宗教と学問
『栄光』243号、昭和29(1954)年1月13日発行
これはちょっと気が付かない事だが、よく新聞の学芸欄などで、学者が宗教を論じている記事を散見するが、考えてみればおかしな話である。いうまでもなく学問は形而下(けいじか)的のものであって、宗教は形而上(けいじじょう)的のものであるから、つまり主客転倒である。ところがこの逆である理を別段怪しむ事もなく、当然な事のようになっているのが今日の社会である。というのは一体何がためかというとつまり現在の宗教が無力である事を示しているというより外に言葉はない。というのは現在宗教のあり方は、伝統と形式と理屈だけで有難そうには見えているが、実際生活に対してほとんど識者を満足させるだけの内容がないのは、知る通りである。
従ってこの点からみて、宗教よりも学問の方が実際的価値があるとしたら、人は宗教よりも学問の方を重く見るのは当然であろう。何しろ今日のごとき生存競争の激しい複雑極まる社会としたら、余程力強い実際的価値あるものでなくては、人は振向こうとはしないのはもちろん、単なる精神的救いのみでは無意味であるからである。という事実を考えたなら、前記のごとき新聞記事も敢(あ)えて咎(とが)むる訳にはゆかないであろう。忌憚(きたん)なく言えば学問では救い得ない面を救う力ある宗教なら、学問以上に扱われるのは当然であるが、そういう宗教は今のところまずないというのが間違いない見方であろう。そこで自画自讃ではないが、正直にいって我救世教こそ、それに該当するといっても過言ではないと思うのである。
(注)
形而下(けいじか)、形をそなえるもの。自然一般の現象。
形而上(けいじじょう)
形をもっていないもの。哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。