宗教プラグマチズム
『栄光』106号、昭和26(1951)年5月30日発行
アメリカの有名な哲学者バースが、最初唱え出したプラグマチズムは、ウィリアム・ジェームスに至って世界的哲学思想となったので、今日はジェームスが本家のようになってしまったという事である。このプラグマチズムの言葉を訳すと、実利主義とか、実行主義とかいうのだそうだが、私は「行為主義」と言った方が、どうもピッタリするように思う。これは哲学に関心を持つ程の人は、誰もが知っているから多くをいう必要はないが、今私が言いたいのは、宗教プラグマチズムである、これは以前も一度かいた事があるが、今一度徹底したいと思うので、再びかくのである。
単に、宗教行為主義というと、既成宗教のいずれもは実行しているように見えるが、なるほど文書による宣伝や、言葉の説教、祷(いの)り、宗教的行事、禁欲、難行苦行といったような事は、誰も知っているが肝腎な実生活にまで及んでいないのが遺憾である。だから忌憚なく言えば、実生活と離れた一種の精神的修養でしかないと言えよう。ところが哲学プラグマチズムは、実生活に哲学を採り入れ、役立つものにしようとするものでこの点実にアメリカ式である。それと同様私は宗教を実生活に取入れるというよりも、宗教と実生活と密接不離な関係にまで、溶け込ませようとするのである、だから今までの既成信仰者のように、独善的、孤立的、観念的ではなく、超世間的な点を最も嫌い、飽くまで一般人と同様であるのはもちろん、極力信仰の臭味を無くするようにし、万事常識的で、信仰があるのかないのか人の目には映らないくらいにするところまで、信仰が身に着いてしまわなければならないと思う、つまり応身の働きである。
宗教行為主義とは、以上によってほぼ納得されたであろう。