対症療法の可否
『栄光』114号、昭和26(1951)年7月25日発行
現代医学は対症療法というが、これほど間違った話はない、すなわち熱が出たから氷で冷す、痛いから神経を麻痺させて苦痛を免れるというやり方は、ホンの上面(うわっつら)に現われた、いわば病気の結果を対象とするのであるから、治るはずはないのである、何となればあらゆる病気症状は症状として現われるべき原因が、どこかに潜んでいるからである、この理によって本当に病気を治すには、症状などは末梢的なものであって、どうしてもその根本原因を探り当て、それを除去しなければならない事は余りにも当然である、例えば頭痛にしても、脳貧血のためと、発熱のためと両方ある、前者は頸(くび)の周囲に固結があり、それが血管を圧迫して貧血する、後者はその固結の溶解のため発熱する、それが頭脳へ影響して痛むのである、また盲腸炎は右側背面腎臓部に、必ず固結がある、それが長い間に少しずつ溶解し一旦盲腸部に滞溜固結していたものが、急に発熱によって液体となり、下痢によって排泄されようとするその痛みである、また手指にできるひょう疽(そ)は、左右いずれかの頸部淋巴腺(りんぱせん)に固結した猛毒が、指の先から排泄されようとして一旦指頭に溜り、皮膚を破って出ようとし、腫(は)れるための激痛である、胃痙攣の痛みは、背中にある固結が溶けて、胃へ集まり腸へ下降しようとするその痛みである、あらゆる眼病は、頭脳に溜っている毒素が、眼から出ようとして、一旦眼に集まる、というように病気症状というものは必ずその本元があるのである、本教浄霊によって医学が足元へも寄り付けない程の素晴しい効果があるのは、全く本元を治してしまうからである。この点に目醒めない限り医学が何程進歩しても、全治は難しいのである。