天国は美の世界
『栄光』112号、昭和26(1951)年7月11日発行
神様の御目標は、真善美完(まった)き理想世界を御造りになるのである事は、本教信者はよく知っているところである。としたらその反対である悪魔の方の目標は、言わずと知れた偽悪醜である。今それを解釈してみるが、偽はもちろん文字通りであり、悪も説明の要はないが、ここに言いたいのは醜の一字である。
ところが世の中には、往々間違えている事がある。というのは醜が真善に付随している例で、これを見た人達は、反って讃仰の的とさえする場合が往々ある。これを判り易くいえば粗衣粗食、茅屋(ぼうおく)に住み、最低生活をしながら、世のため人のためを思って、善事を行っている者も昔から少なくないのである。なるほど境遇上そうしなければ、生きてゆかれないとしたら、止むを得ないとしても、それ程にしなくとも、差支えない境遇にありながら、好んでそのような生活をするのはどうも面白くないと思うが、中には修養の手段として特に禁欲生活をする宗教家も、今まで沢山あったが、こういう人は自分もそれが立派な方法であると思い、世人もそれを見て偉い人と思うのであるが、実をいうとこの考え方は本当ではないのである。何となれば肝腎な美というものを無視しているからで、つまり真善醜である訳である。この意味において人間の衣食住は、分相応を越えない限り、出来るだけ美しくすべきで、これが神様の御意志に叶うのである。何よりも美は自分一人のみの満足ではなく、他人の眼にも快感を与えるから、一種の善行とも言えるのである。第一社会が高度の文明化する程、あらゆる物は美しくなるのが本当である。考えてもみるがいい、蕃人(ばんじん)生活にはほとんど美がないではないか。これにみても文化の進歩とは、一面美の進歩といってもよかろう。
もちろん個人の場合、男性といえども見る人に快感を与えるべく適当の美しさを保つべきで、まして女性にあっては、より美しくするよう心掛けるべきである。もっとも女性にそんな事をいうのは、反って余計な御世話かも知れないが、マアーそういう理屈であろう。また一家の部屋内もそうで、天井の蜘蛛の巣などにも常に注意を払い、座敷は塵一つないようよく掃き清め、目障(めざわ)りな物は早く片付けると共に、調度、器物なども行儀よく、キチンとして置くようにすれば、第一家族の者はもちろん、人が来ても気持よく自然尊敬の念が湧くもので、その家の主人の値打も上るのである。また家の外廓もあえて金をかけなくともいいが、努めて修理を怠らず清潔にすれば、道行く人にも快感を与えるばかりか、観光国策にも好影響を与える訳である。それについて彼のスイスの話であるが、同国は狭いためもあろうが、何しろ町も公園も塵一つない程掃除がよく行届き、実に気持がいいと言われている。この国の観光客の多いのも、それが大いに原因しているという事で、これらも他山の石として、大いに参考としてよかろう。
以上によってみても、吾々日本人は、大いに美の観念を養う必要があろう。これによって、小は個人は元より、大にして社会国家に対しても、意想外の好影響を与える事になろう。ところがそればかりではない。美の環境によって、社会人心も美しくなるから、犯罪や忌わしい事などもずっと減るであろうから、この事だけでも地上天国の一因ともなるであろう。最後に私の事をかいてみるが、私は若い時分から美に関した事が好きで、随分貧乏に苦しみながらも、小さな空地へ花を作ったり、暇さえあれば絵を描いたり、出来るだけ博物館や展覧会などへ行き、春は花に楽しみ、秋は紅葉を愛(め)でなどしたものである。そうして今は神様の御蔭で自然に生活も豊かになり、美を楽しむ事も思うように出来ると共に、それが御神業の一助ともなるのであるが、これを知らない第三者から見ると、私の生活は贅沢のように見られるが、これも致し方ないであろう。いつもいう通り、昔から宗教の開祖などと言えば、貧しい生活をしながら難行苦行をし、教を弘通(ぐずう)した事などと比較して、余りに異(ちが)っているので変に思うであろうが、実はその時代は夜の世界であったから、宗教といえども地獄にありながら信仰を弘めたのである。ところがいよいよ時期転換、昼の世界となりつつある今日、反対な天国に住しながらの救いであるから、その点深く考えなければならないのである。
最後に言いたい事は、彼の共産主義であるが、これも目標は地上天国を造るのだそうだが、他の事は別としても、同主義者に限って、美の観念はいささかもない事である。としたら同主義が美を採り入れない限り、本当のものでない事が分るであろう。