画もあるが、それは牧谿(もっけい)に限られていたそうである、墨蹟は無論、支那(シナ)の宋から元にかけての高僧の書いたもので、中には日本へ帰化してから書いた人もあり、日本の禅僧の書も尊ばられている、まず有名なのは、大徳寺の開山(かいさん)、大燈(だいとう)国師をはじめ、円覚寺の開山、無学(むがく)禅師やその他夢窓(むそう)国師、支那およびその帰化僧としての圜悟(えんご)、無準(ぶじゅん)、宗園(そうえん)、茂古林(むくりん)、清拙(せいせつ)、虚堂(きどう)、兀庵(ごったん)、大慧(だいえ)、琦楚石(きそせき)、自如(じじょ)、恩断江(おんだんこう)等があるが中にも私の好きなのは大燈と無準と宗園である、そうして以上のような墨蹟をみていると、巧みな字はもちろんだが、巧みでない字でも眺めていると、何かしら犯すべからざる一種の高邁さに打たれるのである、全くその人の人格から滲み出る高さであろう。
 次にこれは別の意味においての、大徳寺代々の禅師の書で、これも仲々捨て難いものがある、特に一休の書に到っては、実に稚拙(ちせつ)ではあるが、いささかも形に囚われない、上手(じょうず)にかこうなどという臭味などいささかもなく、実に天真爛漫よく一休の天衣無縫(てんいむほう)的性格が表われている、面白い事には一休の贋物が随分あるが、反って字が巧すぎるから判るくらいだ、また沢庵の書も仲々いいがこれは相当巧みな字で、しかも覇気があり、悟りを開いたという衒(てら)いなどのないところに、禅師の風格が偲ばれる、その他清巌(せいがん)、江月(こうげつ)、玉室(ぎょくしつ)等にも見るべきものがあるが、武人としては楠正成の字も非常に巧いと思うが、秀吉と家康の字も相当なものである、この間私は某所で空海の書をみたが、仲々柔味のある好い字であるが、世間でいう程ではないと思った、近代に至っては山岡鉄舟の書も面白い、彼の自由奔放なる書体は高く評価してよかろう、巌谷一六(いわやいちろく)の書も捨て難いものがあるが、何と言っても良寛であろう、彼の脱俗的な軽妙な書体は、見て微笑(ほほえま)しいくらいである、それから書家としての貫名海屋(ぬきなかいおく)の字も達筆である、私はいつか海屋のかいた六曲の屏風を見たが、一曲一行文字で実に見事な書風で感心させられた。
 次に古筆の方面を少しかいてみるが、私が最も好きなのは紀貫之(きのつらゆき)である、もちろん万葉仮名であるが、実に何ともいえない気品と旨味があり、頭が下るくらいである、次で道風、西行もいい、私はこの三人の文字が一番好きだ、その他としては行成(ゆきなり)、定家(さだいえ)、佐理(すけまさ)、良経(よしつね)、俊成(としなり)、公任(きんとう)、俊頼(としより)、宗尊(むねたか)親王等それぞれいいところがある、女性としては小大君(こだいのきみ)、紫式部もいい、今生きている人の中では尾上柴舟(おのえさいしゅう)氏の字もいいが、氏の歌も私は好きである、まずこのくらいにして筆を擱(お)く事とする。

(注)
牧谿(もっけい)
中国、宋末・元初の画僧。法名は法常、牧谿は号。西湖六通(りくつう)寺の開山という。多岐にわたる水墨画を描いたが当時興った文人画の系列でなく軽視された。日本へは早くから伝わり、日本水墨画に多大な影響を与えた。大徳寺伝来の「観音・猿・鶴」三幅図ほか伝称作も含め多くが伝わる。生没年未詳。

開山(かいさん)
仏寺を初めて開くこと。また、開いた僧。開基。一宗一派を初めて開いた僧。祖師。開祖。

大燈国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、1282-1337)
鎌倉末・南北朝期の臨済宗の僧。播磨(兵庫県)の人。諸禅師について学んだのち、遂に南浦紹明の門に入りその法を継いだ。のちに京都紫野に大徳寺を開き、花園・後醍湖両天皇の帰依を受けた。

無学祖元(むがくそげん1226-1286)
鎌倉時代、南宋から渡来した臨済宗の僧。弘安二年(一二七九)北条時宗の招きで来日。建長寺に住し、円覚寺を開山。無学派・仏光派とよばれ、日本禅宗に大きな影響を与えた。諡号は、仏光国師・円満常照国師。

夢窓疎石(むそうそせき、1275-1351)
鎌倉末・室町初期の臨済宗の僧。伊勢の人。諡号(しごう)、夢窓国師。天台・真言などを学んだのち、臨済禅を修めた。後醍醐天皇や足利尊氏らの帰依をうけ、甲斐の恵林寺や京都の臨川寺・天竜寺を創建。

圜悟克勤(えんごこくごん、1063-1135)
中国、宋代の臨済宗の僧。中国臨済宗第五祖の法演の門下。夾山の碧巌に住み、「碧巌録」(一〇巻)を著した。仏果禅師。真覚禅師。

無準師範(ぶじゅんしばん、1177~1249)
佛鑑禅師。中国・南宋の名僧。錦州に生まれ、長く中国禅宗の名刹径山に住し、南宋の理宗皇帝に召されて禅の要諦を説き、佛鑑円照禅師の号を賜わった。

春屋宗園(しゅんおくそうえん、しゅんのくしゅうえん、1529-1611)
臨済宗の僧。大徳寺112世住持で、笑嶺宗訴の法嗣であり、一黙子と号し、後陽成天皇より大宝円鑑国師の号を賜る。古田織部の参禅の師。

茂古林(むくりん)古林清茂(くりんせいむ、1262-1329)
中国の元時代の禅僧。日本からきた留学僧が多く入門した。その一人「幽禅人」に与えた送別偈(そうべつのげ)が有名。

清拙正澄(せいせつしょうちょう、1274-1339)
中国、元代の臨済宗の僧。福州(福建省)の人。1326年来日。北条高時に信任され、建長寺・建仁寺・南禅寺などに住した。日本禅宗二十四派の一である清拙派、大鑑門徒の祖。諡号(しごう)、大鑑禅師。

虚堂智愚(きどうちぐ、1185-1269)
中国、南宋代の臨済宗の禅僧。四明(浙江省)象山の人。16歳で普明寺の師蘊の下で出家。宏智派の雪竇煥、浄慈重皎などに参じ、のち松源派の運庵普巌に嗣法した。

兀庵普寧(ごったんふねい、1197-1276)
鎌倉中期に来日した中国南宋の臨済宗の僧。諡号は宗覚禅師。無準師範に師事して印可を受け、来日後、北条時頼に招かれて建長寺第二世となった。文永二年(1265)帰国。

大慧宗杲(だいえそうこう、1089-1163)
中国、宋代の臨済宗の禅僧。看話禅の大成者。宣州(安徽省)の人。16歳で出家し、洞山道微、潭文準に参じ、東京の天寧寺の圜悟克勤の下で悟りを開き嗣法した。公案による悟を強調し、禅思想に期を画した。

楚石梵琦(そせきぼんき、1296-1371)
元末明初に重きをなした禅僧。書法にこだわらない個性的な書の多い墨跡の中で、礎石の書は、中国趙子昂に習い形の整った本格的な書風である。

清巌宗謂(せいがんそうい、1566-1661)宗清?
江戸初期の臨済宗の僧。近江(滋賀県)大石の生まれで、俗姓は奥村氏。9歳で京都・大徳寺の玉浦紹について出家し、1625年(寛永2)大徳寺170世となる。千宗旦(せんのそうたん)参禅の師で、その一行書(いちぎょうしょ)は茶席の掛物として大いに愛好された。

江月宗玩(こうげつそうがん1574-1643)
江戸初期の臨済宗の僧。茶人。号、欠伸子・袋子・赫々子など。津田宗及の子。大徳寺の住持。茶を父や小堀遠州に学び、詩文・書にも秀でた。

玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)
桃山から江戸初期の臨済宗の僧侶。京都の人。春屋宗園の法を嗣ぎ、沢庵宗彭や江月宗玩と兄弟弟子になる。36歳で大徳寺147世の住持となり、後陽成天皇の帰依が厚く、「直指心源禅師」の号を賜った。その書画は、気韻清高をもって人々から尊重される。とくに書は、師春屋に通じ、洗練された洒脱さを示している。

巌谷一六(いわやいちろく、1834-1905)
滋賀県近江の人。名は修。家は代々水口藩の待治であったので、医学の勉学に励むかたわら、絵や書を学び、個性的な書風で明治時代の三筆と称えられる。明治維新後、政府に仕えて内閣書記官など歴任し政治家として活躍した。

貫名海屋(ぬきなかいおく、1778-1863)
江戸後期の書家・画家。阿波の人。空海をはじめ和漢の書を研究。南画にすぐれたほか、京都で須静塾を開いて儒学も講じた。幕末の三筆の一人。

藤原行成(ふじわらのゆきなり、972-1027)
平安中期の公卿・書家。名は「こうぜい」とも。三蹟の一人で、その筆跡を歴任した権中納言・権大納言から権跡(ごんせき)という。和様書道の完成者で、世尊寺流の祖。

藤原定家(ふじわらのていか、さだいえ、1162-1241)
平安末期・鎌倉初期の歌人・歌学者。俊成の子。京極中納言と称さる。法号、明静(みようじよう)。「新古今和歌集」(共撰)、「新勅撰和歌集」を撰した。その書は「定家流」と呼ばれ、尊重された。

藤原佐理(ふじわらのすけまさ、944-998)
平安中期の公卿・書家。名は「さり」とも。三蹟の一人で、その筆跡を佐跡という。

藤原良経(ふじわらのよしつね、1169-1206)
鎌倉初期の公卿・歌人・書家。九条兼実の子。摂政・従一位太政大臣となり、後京極殿と称される。歌を俊成に学び、定家の後援者でもあった。書では後京極流の祖。九条良経。

藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい、1114-1204)
平安後期の歌人。名は「としなり」とも。定家の父。法名、釈阿。幽玄体の歌を確立し、王朝歌風の古今調から中世の新古今調への橋渡しをした。後白河院の院宣により、「千載集」を撰進。

藤原公任(ふじわらのきんとう、966-1041)
平安中期の歌人・歌学者。通称、四条大納言。故実に詳しく、また、漢詩・和歌・音楽にすぐれた。「和漢朗詠集」「拾遺抄」「三十六人撰」などを撰。

源俊頼(みなもとのとしより1055-1129)
平安後期の歌人。自由清新な和歌によって高く評価され、保守派の藤原基俊と対立した。金葉集を撰進。

宗尊親王(むねたかしんのう、1242-1274)
鎌倉幕府第六代将軍。在職1252-1266。後嵯峨天皇の皇子。謀反の疑いで京に送還され、のち出家。歌集「柳葉和歌集」など。

小大君(こだいのきみ)
平安中期の女流歌人。三十六歌仙の一人。東宮時代の三条院に女蔵人(によくろうど)として仕え、左近と呼ばれた。家集「小大君集」。生没年未詳。こおおぎみ。

尾上柴舟(おのえさいしゅう、1876-1957)
歌人・国文学者・書家。岡山県生まれ。本名、八郎。「あさ香社」同人、「車前草(しやぜんそう)社」などを創立。書道教育にも尽力。