想像による批判
『光』8号、昭和24(1949)年5月8日発行
本教に対し、新聞雑誌が種々の批判的記事を掲げているが、そのほとんどは迷信邪教的に扱っているのは読者の知るところである、ところが彼らはほとんど調査などは行っていない、世間の風聞を本(もと)とした想像的産物であるからたまらない、考えてみれば実に無責任な話である、新聞は事実を報道するなどというのは宗教方面にはあまり通用されていない、なるほど宗教の本質は眼に見えざる空に等しきものであるから、どうにでも想像がしやすいからでもあるが、これらはもっとまじめに責任を感じて、出来る限りの調査検討をなすべきであろう、新宗教必ずしも迷信ばかりではあるまい、中には真に社会大衆に稗益(ひえき)すべきものも必ずあるべきはずである、これら無責任のため多くの不幸に喘ぎつつある人達が救われ損なうという事実も相当あり得るはずである、とすればその罪は不真面目な新聞記事にあるのはもちろんである。
ここに関して今日実に馬鹿馬鹿しい事は一方で人心悪化を憂え、これを救うのは宗教でなければならないと言いながら、一方では迷信邪教を撲滅すべしというのであるから、こんな矛盾した話はない、こう考えてくると、彼らの論旨は宗教といえば古い既成宗教だけを目標としている事である、ところが既成宗教は御承知の通り日本には山程あって、何百年も前から遺憾なく救霊に努力しつつあるにかかわらず今日のごとき悪世相となるのを防止出来なかったのであるから既成宗教の力では社会悪を防ぎ得ないという試験済のはずである。
右によって考うれば、どうしても既成宗教以外に求むるより外はないではないか、ところが前述のごとく新聞人や当局は既成宗教以上のものはないと決めてしまって、新しいものには最初から色眼鏡で見るのであるから、その誤謬に目覚めない限り、人心善化などは思いもよらないのである、この意味において吾らは左のごとき方法を提言する、それは新宗教の中あまり小さいのは未知数としてそのままに置き、ある程度頭角を表わしたものをよく調査検討し、その中の優秀なものを選抜し、大いに援助を与えるべきである。
それ以外人心悪化を防止する最善の方法はない事を断言するのである。