世のインテリ族に物申す
『栄光』220号、昭和28(1953)年8月5日発行
およそ世の中に命の要らない人は一人もあるまい(自殺者は別だが)。ところがこれ程尊い命が救われ、その原因である病気が治ってしまうとしたら、それで 問題解決何も残らないはずである。とはいうもののそんなドエライ治病法がこの世の中にある訳がないから、そんな戯(たわ)けた事をいったところで始まらな いと誰しも言うであろう。もちろん科学の努力といえどもこの事以外にはないが、今日までのところそれは全然不可能であった。ところがこの解決方法が発見さ れたとしたら、これこそ二十世紀の大問題でありしかもその発見者が我救世教であるという事が判ったなら、何人(なんぴと)も驚嘆到底信ずる事は出来ないで あろう。それは事実が証明している。例えば医学で見放された重難症患者が、疑っても信じなくとも容易に全治するという素晴しい医効は、古往今来絶対あり得 ない事で、全く夢の現実化である。むしろ余りの偉効に逆に疑いを抱く人さえあるが、それも無理はない。何しろ現代人は子供の時から、病気は医者と薬で治す ものと教育され、常識となっているからである。従って本教浄霊医術は、原子爆弾がブッ放(ぱな)されない以前、いくら説明されても分らないと同様であろ う。
そのような訳でインテリ族中の丁髷(ちょんまげ)の人々はどんなに説明しても事実を目の前に見せても、信じ得ないその頑迷さは全く不可解である。それど ころではない、専門家の医師でさえ自分で見放した病人が浄霊で助った奇蹟を見せられても、ただ首を捻(ひね)り溜息を吐(つ)くばかりで、進んで研究しよ うともしないロボット的態度である。恐らくこれ程の迷信は人類史上類例があるまい。ところがそれと同様の不思議さがまだある。それはインテリ中の宗教学者 である。彼らはいわく、元来宗教が病気を治すのは間違っている。元々宗教は精神的救いであって、肉体的救いは医師の領分であるというのである。なるほど一 応はもっともらしく聞えるが、一歩退いて考えればこうなるであろう。それは医学で真に病気が治るとしたら問題はないが、事実は何程医学を信じ、博士や大病 院にかかり、言う通りに最新の療法を受けても一向治らないどころか、反って益々悪化し、命までも危うくなるので、医療を諦め吾々の方へ来るのである。とこ ろが浄霊を受けるやたちまち奇蹟的に全治するので吃驚(びっくり)して入信する。という訳でそれを聞き伝えた人々は後から後から来る。これは当然であって 何ら不思議はない。本教異常な発展がそれをよく物語っている。
これを春秋(しゅんじゅう)の筆法(ひっぽう)でいえば、新宗教少なくも本教の発展は、全く医学の無力のためであるから、結果からいって医学が新宗教を 発展させている訳である。ゆえにもし医学が吾々の方で治らない病気を治すとしたら、患者は何を好んで世間から疑惑に包まれている吾々の方へ来るかという事 である。そうして医学も宗教も、その目的は人間の不幸を除き、安心立命を得させる点において同様であり、その根本が健康である以上、他のいかなる条件が具 備しても零(ゼロ)でしかあるまい。この意味においてどんなに有難い経文でも御説教でも、立派な学説でもそれだけでは幸福は得られない。単なる精神的慰安 でしかないのは、今日の既成宗教を見ればよく分るごとく、そのほとんどが衰退の一途を辿(たど)っている。これに気付かない限り、ついには潰滅の運命ある のみと言わざるを得ないのである。
それに気が付いてか付かないでか、宗教学者は口を開けば現当利益は低級なりと非難し、額へ八の字を寄せなければ読めないような活字の羅列をもって高級宗 教のあり方としているが、これこそ現実離れの御道楽か、自己保全の御念仏でしかあるまい。もしこれで救われるとしたら、それは大衆ではなく、一部の食うに 困らない閑人(ひまじん)か、都会の仙人くらいであろう。君らがそういう原稿を書きつつある間にも、大衆は病に悩み、貧に苦しみ、押寄せる社会不安に怯 (おび)え、東奔西走しているのが現実である。しかもこれに対し数百数千年以前の教説の焼直しをしたとて、何の役に立つかと言いたいのである。
以上思うままをかいたが、これも世を憂うるの余りで諒(りょう)して貰いたいのである。ここで重ねて言いたいが、医学でも宗教でも他のいかなるものでも いい、とにかく人間の最大悩みである病を治す事で、ただそれだけである。先年毎日紙で懸賞募集した標語の第一等は「先ず健康」の四文字であった事を覚えて いるが、これだけで多くを言う必要はあるまい。
(注)
春秋(しゅんじゅう)の筆法
紀元前の中国の史書「春秋」の文章には、孔子の正邪の判断が加えられているところから事実を述べるのに、価値判断を入れて書く書き方。特に、間接的原因を結果に直接結びつけて厳しく批判する仕方。