超愚
『栄光』229号、昭和28(1953)年10月7日発行
この題を見たら随分変な題と思うだろうが、これより外に言いようがないから付けたのであって、言い換えれば超馬鹿である。従ってこれを読むに当っては、既成観念を全部捨ててしまい、本当の白紙になって読まれたいのである。しかも今日智識人程そうであるから始末が悪いと思う。例えばダイヤモンドと思って長い間珍重していた宝石が、実は石の欠片(かけら)と同様なお粗末なものであったからで、これが分ったなら唖然として腰を抜かすであろう。前置はこのくらいにしておいて、さて本文に取掛るが、まず病気と薬との関係である。今日誰しも病気に罹(かか)るや、薬の御厄介になる。恐らくこの際何らかの薬を服まない人は一人もないであろう。もちろん薬を服めば治ると思うからで、この考え方は随分古い時代から、人間の常識とさえなっているのである。
そこでこの事について今まで何人(なんぴと)も思ってもみなかった意外な事を以下かいてみるが、それには充分心を潜めて読めば、至極簡単に分るはずで、難しい事は少しもないが、何しろ長い間の迷信が災して、分りそうで分らないのである。そこでいとも平凡な説き方をしてみるが、それはこうである。例えば普断至極健康で働いていられたのは、薬を出来るだけ服んでいたからで、それがたまたま懐(ふところ)都合が悪くなったりして薬を買う事が出来ず、一時服む事を休めざるを得なくなった。言わば薬が切れたのである。そこで今まで健康を維持していた薬が止まった以上、病気が起ったのであるから、早速無理算段しても、命には代えられないから、金を作り、薬を買い、からだへ入れたところ、たちまち快くなったので、ヤレヤレと胸を撫で下したというようなものである。これはちょうど一度か二度食事を抜いたため腹が減り弱ったので、早速食事をしたところ、たちまち元気快復して働けるようになったと同様な訳である。
これだけ読んだら、誰でも分ったような分らないような、不思議な気持になるだろう。ところが今日世の中の全部の人がそんな変な事を行っていながら、当り前の事として気が付かないのである。そうかと思うとよく自分は健康だから薬を服まないと自慢している人もあるが、これも可笑(おか)しな話となる。薬を服まないで健康であるという事は、最初にかいた薬を服むから健康だという事とは全然矛盾する。またこういう事も沢山ある。それは年中薬を服みつつ病気ばかりしている人である。これも可笑しな話で、薬で病気が治るとしたら、薬を服む程健康になるから、いい加減で止めてしまうのは当然で、何を好んで高い金を出して不味(まず)いものを服む必要があろうか。
今一つの分らない話は、世間には健康だから薬を服まない。薬を服まないから健康だという人と、その反対に弱いから薬を服む。薬を服むから弱い、という人との二通りあるのが事実で、むしろ後者の方がズッと多いであろう。としたら右の二様の解釈はつかないのはもちろんである。なぜなればこの説明が出来るくらいなら、病気は医学で疾(と)うに解決されているからである。この解釈こそ私の方では何でもない。それは医学で治らない病人がドシドシ治るのであるから、これが何よりの証拠である。それを説明してみれば実に簡単明瞭である。すなわち薬が病気を作り、薬をやめれば病気が治る。ただそれだけである。
以上によってみても分るごとく、今の世の中は薬で病が治るとする迷信で、高い金を費(つか)って病気を作り、悪化させ、苦しんだ揚句(あげく)命までフイにしていながら、それに気がつかないどころか、反って満足しているのだから馬鹿どころではない。馬鹿を通り越して言葉では言い表わせない。それは昔からこれ程の馬鹿はないから、言葉が生まれていなかったのであろう。そこで止むなく超馬鹿では耳障(みみざわ)りと思うから、超愚とかいた次第である。このような訳で私が医学の蒙(もう)を分らせるのには、普通のかき方では、迷信のコチコチ頭を打ち砕く事は難しいので、これでもかこれでもかと色々工夫して、新熟語を考え、目を廻すような鉄拳を喰(くら)わし救うので、この文がそれと思って貰えばいい。