――― 岡 田 自 観 師 の 御 歌 集 ――― |
歌 集 山 と 水 初版 昭和24年12月23日発行
※ 「山と水」には昭和24年発行の初版と25年発行の再版があります。収録句、装丁等はほぼ同じです。ここには初版を収録しました。〔 〕内は再版で修正さ れた部分、もしくは明らかな誤植と思われるところです。岡田茂吉全集詩歌篇では、昭和25年版を元に仮名遣いを旧仮名遣いに修正してあるようです。ですの でこちらの句とは細かな点で差異があることをお断りしておきます。
はしがき 私は最近、古い文庫の中から見つけ出した中に、昭和六年から十年にかけて五年間に詠んだ千数百首の短歌が表われた。読んでみると、人の作品かと思わるる程 に忘れている歌が大部分だ。しかしこのまま葬るには惜しい気がする。という訳で取捨選択すると共に幾分の添削もし歌集として今回出版することとなったので ある。 私は歌は本格的に習ったのではない。ただ好きなため、昔から今日までの本を多少読んだくらいで、まず素人歌人といってもいい。ところが万葉や古今調は、 現代人にはあまりにも難解であり、といって現代調は新傾向に捉われすぎ、写実に走りすぎて品位に乏しい憾みがあると共に、言霊(ことたま)に於ても無関心 なため、はなはだ玲瓏(れいろう)味をかいている等々で、どうも得心が出来ない。というような次第で、私は私としての個性を発揮したつもりであるから可否 は読者の批判に任せるのである。 昭和弐拾四年十月 熱海の寓居にて 明 麿 |
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春すぎぬ | ||
1 | あめはれて つゆもしとどのたかむらの したかげあおくこけのはなさく 雨はれて 露もしとどの篁の 下かげ青く苔の花咲く |
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2 | あおあおし ばしょうのひろはにあおがえる さゆるぎもせであめにぬれおり 青あおし 芭蕉の広葉に青蛙 さゆるぎもせで雨に濡れをり |
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3 | さみだれの はるるとみればおちかたに くものみねなみうすらにじみゆ 五月雨の 霽るると見れば遠方に 雲の峯並みうすら虹見ゆ |
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4 | しげりあう このしたやみにほのしろく やまゆりのはないくつかうける 茂り合ふ 木の下闇にほの白く 山百合の花いくつか浮ける |
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5 | たうえうた のどかにきこえののいえの どこもひとけのみえぬまひるま 田植歌 のどかにきこえ野の家の どこも人気の見えぬ真昼間 |
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6 | ゆうさりて あおたをわたるかぜすずし ゆくてのやみをほたるかすめぬ 夕さりて 青田を渡る風涼し 行手の闇を蛍かすめぬ |
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7 | しんりょくの きのかをのせてきょうかえし ころものそでをかぜふきすぐる 新緑の 木の香をのせて今日更えし 衣の袖を風ふきすぐる |
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8 | いけのもに うつるまつかげくろぐろし しんげつのかげかそけくもみゆ 池の面に うつる松影黒ぐろし 新月の光かそけくも見ゆ |
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9 | かぜかおり あおばひかれるはつなつの にわにおりたてばむねにひろぎぬ 風薫り 青葉光れる初夏の 庭に下りたてば胸のひろぎぬ |
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10 | さくはなも はやみなづきとなりしきょう いけのへにさくかきつぱたばな 咲く花も はや水無月となりし今日 池の辺に咲く杜若花 |
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11 | ゆうまけて はっけいえんのたかだいゆ ながむるうみにいさりびまたたく 夕まけて 八景園の高台ゆ 眺むる海に漁火またたく |
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12 | たそがれの にわむらさきのあさがおの つぼみみいでてこころたのしも たそがれの 庭むらさきの朝顔の 蕾見いでて心たのしも |
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13 | たのいえの のきのうめのみあめにぬれ あおあおしもよふとあうぐめに 田の家の 軒の梅の実雨に濡れ 青あおしもよふとあふぐ眼に |
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(昭和六年五月十八日) |
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日 月 | ||
14 | ひのひかり つきのめぐみにすくすくと たみくさのびるときぞまたるる 日の光 月の恵みにすくすくと 民草のびる時ぞ待たるる |
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15 | ひとつきの めぐみのひかりゆたにうけ たかあまはらにとわにすまなん 日と月の 恵の光豊にうけ 高天原に永久に住まなん |
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16 | やみのよに こよいのつどいにまめひとの こころのそらにつきてらすなり 暗の夜の 今宵の集ひにまめ人の 心の空に月照らすなり |
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(昭和六年六月五日) |
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富 士 | ||
17 | むさしのは みわたすかぎりあおばして そらのはたてにふじみゆるなり 武蔵野は 見渡すかぎり青葉して 空のはたてに富士見ゆるなり |
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光 | ||
18 | みづみたま すさのをのかみにはじまりし わかはみくにのひかりなるらん 瑞御魂 素盞嗚神にはじまりし 和歌は御国の光なるらむ |
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(昭和六年六月三日) |
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乾 坤 山 (けんこんざん) | ||
19 | にほんじの なにあくがれておとなえば まだみぬきなりさらそうじゅという 日本寺の 名に憧れて訪えば まだ見ぬ木なり沙羅双樹といふ |
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20 | ところどころ いしのほとけのこけさびて さみしくたてりけんこんのやま ところどころ 石の仏の苔さびて さみしく立てり乾坤の山 |
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21 | やまあいの あおくさのえによこたわり とりのなくねをゆめとききにつ 山間の 青草の上に横たわり 鳥の啼く音を夢とききにつ |
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22 | ここばかり てんごくなるかなうたびとの あおぐさのえにみなそうをねる ここばかり 天国なるかな歌人の 青草の上にみな想をねる |
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23 | うすがすむ うみにしまやまえのごとし どんかいろうのにわくさふふみつ うす霞む 海に島山絵の如し 呑海楼の庭草ふふみつ |
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24 | けんこんざん のぼりてあわのうみとおく ながむるそでにはつなつのかぜ 乾坤山 登りて安房の海遠く 眺むる袖に初夏の風 |
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25 | やまのはに あさひのぼりぬつつましく みなおろがめりけんこんのやま 山の端に 旭日昇りぬつつましく みな拝めり乾坤の山 |
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26 | うたよまん ことさえいつかわすれけり うみのながめにこころうばわれ 歌詠まむ 事さえいつか忘れけり 海の眺めに心奪はれ |
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27 | あまつひの かみにゆかりのありぬらん なもひんがしのひのもとのてら 天津日の 神にゆかりのありぬらむ 名もひむがしの日の本の寺 |
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(昭和六年六月十五日) |
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安房歌紀行 | ||
28 | おもうどち さんじゅうあまりのひとつれて ぼうしゅうにむけみやこたつけさ おもふどち 三十余りの人つれて 房州に向け都たつ今朝 |
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29 | あさまだき のべぬいながらじどうしゃは ふもとのちゃやへはやつきにけり 朝まだき 野辺ぬいながら自動車は 麓の茶屋へはや着きにけり |
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30 | ちょうちんの かそけきひかりにとぼとぼと いしのきざはしようやくのぼりぬ 提灯の かそけき光にとぼとぼと 石の階段ようやく登りぬ |
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31 | のこぎりやま ふもとすぐればあくがれの にほんじのもんいかめしくたてる 鋸山 麓すぐればあくがれの 日本寺の門いかめしくたてる |
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32 | やまでらの たたみひろびろしよのめにも ふりしけはいのゆかしかりける 山寺の 畳ひろびろし夜の眼にも 古りしけはいの床しかりける |
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33 | わらぶきの わびしくもたつふろにつかり あせをながしてほとよみがえる 藁葺の わびしくも建つ風呂につかり 汗を流してほと甦がえる |
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34 | ぜんでらの よはしんしんとふけわたり かたりあいつつはつべくもなし 禅寺の 夜は深々と更けわたり 語り合ひつつ果つべくもなし |
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35 | あしよわき ひとはいのこりにじゅうよの ひとをひきつれやまにむかいぬ 足弱き 人は居残り二十余の 人をひきつれ山に向ひぬ |
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36 | あしびきの やまぢのやみをかきわけて ちょうちんのひをたよりにのぼりぬ 足曳の 山路の闇をかきわけて 提灯の灯をたよりに登りぬ |
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37 | ようやくに けんこんざんのいただきに のぼればほのぼのもののみえそむ 漸くに 乾坤山の巓に 登ればほのぼの物の見え初む |
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38 | ひんがしの そらやまかげのきくやかに きょくせんひきてうみにつづける 東の 空山影のきくやかに 曲線ひきて海につづける |
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39 | あさぎりの はれゆくままにおちこちの うみもみえそめやまもうかみぬ 朝霧の はれゆくままに遠近の 海も見え初め山も浮みぬ |
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40 | ぼうそうの ねむれるしまもやまなみも あざやかにしつひはのぼりけり 房総の 眠れる島も山並も あざやかにしつ日は昇りけり |
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41 | さんちょうは じゅっしゅういちらんだいとかや げにもそのなにふさわしかりぬ 山頂は 十州一覧台とかや 実にもその名にふさわしかりぬ |
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42 | とうだいの ひはあさもやのたちこむる そこにかそけくめいめつなせり 灯台の 灯は朝靄のたちこむる 底にかそけく明滅なせり |
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43 | すいぼくの えをみるがごとうみのもの しまかげはるかこぶねもやえる 水墨の 絵を見るが如海の面の 島かげはるか小舟もやえる |
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44 | のぼるひに あたりくまなくあけぬれば いっこうげざんのとにつきにけり 昇る陽に あたり隈なく明けぬれば 一行下山の途につきにけり |
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45 | やまあいの いわやのなかにかしこくも らかんのぞうのかずかずたてる 山間の 岩窟の中に畏くも 羅漢の像の数かず立てる |
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46 | ひゃくあまる いしのかんのんしゃかにょらい だるまやしょぶつおわしますやま 百あまる 石の観音釈迦如来 達磨や諸仏在します山 |
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47 | さらそうじゅ はじめももきのおいしげみ うみかこむなりけんこんのやま 沙羅双樹 はじめもも木の生ひ茂み 海圍むなり乾坤の山 |
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48 | かいざんの ぎょうきぼさつのきざむとう やくしにょらいのみすがたとうとき 開山の 行基菩薩の刻むとう 薬師如来の御姿とほとき |
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49 | そのむかし こうみょうこうごうのみことのりに ぎょうきぼさつのひらかれしさつ そのむかし 光明皇后の勅に 行基菩薩のひらかれし刹 |
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50 | じゅういちめん かんのんませりふるきころ じかくだいしのきざみしものとう 十一面 観音ませり古きころ 慈覚大師の刻みしものとう |
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51 | やまでらの いなかりょうりにしたうちし このあじこそはわすれがたなき 山寺の 田舎料理に舌打ちし この味こそは忘れがたなき |
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52 | ながめよき うみべえらびてたてられし どんかいろうのにわにあかなき 眺めよき 海辺選びて建てられし 呑海楼の庭に飽かなき |
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53 | どんかいろうの しばふのにわにむしろのべ うたかいなどをひらきてたのしむ 呑海楼の 芝生の庭に莚のべ 歌会などを開きてたのしむ |
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54 | めずらしき かめがたいしやこけのむす いわおのうえにおいまつえだはる 珍らしき 亀形石や苔のむす 巌の上に老松枝はる |
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55 | はれわたる みそらのしたにこころゆく ばかりあそびぬやまのえのにわ 晴れ渡る み空の下に心ゆく ばかり遊びぬ山の上の庭 |
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56 | なごかんのんへ さいしたどりしふながたの かんのんどうのにいろよきかも 那古観音へ 賽したどりし船形の 観音堂の丹色美きかも |
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57 | そそりたつ がけうえあやうくかんのんの みどうのたてりうみながめよき そそり立つ 崕上危ふく観音の 御堂の建てり海ながめよき |
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58 | はつなつの あおたにたびといそがしき なかをわがきしゃひたにはしりつ 初夏の 青田に田人忙しき 中をわが汽車ひたに走りつ |
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59 | おちこちに ごーがんのえをみるがごと びわのはたけのひにかがよえる 遠近に ゴーガンの絵を見るが如 枇杷の畑の陽にかがよえる |
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60 | そよそよと あおたをわたるかぜうけて ここちよきかもはつなつのたび そよそよと 青田を渡る風うけて 心地よきかも初夏の旅 |
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61 | かぜかおる あおばのやまにあわのうみ ながめしたびのわすれがたきも 風薫る 青葉の山に安房の海 眺めし旅の忘れがたきも(安房の旅) |
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(昭和六年六月十五日) |
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恋 (仮想歌) | ||
62 | あたまには しもいただけどもゆるひの おもいをつつむわれにぞありける 頭には 霜いただけど燃ゆる火の 想ひを包む吾にぞありける |
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63 | つきのまゆ はなのかんばせにくからぬ めがみはこいのわがまとなりけり 月の眉 花の顔二九からぬ 女神は恋のわが的なりけり |
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64 | こいすちょう ことはとしにはかかわりの なきをしりけるいそじすぎてゆ |
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25年版〔吾のこのごろ〕 | ||
65 | いまはただ おもいをあかすひとのなき こいひむなやみのいつのひまでや 今はただ 思ひを明す人のなき 恋秘む悩みの何時の日までや |
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66 | たまさかに あうよもひとめのせきしょとう いづのしがらみあるよなりけり たまさかに 逢う夜も人目の関所とう 厳の柵ある世なりけり |
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67 | あいみぬも こころはせんりのとおきまで かようなるらんあわれこのみの 逢ひ見ぬも 心は千里の遠きまで 通ふなるらむあはれ此身の |
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68 | しきしまの みちをつとうてわれおもい かよわざらめやくものかなたへ 敷島の 道をつとふて吾思ひ 通はざらめや雲の彼方へ |
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69 | さむかぜの すさみにまかすよにありて こころなごむもこいすればなり 寒風の 荒みにまかす世にありて 心温むも恋すればなり |
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70 | てんわたる つきにそいつつきみがりに ゆきてみばやといくよおもいし 天渡る 月に添ひつつ君許に 行きて見ばやと幾夜思ひし |
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71 | むつまじく えだにむだいることりにも みるめをそらすわれのいまかな むつまじく 枝にむだ居る小鳥にも 見る眼をそらす吾の今かな |
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(昭和六年七月一日) |
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梅 雨 | ||
72 | あさまだき まどをあくればきょうもまた むせぶがごとくさみだれのふる 朝まだき 窓を開くれば今日もまた むせぶが如く五月雨の降る |
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73 | なつされど まだつゆのこるおおぞらを ながめてしのぶもありしひのたび 夏されど まだ梅雨残る大空を 眺めて偲ぶもありし日の旅 |
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74 | たんけいの こころをそそるぽすたーの えきにはにぎわうしょかとなりけり 探景の 心をそそるポスターの 駅に賑はふ初夏となりけり |
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75 | ぬれひかる あおばわかばにうすぎぬの かかぶがごとくしずかにあめふる 濡れ光る 青葉若葉に薄絹の かかぶが如く静かに雨降る |
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76 | ながあめに あじさいのはないろあせぬ うつりゆくよをしのびてもみし 長雨に 紫陽花のはな色あせぬ うつりゆく世をしのびてもみし |
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77 | とうろうの こけあおあおといけのもに うつりてほそあめしきりにふるも 灯籠の 苔青あおと池の面に 映りて細雨しきりに降るも |
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78 | あめやみて くもまをのぞくひのかげに きぎのぬれはのひかりまばゆき 雨やみて 雲間を覗く陽の光に 木ぎの濡葉の光まばゆき |
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79 | あおあおと あめにぬれたるしばくさの さゆるぐみればひきのいるなり 青あおと 雨に濡れたる芝草の さゆるぐみれば蟇の居るなり |
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(昭和六年七月一日) |
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水郷めぐり | ||
80 | みずやそら まこものかぜもさやけかり なつのはじめのかすみがうらかな 水や空 真菰の風もさやけかり 夏のはじめの霞ケ浦かな |
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81 | うろこぐも みずにうつりてそよそよと しょかのうらかぜたもとふくなり うろこ雲 水に映りてそよそよと 初夏の浦風袂ふくなり |
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82 | あおあおと まこもしげみてさながらに しまとみゆめりかすみがうらのえ 青あおと 真菰茂みてさながらに 島と見ゆめり霞ケ浦の上 |
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83 | まこもうの ひまをけいしゅうわけゆけば おりおりとびたつなしらぬとりかな 真菰生の 間を軽舟分けゆけば をりをり飛び立つ名知らぬ鳥かな |
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84 | ふねのうえ ふりさけみればむらさきの つくばのみねにしらくもたなびく 舟の上 ふりさけみればむらさきの 筑波の峰に白雲たなびく |
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85 | はつなつの にぶきひかげにかぜもなく さざなみたててふねすべりゆく 初夏の にぶき陽光に風もなく 小波立てて舟すべりゆく |
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86 | いろくろき ろうやしきりになにかてに あぐるはうなぎをかくにやあらん 色黒き 老爺しきりに何か手に 上ぐるは鰻を掻くにやあらむ |
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87 | そよかぜに ぽぷらのうらはしろじろと ふかれてまこものうえにひかるも そよ風に ポプラの裏葉白じろと ふかれて真菰の上に光るも |
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88 | むらさきに におうあやめをはつなつの きょうめずらしとすいきょうにみぬ 紫に 匂ふあやめを初夏の 今日珍らしと水郷に見ぬ |
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89 | あこがれの いたこでじまにふねつけて ものめずらしくいえいえをみぬ あこがれの 潮来出島に船着けて 物珍らしく家いえを見ぬ |
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90 | イタリーの ヴェニスのまちはまだみぬも このすいきょうにせめてしのびし 伊太利の ヴエニスの街は未だ見ぬも 此水郷にせめて偲びし |
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91 | ことかわと ぬまをつづらうしずかなる かすみがうらにひねもすふねやりぬ 湖と河と 沼をつづらう静かなる 霞ケ浦にひねもす舟やりぬ |
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92 | ひさかたの かすみがうらのゆうなぎて かえるしらほのゆるやかなるかも 久方の 霞ケ浦の夕凪ぎて 帰る白帆のゆるやかなるかも |
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93 | たそがれて いたこでじまにくろぐろと たちなむいえいえほかげまたたく たそがれて 潮来出島に黒ぐろと 立ち並む家いえ灯火またたく |
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94 | ゆうもやは かすみがうらにただよいて まこものうえをしらほゆくなり 夕靄は 霞ケ浦にただよいて 真菰の上を白帆ゆくなり |
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95 | さざなみに つきほほえみてごいさぎの まこもゆるがせまいたちにける 小波に 月ほほえみて五位鷺の 真菰ゆるがせ舞ひ立ちにける |
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96 | ばんどうに なだたるかしまかとりなる みみやにもうでぬことしふみづき 坂東に 名だたる鹿島香取なる 神宮に詣でぬ今年文月 |
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97 | ろうさんの しんしんとしてかむさびし かしまのみやにおもいふかしも 老杉の 森しんとして神さびし 鹿島の宮に懐い深しも |
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(昭和六年七月一日) |
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五 月 雨 | ||
98 | さよふけて このはのささやくけはいあり まどくりみればさみだれのにわ 小夜更けて 木の葉の囁くけはいあり 窓くりみれば五月雨の庭 |
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99 | しとしとと さみだれのふるいけのへに むらさきにぬるるかきつぱたかな しとしとと 五月雨の降る池の辺に 紫に濡るる杜若花かな |
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100 | ちまちだの みどりはあめにいろまして かわずのなくねしきりなるゆう 千町田の 緑は雨に色増して 蛙の啼く音しきりなる夕 |
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101 | むかつやま あめにけぶらいたにがわの せせらぐおとのみみみにたかしも 向つ山 雨にけぶらひ渓川の せせらぐ音のみ耳に高しも |
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102 | ふなびとの いかだはるかにながれきぬ しろじろけむろうさみだれのなか 舟人の 筏はるかに流れきぬ 白じろけむろう五月雨の中 |
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103 | ひんがしの そらあさにじはみゆれども まだちかやまはあめのふるらし 東の 空朝虹はみゆれども まだ近山は雨の降るらし |
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104 | かわのへを あなたこなたとさまよえる つりびとみえてあめしきりなり 川の辺を 彼方此方とさまよえる 釣人みえて雨しきりなり |
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105 | しずかなる あめのひなりきひねもすを えがきつよみつたそがれにける 静かなる 雨の日なりき終日を 描きつ詠みつ黄昏れにける |
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(昭和六年七月六日) |
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ハルナ登山 | ||
106 | はるなさん にじゅうあまりのきをゆるし あうひとどちときょうのぼりけり 榛名山 二十余りの気をゆるし 合ふ人達と今日登りけり |
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107 | かかなめて ふるあめにあきみやこをば あとにはるなのふじあてにきぬ 日々なめて 降る雨に倦き都をば 後に榛名の不二あてに来ぬ |
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108 | ゆくさきは もうもうとしてきりけむる なかをじどうしゃあやうげにきる 行く先は 濛々として霧けむる 中を自動車危げにきる |
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109 | やまみえず こもまたみえずひとすじの みちさえきりにかくろいてけり 山見えず 湖も又見えず一筋の 道さえ霧にかくろひてけり |
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110 | ありやなしの みちくさふふみとぼとぼと やまのほそみちたどるあめのひ ありやなしの 道草ふふみとぼとぼと 山の細径たどる雨の日 |
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111 | やまたかきに あらねどさかのけわしさに はうがごとくにいただきにつきぬ 山高きに あらねど坂のけはしさに 這ふが如くに頂につきぬ |
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112 | きりこむる このみずぎわもおぼろげに さざなみみえていとしずかなり 霧こむる 湖の水際もおぼろげに 小波見えていと静かなり |
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113 | ふかぎりを つきゆくけーぶるかーのうえ みはくものえにあそぶおもいす 深霧を つきゆくケーブルカーの上 身は雲の上に遊ぶおもひす |
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114 | くもかきりか ただぼうばくとはるなさん つつみけるかもたいこさながらに 雲か霧か ただ茫漠と榛名山 つつみけるかも太古さながらに |
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115 | おもいきや げんかさざめくいかほなり むかしのしずけさしのびてなみだす 思ひきや 絃歌さざめく伊香保なり むかしの静けさ偲びて涙す |
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116 | しずかなりし いかほのむかしおもおいて たちよりしことのかなしくもある 静かなりし 伊香保の昔思ほひて 立寄りし事の悲しくもある |
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117 | ゆのまちの したしまれぬるままゆけば けわいのおみなわがそでをひく 温泉の町の 親しまれぬるままゆけば 化粧の女わが袖を引く |
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118 | せいしんの きにひたるべくやまのゆに くればおもわぬことのみぞおおき 清新の 気に浸るべく山の温泉に くれば思はぬ事のみぞ多き |
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119 | たけたかき ももくさちぐさふみわけて わがころもではつゆにぬれつつ 丈高き 百草千草ふみわけて 吾衣手は露に濡れつつ |
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120 | やまももりも くろぐろとしてしずかなる かがみのごときこのもにうつれる 山も森も 黒ぐろとして静かなる 鏡の如き湖の面にうつれる |
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121 | はるるかと みるまにおそうやまぎりの いとまもあらぬなつのこうげん 晴るるかと 見る間に襲ふ山霧の 遑もあらぬ夏の高原 |
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122 | おちこちの やまにしらくもきょらいする なつのやまぢのおもしろきかも 遠近の 山に白雲去来する 夏の山路のおもしろきかも |
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123 | あかぎやま ただようくものひまにみえ あさあけさやけきいかほのゆのやど 赤城山 ただよふ雲の間に見え 朝明さやけき伊香保の温泉の宿 |
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124 | きりのまに まあかくみゆるはなつながら いともめずらしやまつつじにや 霧の間に ま紅く見ゆるは夏ながら いとも珍らし山つつじにや |
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125 | しんえつの やまむらさきにこくあわく つらなりみるもいかほのやまのゆ 信越の 山紫に濃く淡く 連り見るも伊香保の山の湯 |
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126 | ぎぼしゅはぎ くまざさしげむののすえに いとなだらかなはるなふじかな 擬宝珠萩 熊笹茂む野の末に いとなだらかな榛名不二かな |
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127 | こはんていに やすらいしえんゆるがせば きりはいせまりさんきみにしむ 湖畔亭に 憩らひ紫煙ゆるがせば 霧はいせまり山気身にしむ |
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(昭和六年七月十五日) |
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稲 妻 | ||
128 | すずみゆく まちおりおりにでんせんの はりがねくろくいなずまひかるも 凉みゆく 街をりをりに電線の 針金黒く稲妻光るも |
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129 | このさとは ほたるのめいしょとききつるに いなずましげくほいなくすぎぬ 此里は 蛍の名所と聞きつるに 稲妻しげくほいなく過ぎぬ |
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130 | たかくひくく とびかうほたるめぐしみつ ながむるそらにいなずまひかる 高く低く 飛び交ふ蛍めぐしみつ 眺むる空に稲妻光る |
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131 | はたたがみ とおなりやめどいなずまの きらめきのみはまだのこるなり はたた神 遠鳴りやめど稲妻の きらめきのみはまだ残るなり |
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132 | おりおりに いなずまひかりうちあおぐ そらにくもあしいとはやきかも をりをりに 稲妻光りうちあほぐ 空に雲足いとはやきかも |
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133 | おどろおどろ とおなるいかずちまだひびき くものはたてにいなずまひかる おどろおどろ 遠鳴る雷まだひびき 雲のはたてに稲妻光る |
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134 | たえやらぬ きょうのあつさもいなずまの きらめきそめてやわらぎにける 堪えやらぬ 今日の暑さも稲妻の きらめき初めて和らぎにける |
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(昭和六年八月六日) |
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蛍 | ||
135 | えんばたに こらしずもりていぶかしと みればちいさきほたるかごあり 縁端に 子等静もりていぶかしと みれば小さき蛍籠あり |
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136 | よいやみは くろくもなりぬほたるびの ひかりてはきえきえてはひかるも 宵闇は 黒くもなりぬ蛍火の 光りては消え消えては光るも |
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137 | あしのまを とびかうほたるのかわかぜに ふかれふかれつみえずなりける 蘆の間を 飛び交ふ蛍の川風に ふかれふかれつ見えずなりける |
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138 | あしのまを ほたるびひとつすぎゆきて みるまにはしのかなたにきえける 蘆の間を 蛍火一つすぎゆきて 見る間に橋の彼方に消えける |
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139 | すいすいと いなだのうえのやみぬいつ ほたるびひくくながれすぎける すいすいと 稲田の上の闇縫ひつ 蛍火低く流れすぎける |
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140 | きみこうて ときまつがえにほたるびの もゆるひかりをわれとみしかな 君恋うて 時松ケ枝に蛍火の 燃ゆる光を吾とみしかな |
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141 | つゆぐさの かげにかそけきひかりはなつ ほたるにもにしわれのいまかな 露草の かげにかそけき光はなつ 蛍にも似し吾の今かな |
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142 | よなよなに みをこがしつつやみにひそむ ほたるをわれにたとえてもみし 夜な夜なに 身を焦しつつ闇にひそむ 蛍を吾にたとえてもみし |
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143 | いとちさき ほたるむしにもこいありや ゆうさりくればみをこがすなり いと小さき 蛍虫にも恋ありや 夕さりくれば身を焦すなり |
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(昭和六年八月六日) |
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月 の 光 | ||
144 | はたはたと はばたきゆるくごいさぎの つきのひかりをゆるがせゆきぬ はたはたと 羽ばたきゆるく五位鷺の 月の光をゆるがせゆきぬ |
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145 | たちわりし ごとくすぐなるがんぺきの あおあおしもよつきのかげうけ たち割りし 如く直なる岩壁の 青あおしもよ月の光うけ |
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146 | つゆばれの そらはぬぐえるはりのごと さわやかにしててんしんのつき 梅雨ばれの 空は拭える玻璃の如 爽やかにして天心の月 |
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147 | つきをみる ひとのあるらしおんせんの やどのおばしまにうごくかげあり 月を見る 人のあるらし温泉の 宿のおばしまにうごく影あり |
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148 | まつがえの かげいりみだれにわのもを しろじろてらしぬこよいまんげつ 松ケ枝の 影入りみだれ庭の面を 白じろ照らしぬ今宵満月 |
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149 | しばぐさは つゆしとどにてきぎのかげ ながながしもよつきかたむける 芝草は 露しとどにて樹々のかげ 長ながしもよ月かたむける |
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150 | ふけりゆく つきのさにわになつながら はやちちとなくむしのこえあり 更けりゆく 月の小庭に夏ながら はやちちと啼く虫の声あり |
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151 | なみのほに くだけくだけてつきかげは こじまのかげにかくろいにける 波の秀に くだけ砕けて月光は 小島のかげにかくろいにける |
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152 | めいげつの こよいいずこにながめんと とつおいつしつまちさすらいぬ 明月の 今宵いづこに眺めんと とつおいつしつ町さすらいぬ |
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153 | えんにちの ちまたをいでてふとあおぐ そらにこうこうつきのてれるも 縁日の 巷を出でてふと仰ぐ 空に皓々月の照れるも |
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154 | みおろせば こくえんはきついまきしゃは つきてるおかにさしかかりけり 見下ろせば 黒煙吐きつ今汽車は 月照る丘にさしかかりけり |
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155 | ひとけなき よふけのほどうのつゆにぬれ つきのひかりをあみつかえりぬ 人気なき 夜更けの舗道の露に濡れ 月の光を浴みつかえりぬ |
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156 | りんりつの えんとつくろくこうじょうの いらかはつきにきらめきてあり 林立の 煙突黒く工場の 甍は月にきらめきてあり |
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157 | すずかぜは かやをあおりつつきのかげ へやいっぱいにひろごりにける 凉風は 蚊帳をあほりつ月の光 部屋一ぱいにひろごりにける |
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158 | びるでぃんぐの まどとうまどはほかげなく つきよのそらにいかめしくたてる ビルディングの 窓てう窓は灯光なく 月夜の空にいかめしく立てる |
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159 | ほりのへの ていげきあたりつきかげを ふみゆくひとのいくつかあるらし 濠の辺の 帝劇あたり月光を ふみゆく人のいくつかあるらし |
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160 | ほりのかげ くろぐろとしていとながく つきよのみちをなかばふさげる 塀の影 黒ぐろとしていと長く 月夜の路を半ばふさげる |
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161 | りょうがわゆ はぎおいかむるよのこみち つゆをいといつぬけにけるかも 両側ゆ 萩生ひかむる夜の小径 露をいとひつ抜けにけるかも |
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162 | つきのよの うえののもりのきぎのまに みずきらめけるしのばずのいけ 月の夜の 上野の杜の樹ぎの間に 水きらめける不忍の池 |
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163 | たかだいに みわたすかぎりなみのごと いらかはつきにきらめけるなり 高台に 見渡すかぎり波の如 甍は月にきらめけるなり |
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164 | くものぞく かたわれづきにえんげきの ばっくをおもいしばしたたずみぬ 雲のぞく 片割月に演劇の バツクを想ひしばし佇みぬ |
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165 | こうえんの べんちにひとのかたるらし われさりげなくゆきすぎにける 公園の ベンチに人の語るらし 吾さりげなく行きすぎにける |
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166 | つきかげに れーるひかるかていしゃばの よふけのまどのはりどにすける 月光に レール光るか停車場の 夜更の窓の玻璃戸にすける |
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(昭和六年七月六日) |
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海 | ||
167 | なんきょくと ほっきょくさかいにみちひしつ やそじままもるわだつみのかみ 南極と 北極境に満干しつ 八十島守る和田津見の神 |
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168 | てんをうつ どとうもかがみのごとくなぐ うみもかわらぬうみにぞありける 天を撃つ 怒涛も鏡の如く凪ぐ 海もかはらぬ海にぞありける |
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169 | いそばたの おおいわこいわをいさましく かみてはほえるなみのひびかい 磯端の 大岩小岩を勇ましく 噛みては吠える波のひびかひ |
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170 | かぜたちて おきのうねりのひまをぬい みえかくれするいさりぶねあり 風立ちて 沖のうねりの間をぬい 見えかくれする漁舟あり |
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171 | あさなぎの うみべにたてばよべあれし なごりのもくずちらばりており 朝凪の 海辺に佇てば昨夜荒れし 名残の藻屑ちらばりてをり |
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172 | うらづたい あさすなふみつゆくみみに ちどりのなくねしきりなりけり 浦づたい 朝砂踏みつゆく耳に 千鳥の鳴く音しきりなりけり |
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173 | だんがいゆ のぞけばしろきあわたてて いわかむなみのものすごきかな 断崖ゆ のぞけば白き泡立てて 巌噛む波のものすごきかな |
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174 | ぼうそうの しまやまくっきりうきいでて とうきょうわんにこちふきわたる 房総の 島山くつきり浮き出でて 東京湾に東風吹きわたる |
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175 | まほかたほ なみまにみえてゆうゆうと はねうちかえしうみどりまえる 真帆片帆 波間に見えて悠いうと 羽うちかへし海鳥舞える |
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176 | じびきあみ ひきつるぎょふのかげながく ゆうひのすなにながらうをみつ 地曳網 ひきつる漁夫の影長く 夕陽の砂に流らふを見つ |
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177 | ほのぼのと そらあかねしてきりふかく うみのおもてをおおいけるかも ほのぼのと 空茜して霧ふかく 海の面をおほひけるかも |
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178 | いわをかむ なみのしぶきにみずぶすま たつひまにみゆちへいせんはも 巌をかむ 波のしぶきに水衾 たつ間に見ゆ地平線はも |
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179 | まつかげの みぎわのすなにしおのかを したしみながらしばしやすらう 松かげの 汀の砂に潮の香を したしみながら少時やすらう |
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180 | すさまじく ふくはまかぜになみたかく はるかのしまやまのみつはきつも すさまじく 吹く浜風に波高く はるかの島山呑みつ吐きつも |
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181 | なみのほに きらめくあさひかげさやし あらしのあとのあさなぎのうみ 波の秀に きらめく旭光さやし 嵐の後の朝なぎの海 |
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182 | きしをうつ なみのほしろくきらきらと あさひにはゆるきしゃのまどかな 岸を打つ 波の秀白くきらきらと 旭日に映ゆる汽車の窓かな |
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183 | うみのもに ゆうもやこむもはろかなる ぎょそんにほかげまたたきはじめぬ 海の面に 夕靄こむもはろかなる 漁村に灯光またたきはじめぬ |
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184 | つきはいま かくろいにけりうみくらく きしうつなみのおとのみきこゆる 月は今 かくろひにけり海暗く 岸打つ波の音のみきこゆる |
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185 | だんがいの うえあやうげにひともとの おいまつかかりうなばらひろき 断崖の 上危げに一本の 老松かかり海原ひろき |
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186 | ゆうきゅうと よせてはかえすわだつみの なみにいわはだいくとせきざみし 悠久と よせてはかえす和田津見の 波に巌肌幾歳刻みし |
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187 | おきとおく ひとすじなみにうかべるは しまかあらずかしるによしなし 沖遠く 一條波に浮べるは 島かあらずか知るによしなし |
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188 | なぎさには こいわおおきもよすなみの みなわのなかにぬれひかりおり 渚には 小岩多きも寄す波の 水泡の中に濡れ光りをり |
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(昭和六年八月十五日) |
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更 生 | ||
189 | あめつちを ひとめぐりしてつきはいま あらたなひかりをはなちそめける 天地を ひとめぐりして月は今 新たな光を放ち初めける |
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190 | さらにさらに いきのいのちをひとのため よのためつくすわれにぞありける 更にさらに 生きの命を人の為 世の為つくす吾にぞありける |
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(昭和六年八月十日) |
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七 夕 | ||
191 | たなばたを いわうしきたりいつまでも みくににつづかまほしとおもえり 七夕を 祝ふしきたりいつまでも 御国につづかまほしとおもへり |
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192 | たなばたの こよいくもなくはればれと あうひこひめよめでたくぞおもう 七夕の 今宵雲なくはればれと 会ふ彦姫よめでたくぞ思ふ |
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193 | としごとに かたきちぎりをかけまくも あまのかわらのほしあいのよい 年毎に かたき契りをかけまくも 天の河原の星会いの宵 |
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194 | いもがりに おもいのはしをあまのがわ かけてぞわたるこよいなりける 妹がりに 懐ひの橋を天の川 かけてぞ渡る今宵なりける |
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195 | やすがはら ちかいもこめていわがねの かたきちぎりりをむすぶこのよい 八洲河原 誓ひもこめていはがねの かたき契りをむすぶ此宵 |
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196 | あまのがわ ちぎりもあさきなつのよわ はやかささぎのなくこえかなしき 天の川 契りも浅き夏の夜半 はや鵲の啼く声かなしき |
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197 | ささのはの つきにさゆれてこよいはも たなばたまつりのいわいにふけぬ 笹の葉の 月にさゆれて今宵はも 七夕祭の祝ひにふけぬ |
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198 | ひとのよや みそらのほしにもこいありと おもいつあおぐあまのがわかな 人の世や み空の星にも恋ありと おもひつ仰ぐ天の川かな |
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199 | たなばたの ほしにもまがうはかなさの こいのためしもありしわれはも 七夕の 星にも紛ふはかなさの 恋のためしもありし吾はも |
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(昭和六年八月二十日) |
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雁 | ||
0200 | うちかえす はねしろじろとうみひくう つきかげあみゆくかりがねのむれ うちかえす 羽白じろと湖低う 月光浴みゆくかりがねの群 |
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(昭和六年九月十日) |
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虫 | ||
201 | このちさき むしにもたましいあるにもや じっとみておりでんとうのかさ この小さき 虫にも魂あるにもや ぢつと見てをり電灯の傘 |
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202 | つきのよに あきわびしむかみみにいる かすれかすれのまつむしのこえ 月の夜に 秋わびしむか耳に入る かすれかすれの松虫の声 |
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203 | やみのそこに ながるるむしのこえほそみ にわべのあきもふけにけらしな 闇の底に 流るる虫の声細み 庭べの秋も更けにけらしな |
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204 | うきうきし かげもさやかなまんげつの あかるきにわにむししきりなく 浮きうきし 光もさやかな満月の 明るき庭に虫しきり啼く |
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205 | つゆくさの つゆすうむしのなにむしと じっとみいればほたるむしなる 露草の 露吸ふ虫の何虫と ぢつと見入れば蛍虫なる |
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206 | あきのよを ふみにしたしむめをみだす がのにくしもとはたきたりけり 秋の夜を 書にしたしむ眼を乱す 蛾のにくしもとはたきたりけり |
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207 | うつらうつら むしのなくねにあきのよの そのしずけさをしばししたしむ うつらうつら 虫の鳴く音に秋の夜の その静けさを少時親しむ |
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208 | つきのよを すみとおるねはすずむしか うつろごころにたたずみており 月の夜を すみ透る音は鈴虫か 空ろ心に佇みてをり |
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209 | むしのうた ものさんとしてむしのこえ ききいるたまゆらやぶかかすめぬ 虫の歌 ものさんとして虫の声 聴入るたまゆら薮蚊かすめぬ |
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○ | ||
210 | おれはおまえをみるごと そのゆーもらすなすがたに いつもほほえみをきんじえない かまきりよ 俺はお前を見る毎 其ユーモラスな姿に いつも微笑を禁じ得ない 蟷螂よ |
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(昭和六年九月十六日) |
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或人達へ | ||
211 | ぜんといい あくとののしるひとをさばく ひとはしんいをおかすなりける 善といひ 悪とののしる人を審判く 人は神位を犯すなりける |
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212 | はくがいと ごかいのかこみのなかにいて われほがらかにひをすごすなり 迫害と 誤解の囲みの中にゐて われ朗らかに日をすごすなり |
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213 | おおかみの ふかきこころのいとちさき ひとのまなこになどうつらめや 大神の 深き心のいと小さき 人の眼になど映らめや |
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214 | あだのために いのりしせいじゃのだいひなる こころのおくをしのびてもみつ 仇の為に 祈りし聖者の大悲なる 心の奥を偲びてもみつ |
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215 | ぱりさいの ひとよせいてんいまいちど なおひのひかりにてらしてもみよ パリサイの 人よ聖典今一度 直霊の光に照らしても見よ |
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(昭和六年九月十六日) |
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秋(一) | ||
216 | たんたんと あかつちみちのはろけさを ほこりまわせつばしゃとおみゆく 坦たんと 赤土路のはろけさを ほこり舞はせつ馬車遠み行く |
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217 | はなにはに あきのいろかのこまやかさ はぎのひとむらこのましとみぬ 花に葉に 秋の色香のこまやかさ 萩のひとむら好ましと見ぬ |
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218 | あきのひの はりどかすれてながれくる たたみにひとつがのむくろみゆ 秋の陽の 玻璃戸かすれて流れくる 畳に一つ蛾のむくろ見ゆ |
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219 | あきさめに しずけきやどのよもすがら すぎしおもいはなれこいしころ 秋雨に 静けき宿の夜もすがら 過ぎし思ひは汝恋しころ |
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220 | ちょうらくの いろはひすがらあきののを そむるがままにあめつづくなり 凋落の 色は日すがら秋の野を 染むるがままに雨つづくなり |
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221 | くれぎわや もやひたひたとおそいきて おばなのしろきがめにおぼろなり 暮れぎわや 靄ひたひたとおそひきて 尾花の白きが眼におぼろなり |
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222 | さしかかる やまぢすすきのしげりあい やまむらさきぬゆうもやのなか さしかかる 山路芒の茂りあひ 山むらさきぬ夕靄の中 |
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223 | すすきおう ののたたずみにふとみてし ききょうのはなにほほえまいいる 芒生ふ 野の佇みにふとみてし 桔梗の花にほほえまいゐる |
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224 | なつがれて ももはなひにひにみだれゆく ののもをわびつほのゆるむなり 夏がれて 百花日に日に乱れゆく 野の面をわびつ歩のゆるむなり |
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225 | みなきばむ やますそむらにいくほんの かきのきみえてみなうれあかき みな黄ばむ 山裾村に幾本の 柿の木みえてみな熟れ赤き |
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226 | そらきよく うつるかりたにひとすじの かげひらめきぬたひばりならん 空清く うつる刈田に一筋の 影ひらめきぬ田雲雀ならむ |
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227 | むらむらの ゆうべをなけるひぐらしに おわれおわれてまちにいでける 村々の 夕べを啼ける蜩に 追はれおはれて町に出でける |
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228 | かぜにおれ しもにおびえしすすきのに ゆめをおうなるたたかいのあと 風に折れ 霜におびえし芒野に 夢を追ふなる戦のあと |
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229 | おれのこる かれあしさむくいけにうつる そらにいとひくみずまわしむし 折れ残る 枯葦寒く池にうつる 空に糸引く水まはし虫 |
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230 | あきなれや てるひはつちにとどけども にわほるてさきのつめたくもあり 秋なれや 照る陽は土にとどけども 庭掘る手先の冷たくもあり |
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231 | ぜっぺきの ところどころにもみじはえ こんじょうのそらたかくすみおり 絶壁の ところどころに紅葉映え 紺青の空高く澄みをり |
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232 | みずのもの うえさりげなにせいれいの おさむるはねにゆうひきらめく 水の藻の 上さりげなに蜻蛉の おさむる羽に夕陽きらめく |
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233 | まるのうちの まつまをひらめくじどうしゃの らいとのひすじもやにきえにつ 丸の内の 松間をひらめく自動車の ライトの灯筋靄に消えにつ |
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(昭和六年九月二十日) |
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秋(二) | ||
234 | うごこうともしないあわぐもがながれている とびがすうっと わをえがく 動かふともしない淡雲が流れてる 鳶がすうつと 輪をえがく |
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235 | すんだくうきのなかにのうふがへいわにうごいている まるでごーがんのえだ 澄んだ空気の中に農夫が平和に動いてゐる まるでゴーガンの画だ |
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236 | はさみをいれたての しいのまばらばに すいている こんぺきのそら 鋏を入れたての 椎のまばら葉に 透いてゐる 紺碧の空 |
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237 | すっぽりとかけたよぎのしょっかんに とてもしたしさをかんずる しょしゅう すつぽりと掛けた夜着の触感に とても親しさを感ずる 初秋 |
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238 | むしのそうおんのなかにひときわすぐれている こおろぎのかいおんに うっとりとなる 虫の騒音の中に一際すぐれてゐる 蟋蟀の快音に うつとりとなる |
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239 | とんぼつるこのくろいかおがならんで かきのなかのきんぎょにそそいでいるめ め め 蜻蛉釣る子の黒い顔が並んで 垣の中の金魚に注いでゐる眼 眼 眼 |
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240 | うっすらとあきのいろにそまった なだらかなおかのせんが ながれて なんとあおいそらだ うつすらと秋の色に染つた なだらかな丘の線が 流れて 何と蒼い空だ |
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241 | すいすいとあかとんぼが じゅうだいじけんでもおこったように そらをいそぐ すいすいと赤蜻蛉が 重大事件でも起つたように 空をいそぐ |
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242 | かんぼくたい あかきむらさきのいろがとけあって ひにかがやいているあきのこうげん 潅木帯 赤黄紫の彩が溶け合つて 陽にかがやいてゐる秋の高原 |
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243 | ぷらたなすのきいろいはが へんぺんと ほそうろにおどっているごごのよじごろ プラタナスの黄ろい葉が 片々と 舗装路に躍つてゐる午後の四時ごろ |
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(昭和六年九月二十日) |
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社会と思想 | ||
0244 | まるくすがなんだ むっそりーにがなんだ ぶらんこのりょうたんのゆうれいではないか マルクスが何だ ムツソリーニが何だ ブランコの両端の幽霊ではないか |
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245 | なぽれおんもかいざーもまるくすも みんながのぼってきたかいだんの ふみいしのひとつひとつにすぎない ナポレオンもカイザーもマルクスも みんなが登つて来た階段の 踏石の一つ一つに過ぎない |
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246 | まるくすのりろんをやぶるりろんができないくにに はかせがなんぜんにんいることよ マルクスの理論を破る理論が出来ない国に 博士が何千人居る事よ |
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247 | しほんとろうどうとそうとうをつづけるがいい つかれきってどちらもかいけつするだろう それからだ ほんとうのものがうまれるのは 資本と労働と争闘を続けるがいい 疲れ切つてどちらも解決するだらう それからだ 本当のものが生れるのは |
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(昭和六年九月二十日) |
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社 会 | ||
248 | こうそうなびるでぃんぐをめざして つまがけさつくろったくつしたを はいてゆくさらりーまん 高荘なビルディングを目指して 妻が今朝繕つた靴下を 穿いてゆくサラリーマン |
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249 | まてんろうがつぎつぎにたつ ひんじゃくなよみせしょうにんがふえるのと たいしょうしてみる 摩天楼が次々に建つ 貧弱な夜見世商人が殖えるのと 対照してみる |
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250 | しゃかいはただあえいでいる つかれたかお きぼうのないひとみ ああ おまえたちはどこへいく 社会はただ喘いでゐる 疲れた顔 希望のない眸 アゝ お前達は何処へ行く |
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251 | ひぶいちえんのかねをかりて えろのかにじゅうえんをなげうつふかかいなしんり 日歩一円の金を借りて エロの香に十円を抛つ不可解な心理 |
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(昭和六年九月二十日) |
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日 本 よ | ||
252 | せかいは るてんするかいがだ あかもしろもくろも みんなこうせいにひつようなえのぐのそれだ 世界は 流転する絵画だ 赤も白も黒も みんな構成に必要な絵具のそれだ |
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(昭和六年九月二十日) |
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月 | ||
253 | まどらなる つきのおもわのとうとけれ あおげばなやみのとけもするなり 円らなる 月の面わの尊とけれ 仰げばなやみの解けもするなり |
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254 | つきかげは よせくるなみのいくえにも いくえにもただおりこまれおり 月光は よせくる波の幾重にも いくえにもただ織込まれをり |
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255 | つきかげか もやのいろかはしろじろと もりをつつみつただよいわたる 月光か 靄の色かは白じろと 森をつつみつただよいわたる |
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256 | さよふけの ほどうにいちょうのかげながく ひきてつきかげあおあおしもよ 小夜更けの 舗道に銀杏の影長く 引きて月光青あおしもよ |
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257 | いけにうつる つきにかかりてはぎのえの むらしだれいるそのふぜいはも 池にうつる 月にかかりて萩の枝の むらしだれいるその風情はも |
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258 | まるまどを さすつきかげにひをけせば たかむらのかげすみえのごとし 丸窓を 射す月光に灯を消せば 篁のかげ墨絵のごとし |
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259 | ゆうあかり のこるにあらでやまのはに いでしばかりのみかづきのかげ 夕明り 残るにあらで山の端に 出でしばかりの三日月の光 |
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260 | さえわたる もちづきのかげのにてりて えいがのばめんふとおもいづる 冴え渡る 満月の光野に照りて 映画の場面ふと思ひづる |
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261 | あかつきの みちにひびかいくるまゆく じょうくうあわくつきまだのこる 暁の 路に響かひ車行く 上空淡く月まだのこる |
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262 | ゆうぐれに すすきののみちゆくともと つきのあらばとかたりあいけり 夕暮に 芒野の路行く友と 月のあらばと語り合ひけり |
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263 | つきさえて しろめくにわにうすあかき ひゃくじつこうのはなのあかるさ 月冴えて 白めく庭にうす紅き 百日紅の花の明るさ |
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264 | つきかげは いけになごみてほのじろく ただようなかにすいれんのはな 月光は 池に和みてほの白く 漂ふ中に水蓮の花 |
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265 | ちぎれぐも うごかずみえてかげさゆる つきもうごかぬしばしのそらかな ちぎれ雲 動かず見えて光冴ゆる 月も動かぬしばしの空かな |
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266 | ばんしゅうを つきのこよいにわびしみて ひとりつえひきのをさすらいぬ 晩秋を 月の今宵にわびしみて 一人杖ひき野をさすらいぬ |
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267 | はぎすすき みなそなわりてこのあきの つきてるにわにわれたらいける 萩芒 みな具はりて此秋の 月照る庭にわれ足らいける |
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268 | かわのえに けぶるがごとくげっこうの もやいてはしのうえにひとあり 川の上に けぶるが如く月光の もやいて橋の上に人あり |
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(昭和六年十月六日) |
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日光の秋 | ||
269 | なみならぬ さんしすいめいにっこうは かんのんおわすほだらかのやまや なみならぬ 山紫水明日光は 観音在す普陀落迦の山や |
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270 | のぼりゆく ままにもみじのいろふかみ あきこのやまにたけなわのいま 登りゆく ままに紅葉の色深み 秋此山にたけなわの今 |
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271 | とうとうと けごんのたきはふたあらの やまのしんぴをかたるべらなり 鼕々と 華厳の滝は二荒の 山の神秘を語るべらなり |
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272 | かがみなせる こめんさやかにあきばれの そらともみじのやまなみうつすも 鏡なせる 湖面さやかに秋晴の 空と紅葉の山並うつすも |
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273 | しらかばの こずえきばみてこもれびの くまざさのえにうすらさしおり 白樺の 梢黄ばみて木もれ陽の 熊笹の上に淡らさしをり |
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274 | やまあいに こばるといろのくものみね すむあきぞらのすえにたつなり 山間に コバルト色の雲の峰 澄む秋空の末に立つなり |
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275 | おおいなる いわのしゃめんのえにあかく もみじいろもえゆうひにたぎるも 大いなる 岩の斜面の上にあかく 紅葉色もえ夕陽にたぎるも |
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276 | あかきあおに ぜんざんそまりてはなさかる はるにもまされるにっこうのあき 赤黄青に 全山染りて花盛る 春にもまされる日光の秋 |
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277 | こんじょうの そらをうしろにもみじせる やまつらなりてあきびかがよう 紺青の 空を後に紅葉せる 山連りて秋陽かがよう |
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278 | とぎすめる かがみのごときゆのこみれば あきのしらねのすそまうつれる 研ぎすめる 鏡の如き湯の湖見れば 秋の白根の裾ま映れる |
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279 | むらさきの ゆうべのいろはくれなえる やまのもみじばつつみかねつつ 紫の 夕べの色はくれなえる 山のもみぢ葉包みかねつつ |
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280 | つくもおり やまのぼらいついやふかむ もみじのいろをめでそやしける 九十九折 山登らひついや深む 紅葉の色を賞でそやしける |
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281 | そそりたつ おおいわのしゃめんところどころ はうがごとくにもみづらいおり そそり立つ 大岩の斜面ところどころ 這ふが如くにもみづらひをり |
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282 | ななかまどの しんくのいろのひときわに めだちてやまのあきをかがよう ななかまどの 真紅の色の一際に 目立ちて山の秋をかがよふ |
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283 | うすあおく なつをのこせるやまのおに ぬえるがごとくもみじくれなう 淡青く 夏を残せる山の尾に 縫えるが如く紅葉くれなふ |
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284 | ひのてれる やまはおおかたきぎのいろ こきにあわきにもみづらぬなき 陽の照れる 山は大方木々の色 濃きに淡きにもみづらぬなき |
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285 | せんじょうがはらはうすらにきばみけり ところどころにおばなふるえる 戦場ケ原はうすらに黄ばみけり ところどころに尾花ふるえる |
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286 | みるかぎり もみじてりはうにっこうの やまよりやまはくれないのうず 見るかぎり もみぢ照り映ふ日光の 山より山は紅のうづ |
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287 | しらゆうの ごとくたきつせなだれにつ もみじのこのまにすけるうつくしさ 白木綿の 如く滝津瀬なだれにつ 紅葉の木の間に透ける美しさ |
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288 | あやうげに かかるいわまにもみじもえ たきのしぶきにぬれかがよえる 危げに かかる岩間に紅葉もえ 滝のしぶきに濡れかがよえる |
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289 | なだりおつる おおたきしろくゆうやみに のこしてあきのみやまくれゆく なだり落つる 大滝白く夕暗に 残して秋の深山くれゆく |
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(昭和六年十月十八日) |
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紅 葉 | ||
290 | いさぎよく あきをもみじのもえさかり たちまちにいるはいいろのふゆ いさぎよく 秋を紅葉のもえさかり たちまちに入る灰色の冬 |
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(昭和六年十月二十日) |
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偶 像 | ||
291 | おおぐうぞうよ たいしゅうはおまえによってこきゅうし かんきし おどっている オヽ偶像よ 大衆はお前によつて呼吸し 歓喜し 踊つてゐる |
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292 | ぐうぞうひていしゃのいちぐんが いま れーにんのぐうぞうかに あせをながしている 偶像否定者の一群が 今 レーニンの偶像化に 汗を流してゐる |
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293 | おお じんるいしをかざるぐうぞう なんとかがやかしいそんざいではあるよ オヽ 人類史を飾る偶像 何と輝やかしい存在ではあるよ |
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294 | ぱんとくうきがひつようなていどに ぐうぞうがにんげんにひつようとおもう パンと空気が必要な程度に 偶像が人間に必要とおもう |
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295 | ぴらみっどのせんたんのおおざは いつもぐうぞうによって しめられているではないか ピラミツドの尖端の王座は いつも偶像によつて 占められてゐるではないか |
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296 | いけるぐうぞうと しせるぐうぞうとのさべつ さいにんしきのめ め めだ 生ける偶像と 死せる偶像との差別 再認識の眼 眼 眼だ |
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297 | ぷろもぶるもしろもくろもきもいっせいにはいきする めしやてきぐうぞうをまとうよ プロもブルも白も黒も黄も一斉に拝跪する メシヤ的偶像を待とうよ! |
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298 | しゃかもにちれんも なになにのみことも
それは かこのしゅうきょうてきぐうぞうを いでないではないか 釈迦も日蓮も 何々の尊も それは 過去の宗教史的偶像を 出でないではないか |
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299 | きょうもんもしほんろんも としょかんのもくろくだけのそんざいではいぎをなさない 経文も資本論も 図書館の目録だけの存在では意義をなさない |
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(昭和六年十月十八日) |
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世界の今 | ||
300 | ほえるしなよ あだむ・いぶのしそんが おまえをわらっている 吼える支那よ アダム・イブの子孫が お前を嗤つてゐる |
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(昭和六年十月十八日) |
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古 池 | ||
301 | こうほねの あおきはいけのみずにすけ てんてんとしてきばなのうける 河骨の 青き葉池の水に透け 点々として黄花の浮ける ※スイレン科の多年草の水草 |
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302 | ものがたり めけるふぜいよささやかな にぬりのどうういけのへにたてる 物語 めける風情よ小やかな 丹塗の堂宇池の辺に建てる |
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303 | ふるぬまを つつむよのいろまだあさく さゆるるあしのはなしろかりぬ 古沼を つつむ夜の色まだ浅く さゆるる蘆の花白かりぬ |
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304 | でんせつの おおかたあらんみずあおく よどみてふるものただよえるいけ 伝説の おほかたあらむ水青く 淀みて古藻のただよえる池 |
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305 | こんもりし こむれおちこちみずぎわに かげをおとしていけしずかなり こんもりし 木むれおちこち水際に 影を落して池静かなり |
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306 | ところどころ つりびとみえてあきぞらの うつれるいけにいとたれており ところどころ 釣人見えて秋空の うつれる池に糸垂れてをり |
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307 | よしきりの あしまにないてゆうさむみ むかつみぎわはもやにかくれぬ よしきりの 蘆間に啼いて夕寒み 向つ汀は靄にかくれぬ |
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308 | たれさがる やなぎのえだのゆれもみえず いけにまうつるいくすじのいと 垂れ下る 柳の枝のゆれも見えず 池にま映るいく條の糸 |
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(昭和六年十月二十日) |
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武蔵野の秋 | ||
309 | むさしのを ここにみいでぬすすきうの ややにつづかうみちのへにきて 武蔵野を 此処に見出でぬ薄生の ややにつづかふ路の辺に来て |
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310 | ゆけどゆけど もりとはたけをおがわぬい あきおおらかにむさしのおおう 行けどゆけど 森と畑を小川縫ひ 秋おほらかに武蔵野をおふ |
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311 | あかつちの おかをのうふのまぐさおい とぼとぼのぼりあおぞらにきえぬ 赤土の 丘を農夫の馬草負ひ とぼとぼのぼり蒼空に消えぬ |
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312 | すがれたる なすのはたけにさむざむと ゆうひかそけくながらいており す枯たる 茄子の畠に寒ざむと 夕陽かそけく流らひてをり |
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313 | あおあおと しげるさらだなのはたけあり ここひとところあきらしからず 青あおと 茂るサラダ菜の畑あり 此処ひとところ秋らしからず |
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314 | かれあしを むごきがまでにいけにうめ きょうもこがらしふきやまぬなり 枯葦を むごきがまでに池に埋め 今日も凩ふきやまぬなり |
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315 | ひとつふたつ みつあんてなにせいれいの とまりてうごかずあきぞらのした 一つ二つ 三つアンテナに蜻蛉の とまりてうごかず秋空の下 |
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316 | あさぎりに ひびかいやおやのにぐるまの きしりはみみにしばしのこれり 朝霧に ひびかい八百屋の荷車の きしりは耳に少時のこれり |
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317 | くりまつたけ などそちこちにみえそめて ちまたにもはやあきのおとずれ 栗松茸 などそちこちに見え初めて 巷にもはや秋の訪れ |
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(昭和六年十月二十日) |
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筑波紀行 | ||
318 | くれないの うるしひともとひにあかく こまつばやしのなかにめだつも 紅の 漆一本陽に明く 小松林の中に目立つも |
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319 | かりいねの ほやまほがきやおちこちに めぢのかぎりにみゆもうれしき 苅稲の 穂山穂垣や遠近に 目路の限りに見ゆもうれしき |
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320 | うすきいろに あきはただよいほかりごの たのもはろけくしゃそうにゆれにつ 淡黄色に 秋はただよい穂苅後の 田の面はろけく車窓にゆれにつ |
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321 | まだらばの こだちつづけるあぜみちの かりたのあとのみずにうつらう 斑葉の 木立つづける畔路の 苅田の後の水にうつらう |
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322 | おくいねの たるほにあきのかぜふきて おりおりざわめくおやまだのさと 晩稲の 垂穂に秋の風ふきて をりをりざわめく小山田の里 |
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323 | かりほだの みずさやかにもあきぞらの こぐもうつしていとしずかなり 苅穂田の 水さやかにも秋空の 小雲うつしていと静かなり |
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324 | かれのこる はすだにむごくくきおれて はのおおかたはみずにしずめる 枯残る 蓮田にむごく茎折れて 葉の大方は水に沈める |
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325 | いねをかる たびとあきびのしたにして えにかかばやとふとおもいける 稲を苅る 田人秋陽の下にして 画にかかばやとふと思ひける |
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326 | もみぢせる さくらづつみのつづかいて たのもへだててひにかがよえる 紅葉せる 桜堤のつづかいて 田の面へだてて陽にかがよへる |
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327 | あきぞらは かぎりもしらにもろこしの いろにそまれるたはたつつまう 秋空は 限りもしらにもろこしの 色に染まれる田畑つつまふ |
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328 | まつやまの おだかきおかのしゃめんには あきのまひるのかげけぶらえる 松山の 小高き丘の斜面には 秋の真昼の光けぶらへる |
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329 | いっけんの でんかのかたわらきくさいて とりどりのいろひをうけてはゆ 一軒の 田家の傍菊咲いて とりどりの色陽をうけて映ゆ |
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330 | やますそや しらかべみつよつひにはえて たのものあきはめにたのしかり 山裾や 白壁三つ四つ陽に映えて 田の面の秋は眼にたのしかり |
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(昭和六年十一月一日) |
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筑波根の秋 | ||
331 | つくばやま ふたつのみねはあおぞらに うすくれないのせんひきており 筑波山 二つの峰は青空に 薄紅の線引きてをり |
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332 | きゅうしゅんを すらすらのぼるけーぶるの まどにくさきのみなしたへゆく 急峻を すらすら登るケーブルの 窓に草木のみな下へゆく |
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333 | いただきに いづるやたちまちめぢひらけ やまかわくさきみなあきのいろ 頂に 出づるやたちまち目路ひらけ 山川草木みな秋の色 |
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334 | かんとうの へいやましたにちずのごと ひろごるすえにふじのかそけし 関東の 平野眼下に地図の如 ひろごる末に不二のかそけし |
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335 | しろきみち うねりてたはたこむらなど あきひにはえてみのあかなくも 白き道 うねりて田畑小邑など 秋陽に映えて見のあかなくも |
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336 | きがんかいせき かずかずありてくだりゆく みちしらぬまにふもとにつきぬ 奇巌怪石 数々ありて下りゆく 路しらぬまに麓につきぬ |
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337 | つくばねに あきのさんきをすいつつも ひねもすあそびてたらいけるきょう 筑波根に 秋の山気を吸ひつつも ひねもす遊びて足らひける今日 |
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338 | われをむかう らしげにあきのつくばやま ほほもえるがにわがまえにたてる 吾を迎ふ らしげに秋の筑波山 頬燃えるがにわが前に立てる |
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339 | みやしろに さいしてあおげばつくばやま いましくれなうみねみねのいろ 神社に 賽して仰げば筑波山 今しくれなふ峯みねの色 |
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340 | ゆうがらす なくねをあとにつくばやま ふりみふりみつきしゃにのりけり 夕鴉 鳴く音を後に筑波山 振り見ふりみつ汽車に乗りけり |
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(昭和六年十一月一日) |
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初 冬 | ||
341 | はだかぎの ふゆともなればはるやなつ あきのいろかのわすれがたなき 裸木の 冬ともなれば春や夏 秋の色香の忘れがたなき |
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342 | まつのみが あおあおとしてただめだち おかもののももふゆゆきわたる 松のみが 青あおとしてただ目立ち 丘も野の面も冬ゆきわたる |
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343 | ひっそりと たにもあぜにもひとけなく のこるかりほにうすびさすなり ひつそりと 田にも畔にも人気なく 残る苅穂にうす陽さすなり |
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344 | したしみつ ひおけにそえるてのこうに ちからもなげなはえもとまれる 親しみつ 火桶に添える手の甲に 力もなげな蝿のとまれる |
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345 | あわびさす はりどにちかくぺんとれど こわばりがちのわがてなりけり 淡陽さす 玻璃戸に近くペンとれど こわばり勝ちのわが手なりけり |
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346 | ねぐらへと いそぐからすのかげしるく うつるいけのもみずすめるなり 塒へと 急ぐ烏の影しるく うつる池の面水すめるなり |
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347 | にわぎくの おおかたかれぬいちにりん のこんのはなをおしとみいるも 庭菊の 大方枯れぬ一二輪 残んの花を惜しと見いるも |
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348 | かきのはの かぞえるばかりえだにまだ みつよつのこんのあかきみさむし 柿の葉の 数えるばかり枝にまだ 三つ四つ残んの赤き実さむし |
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(昭和六年十一月六日) |
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落 葉 | ||
349 | いちようの くちばをとればげんとして りんねののりをかたりておるも 一葉の 朽葉をとれば厳として 輪廻の則を語りて居るも |
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350 | みのかぎり おちばささやきあうがにて きぎのしたかげかぜふきぬくる 見のかぎり 落葉囁き合ふがにて 木々の下かげ風吹きぬくる |
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351 | へんぺんと ほそうろのうえまいくるう おちばたまりしひとところあり 片々と 舗装路の上舞ひ狂ふ 落葉たまりしひと処あり |
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352 | ふみならし おちばつづかうこのもりの みちをぬくればあきのにいでぬ 踏み鳴らし 落葉つづかふ此森の 径を抜くれば秋野にいでぬ |
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353 | いくひかさね おちばうめけんこのみちの ふかぶかしもよもりのしたかげ いく日かさね 落葉埋めけん此径の ふかぶかしもよ森の下かげ |
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354 | ふかぶかと いくとせつめるおちばにや このやまこみちあしあとみえず 深々と いくとせ積める落葉にや 此山小径足跡みえず |
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355 | きよめられし つちのおもてにおおきなる かきのわくらばみつよつちれる 清められし 土の面に大きなる 柿のわくら葉三つ四つ散れる |
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356 | まあかなる もみじのおちばふたつみつ いけのおもてにうけるふぜいよ 真紅なる 紅葉の落葉二つ三つ 池の面に浮ける風情よ |
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357 | むざんにも よあらしふきてまだありし にわのもみじのはだかぎとなりぬ 無残にも 夜嵐吹きて未だありし 庭の紅葉の裸木となりぬ |
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358 | あさじめり このまをゆけばふむごとに しもおくおちばかさこそとなる 朝じめり 木の間を行けば踏む毎に 霜おく落葉かさこそとなる |
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359 | あすふぁるとの つじにおちばのうずまいて こがらしのなかいぬはしりゆく アスファルトの 辻に落葉のうづまいて 木がらしの中犬走りゆく |
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360 | つちふむと おもえぬばかりふかぶかと たにのみぎわのおちばみちゆく 土踏むと 思えぬばかりふかぶかと 渓の汀の落葉路ゆく |
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361 | へいぎわや このあきをちりしくさぐさの おちばわくらばうずたかくつむる 塀際や 此秋を散りしくさぐさの 落葉わくら葉堆高くつむる |
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362 | みずぎわに やなぎのかれはややにうき みずとりのむれわけおよぎゆくも 水際に 柳の枯葉ややに浮き 水鳥のむれ分け泳ぎゆくも |
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363 | ゆうあらし ひとしきりふきつきいでて にわのおちばをしろじろてらせる 夕嵐 ひとしきりふき月出でて 庭の落葉を白じろ照らせる |
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364 | おちばかく おのこのかたのかれまつば ゆうひのなかにあざやかにみゆ 落葉掻く 男の子の肩の枯松葉 夕陽の中にあざやかに見ゆ |
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365 | あくたろう いつのまにやらたたきしか ひがきののあおおちばかな 悪太郎 いつの間にやら叩きしか 檜垣の下の青落葉かな |
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(昭和六年十一月十日) |
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雀 | ||
366 | ゆきのもに うごくものありこたつから はりどすかせばすずめなりける 雪の面に 動くものあり炬燵から 玻璃戸すかせば雀なりける |
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367 | どっとふく かぜにこのはのまうがごと とおぞらよぎるすずめのむれはも どつと吹く 風に木の葉の舞ふが如 遠空よぎる雀の群はも |
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368 | すずめらの こえようやくにかしましく まどのあたりはうすあかるみぬ 雀らの 声やうやくにかしましく 窓のあたりはうす明るみぬ |
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(昭和六年十一月十日) |
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新 春 | ||
369 | ちをつつむ そらのひかりもあらたにて ことしちょうものあるるこのひよ 地をつつむ 空の光も新たにて 今年てふもの生るる此日よ |
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(昭和六年十二月十六日) |
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暁の鶏声 | ||
370 | うすやみは ほがらほがらとあかるみつ かけなくこえのけたたましくも うす闇は ほがらほがらと明るみつ 家鶏鳴く声のけたたましくも |
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371 | にさんけん のうむのなかのわらやより あさけふるわすにわとりのこえ 二三軒 濃霧の中の藁家より 朝気ふるはす鶏の声 |
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372 | ほがらかに にわとりないてやまあいの そらのすそへにあかねほのめく ほがらかに 鶏鳴いて山間の 空の裾へに茜ほのめく |
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373 | みやしろの とうみょうきりのおくにみえ とおなくかけのこえきこゆなり 神社の 灯明霧の奥に見え 遠鳴く家鶏の声きこゆなり |
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374 | しじまなる あさけふるわせにわとりの けたたましくもひとこえなきけり しじまなる 朝けふるわせ鶏の けたたましくも一声鳴きけり |
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(昭和六年十二月二十三日) |
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寒 夜 | ||
375 | とのすきを もるさむかぜのみにしむも しょうじのかみのおりおりなれる 戸の隙を もる寒風の身にしむも 障子の紙のをりをり鳴れる |
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376 | ふみよみつ ひおけにそえどせすじより みずあびるごとしふゆのよさむは 書読みつ 火桶に添へど背すじより 水浴びる如し冬の夜寒は |
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377 | ひゅうひゅうと でんせんないてこがらしの ふきつのるよいわれぺんはしらすも ひゆうひゆうと 電線泣いて木枯しの 吹きつのる宵吾ペン走らすも |
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378 | いてりつきし みちくつおとをたからかに ひびかせつきのよるをかえりぬ 凍りつきし 路靴音を高らかに ひびかせ月の夜を帰りぬ |
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379 | でんせんに しもいてりつききらきらと つきにひかりてひとあしたえける 電線に 霜凍りつききらきらと 月に光りて人足絶えける |
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380 | なかなかに もえぬすみびにひゆるてを かざしつおもいにふけりゆくよや なかなかに 燃えぬ炭火に冷ゆる手を かざしつ思ひにふけりゆく夜や |
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381 | しんしんと よはふけりゆくもわれひとり のこりてつめたくへやをかたしぬ しんしんと 夜は更けりゆくも吾ひとり 残りて冷たく部屋をかたしぬ |
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382 | げたのおと みみだつよるなりひねもすの こがらしやみてまちしずもれる 下駄の音 耳だつ夜なりひねもすの 木枯止みて町静もれる |
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383 | うづみびを はさみてはおきはさみては おきつしばしをおもいにふける 埋み火を はさみては置きはさみては 置きつしばしを思ひにふける |
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384 | しずかよの きわまりにけるおともなく そとはこゆきのふりつむけはい 静か夜の きわまりにける音もなく 外は粉雪のふりつむ気はい |
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(昭和六年十二月二十三日) |
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暮 近 し | ||
385 | しわすとう おもいまつわりことごとに あわきふためきありにけるかな 師走とう 思ひまつわり事々に 淡きふためきありにけるかな |
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386 | みじかびの そらをあおぎてふとわれの いまのゆとりにほほえみてけり 短か日の 空を仰ぎてふと吾の 今のゆとりにほほえみてけり |
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387 | そこはかと きょうもくれけりあすもまた きょうをおうかとおもいぞすなり そこはかと 今日も暮れけり明日もまた 今日を追ふかと思ひぞすなり |
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388 | うないごを だきてやりたくおもいつも いくひたちしよきょうもくれける うない児を 抱きてやりたく思ひつも 幾日経ちしよ今日も暮れける |
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389 | ひさびさに にわもにたてばしもにくちし おちばさわにてつちむさぐろし 久びさに 庭面に立てば霜に朽ちし 落葉沢にて土むさぐろし |
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(昭和六年十二月二十三日) |
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彼の横顔 | ||
390 | ちかけんか いずれにしてもよのれべるに のらざるすがたかれにみるなり 痴か賢か いづれにしても世のレベルに 乗らざる姿彼に見るなり |
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391 | ほうとうくめん へいぜんとしてわかきめに ちかづくかれのよこがおをみるも 蓬頭垢面 平然として若き女に 近づく彼の横顔を見るも |
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392 | おろかなる さがもつかれのいぶかしさ ほのてんさいのひらめきもありて 愚かなる 性もつ彼のいぶかしさ ほの天才の閃きもありて |
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(昭和六年十二月二十三日) |
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彼女(若き日の頃) | ||
393 | なかなかに わかきにおいのゆたにして わがしんぞうをゆするべらなり なかなかに 若き匂ひの豊にして 吾心臓をゆするべらなり |
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394 | わかきかの みなぎるほほのなやましさ めをとじわれはといきつきける 若き香の みなぎる頬のなやましさ 眼をとぢ吾は吐息つきける |
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395 | あでやかな よそおいこらしわがまえに かのじょはありぬわれうつろなり あでやかな 粧こらしわが前に 彼女はありぬ吾空ろなり |
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396 | なよやかな すがたにりんとしらうめの におうがにみゆかのじょにくらし なよやかな 姿に凛と白梅の 匂ふがに見ゆ彼女にくらし |
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397 | あきのよの ほしともみゆるそのひとみ わがめのそこにきえやらぬかも 秋の夜の 星とも見ゆるその瞳 わが眼の底に消えやらぬかも |
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398 | わがおもい かよえばはずかしかよわねば うれたくもありいかにすべきや わが想ひ 通えばはづかし通はねば 憂れたくもあり如何にすべきや |
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399 | うるわしき なれがすがたにしのぶるは てんごくのそのにまうめがみなり 美しき 汝が姿に偲ぶるは 天国の苑に舞ふ女神なり |
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400 | しんぞうの ときめきなれにさとられじと そばちかづくをおそれもするわれ 心臓の ときめき汝に覚られじと 傍近づくを恐れもする吾 |
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401 | いまをこそ ほしのひとみをみんとすれど あたらわがめはたたみにそりける 今をこそ 星の瞳を見んとすれど あたらわが眼は畳に外りける |
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402 | やえざくら やよいのみそらいろどれるを なれがすがたにたとえてもみし 八重桜 弥生のみ空彩れるを 汝が姿にたとえてもみし |
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(昭和六年十二月二十三日) |
雪 | ||
403 | かれきりし えだふゆさればむつのはな さくひとときのながめありける 枯れきりし 枝冬されば六つの花 咲くひとときの眺めありける |
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404 | もうもうと こなゆきこめてふりきゆる かわものあおさめにしみらえる 濛々と 粉雪こめて降り消ゆる 川面の青さ眼にしみらへる |
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405 | やぶかげに のこんのゆきのまだきえず ゆうやみのなかほのあかるかり 薮かげに 残んの雪のまだきえず 夕闇の中ほの明るかり |
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406 | ふくかぜに ふるゆきくるいまいつして にわのときわぎややみだれける 吹く風に 降る雪くるひ舞ひつして 庭の常盤〔磐〕木やや乱れける |
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407 | あたたかき へやにあんきょしふとみたる はりどのそとをひじゃのめのすぐ 暖かき 部屋に安居しふと見たる 玻璃戸の外を緋蛇の目のすぐ |
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408 | あさまだき しらゆきつもりみちゆけば こいぬよこぎりひたはしりゆく 朝まだき 白雪つもる路ゆけば 小犬横ぎりひた走りゆく |
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409 | くもひくう たれしこのあさえきにゆけば やねにゆきあるきしゃいりてくも 雲低う たれし此朝駅にゆけば 屋根に雪ある汽車入りて来も |
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410 | まんねんの ゆきいわひだにしろじろと あるぷすれんざんひにかがよえる 万年の 雪岩襞に白じろと アルプス連山陽にかがよえる |
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411 | ようやくに それとしらるるごみばこの へいよりかけてゆきにうずみぬ やうやくに それと知らるる塵箱の 塀よりかけて雪に埋みぬ |
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412 | ごみばこの ゆきにうずもるうええさを あさるらしもよこすずめいちわ 塵箱の 雪に埋もる上餌を あさるらしもよ小雀一羽 |
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413 | いちじんの かぜふきあたりゆきつもる おいまつのえだこなゆきちらせり 一陣の 風吹き当り雪つもる 老松の枝粉雪散らせり |
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414 | でんちゅうの かたがわかくせししらゆきの ひにとけかかりもじあらわれぬ 電柱の 片側かくせし白雪の 陽に溶けかかり文字あらわれぬ |
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415 | ふんわりと かれきのえだにはるのゆき つむをしたしみみるへやのまど ふんわりと 枯木の枝に春の雪 つむをしたしみ見る部屋の窓 |
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416 | はるのゆき ふるまにとけてかさこそと かれしばのうえにつゆのたまおつ 春の雪 ふる間にとけてかさこそと 枯芝の上に露の玉おつ |
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417 | ふるゆきの なかのちまたのゆうまぐれ がいとうのしたひとかげらしも 降る雪の 中の巷の夕まぐれ 街灯の下人影らしも |
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(昭和六年十二月二十五日) |
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憤 る | ||
418 | いきどおるいじょうのこうふん さっとひえて きょむのわらいとかした 憤る以上の昂奮 さつと冷えて 虚無の笑と化した |
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419 | ごかいとちょうばにむくゆるちんもく それはとうといものとおもう 誤解と嘲罵にむくゆる沈黙 それは尊いものと思ふ |
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420 | うらぎられたげんじつを ゆめにしようとくふうしてもみた 裏切られた現実を 夢にしようと工夫してもみた |
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421 | おれにてっついをくだしたかれを どうしてもにくめない よわさ 俺に鉄槌を下した彼を どうしても憎めない 弱さ |
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422 | しゅうきょうてきへんしつしゃを いかにぐうするかにほうちゃくしたおれ 宗教的変質者を 如何に遇するかに逢着した俺 |
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(昭和六年十二月二十五日) |
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感 情 | ||
423 | ゆえないかんきが ほのかにおこって すっと きえていった 故ない歓喜が ほのかに起つて すつと 消えていつた |
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424 | かれのかんじょう みゃくみゃくとこころよいりずむをなして おれにながれてくる 彼の感情 脈々と快いリズムをなして 俺に流れてくる |
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425 | きいているかれのそらごと ああはやく おれのずのうをとおってしまえ 聴いてゐる彼の虚言 アヽ速く 俺の頭脳を通つてしまへ |
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406 | みかわしあったひとみはつめたかった おれのこころが このこころがなぜかよわぬか 見交はし合つた眸は冷たかつた 俺の心が 此心が何故通はぬか |
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427 | せいぜんたるへや そのでんとうのあかるさのかいかんよ 整然たる部屋 その電灯の明るさの快感よ |
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(昭和七年十二月二十五日) |
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雪 晴 れ | ||
428 | ふうわりと こぼれそうなえだのゆき あかつきばれのそらにういている ふうわりと こぼれそうな枝の雪 暁霽れの空に浮いてゐる |
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429 | しろいびりゅうのひとつひとつが きらきらひかる ゆきばれのあさ 白い微粒の一つ一つが きらきら光る 雪ばれの朝 |
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430 | ごうぜんとかまえたおいまつに すきまもなくつもった ゆきのすばらしさ 豪然とかまえた老松に すきまもなく積つた 雪のすばらしさ |
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431 | しろい やわらかいゆきのせんが にわをふんわりえがいているあさ 白い やはらかい雪の線が 庭をふんわり描いてゐる朝 |
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432 | ひにまぶしい そらのした なだらかな はくびょうのせっせん 陽にまぶしい 空の下 なだらかな 白描の雪線 |
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(昭和七年一月十八日) |
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動 く | ||
433 | かく まる せんとうとうのじゃずが がんていをゆすぶる きかいさぎょう 角 丸 線等々のジャズが 眼底をゆすぶる 機械作業 |
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434 | そらのへんうんを じっとみている ほーうごくぞ かすかにみぎへ 空の片雲を じつと視てゐる ホー動くぞ かすかに右へ |
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435 | ゆうぐれのそらに ちじくのうごきを ふと うなずく 夕暮の空に 地軸の動きを ふと うなづく |
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436 | けんそうのうず ひと ひかり くるま いえ よるのいろとおと めまぐるしいらんぶだ 喧喋のうづ 人 光 車 家 夜の色と音 めまぐるしい乱舞だ |
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437 | おお ほしのめいめつ ちじょうじんるいによびかけるよう オヽ 星の明滅 地上の人類に呼びかけるよう |
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438 | すやすやねむっている あかごのはなべの なごやかなゆれ すやすや眠つてゐる 嬰児の鼻辺の なごやかな揺れ |
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439 | でんせんがそらに つきのそらに かすかにふるえている はるはあさい 電線が空に 月の空に かすかにふるえてゐる 春は浅い |
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440 | ひなたに ねこのやつめみみをぬけだす そのかげが おおきくもながれてる 日向に 猫の奴め耳をうごかす その影が 大きくも流れてる |
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441 | しえんがひとつ ずへんでわをえがいて ゆるく のぼってゆく 紫煙が一つ 頭辺で輪をえがいて ゆるく 昇つてゆく |
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(昭和七年一月十八日) |
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春 | ||
442 | ねむたげな はるのうなもよなみのねの あるかなきかにきしをうつなり ねむたげな 春の海面よ波の音の あるかなきかに岸をうつなり |
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443 | わたしもり ふねにうごかずしんめする やなぎのえだのみずにうつれる 渡守 舟にうごかず新芽する 柳の枝の水にうつれる |
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444 | たかくひくく かすみをぬいつわたりどり いなずまなしてつらなりゆくも 高く低く 霞を縫いつ渡り鳥 いなづまなして連りゆくも |
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445 | なごやかな ひいろながるるあおのはら ひつじのおらばとふとおもいける なごやかな 陽色流るる青野原 羊のおらばとふと思ひける |
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446 | ちょうのかげ あおくさすべりそらうつる おがわよぎりてきえさりにける 蝶の影 青草すべり空うつる 小川よぎりて消えさりにける |
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447 | はるさめは やなぎにけぶりおともなく かわのながれのゆるくもあるかな 春雨は 柳にけぶり音もなく 川の流れのゆるくもあるかな |
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448 | みなぎらう はるひのなかやふすうしの つのにまつわるこちょうのかげはも みなぎらう 春陽の中や臥す牛の 角にまつわる小蝶の影はも |
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449 | つややかな あおばのこしてまあかなる つばきのはなのおおかたちりける つややかな 青葉のこして真紅なる 椿の花の大方ちりける |
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450 | ゆずりはの うらはくっきりつくばいの みずにうつりてひはまだたかし ゆづり葉の 裏葉くつきりつくばいの 水にうつりて日はまだ高し |
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(昭和七年一月十五日) |
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陽 炎 | ||
451 | たかくひくく かげろうわたるちょうちょうの ゆくえをみつめわれはありけり 高く低く 陽炎わたる蝶々の ゆくえをみつめ吾はありけり |
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452 | ゆきげする のやうらうらとかげろうの ゆらめきたちてなにかたのしき 雪解する 野やうらうらと陽炎の ゆらめき立ちて何かたのしき |
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453 | かぎろいの なかをわがふむやわくさに おのずからなるはるをうなずく かぎろいの 中をわがふむやわ草に おのづからなる春をうなづく |
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454 | かげろうの ゆらぎのすえにやまもさとも かすみかかりてただのどかなり 陽炎の ゆらぎの末に山も里も 霞かかりてただのどかなり |
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(昭和七年一月十五日) |
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梵 鐘 | ||
455 | ぼんしょうの おとむらさきのくれいろを つたうておぐらきもりにこむらう 梵鐘の 音むらさきの暮色を つたうて小ぐらき森にこむらふ |
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456 | おいまつの こんもりあおきいただきの うえにひとひらたむろするくも 老松の こんもり青き頂の 上にひとひらたむろする雲 |
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457 | まつのはは はりのごとしもつきかげに きらめきにつつよぞらあかるき 松の葉は 針の如しも月光に きらめきにつつ夜空明るき |
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458 | むぎのほの そろえるがみずにくっきりと うつりてとおなくひばりのこえあり 麦の穂の そろえるが水にくつきりと 映りて遠鳴く雲雀の声あり |
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459 | とうのうえの ゆうべのそらにむらがらす さっとまいたちながれさりける 塔の上の 夕べの空にむら鴉 さつと舞い立ち流れさりける |
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(昭和七年一月十五日) |
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春の気はい | ||
460 | ふきぬける ののさむかぜをとおるひに ゆるみのみえぬほのかながらも ふきぬける 野の寒風を透る陽に ゆるみのみえぬほのかながらも |
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461 | はなみつる しらうめのえにすぎしひの ゆきのあしたのにをやうかめぬ 花満つる 白梅の枝にすぎし日の 雪の朝の似をやうかめぬ |
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462 | ながれくる まどのゆうひのむらさきの ほにもせまらぬはるのきのみゆ 流れくる 窓の夕陽のむらさきの 秀にもせまらぬ春の気のみゆ |
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463 | かれのはら いろめだたぬもこころづけば はるのあわびにつちととのえる 枯野原 色めだたぬも心づけば 春の淡陽に土ととのえる |
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464 | かれくさを しだくあとにははやはるの きざしはつちにほのかなりける 枯草を しだく跡にははや春の きざしは土にほのかなりける |
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465 | つきかげの よどみのみゆるひとところ もやにおおわれねこやなぎおう 月光の 淀みのみゆるひとところ 靄におほはれ猫柳生ふ |
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466 | ぺんもてる ゆびのゆるみにはるきぬを うべないかみにむかいてありけり ペン持てる 指のゆるみに春来ぬを うべない紙に向いてありけり |
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467 | ねこやなぎ まひにきらめきみずぬるむ おがわにしるくかげをおとせる 猫柳 真陽にきらめき水ぬるむ 小川にしるく影を落せる |
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468 | こうばいの はなえようやくととのえば ひざしをうけてひとしおかがよう 紅梅の 花枝やうやくととのえば 陽ざしをうけて一入かがよふ |
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469 | うめのむら くれゆくころやくさのいえの けむりははなのあたりにまつわる 梅の村 くれゆくころや草の家の けむりは花のあたりにまつわる |
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(昭和七年一月十六日) |
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梅 花 | ||
470 | はなみつる うめのはやしをぬいながら かにむせみつつようやくぬけける 花みつる 梅の林をぬいながら 香にむせみつつ漸く抜けける |
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(昭和七年一月十六日) |
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春 の 山 | ||
471 | うららびよ おとめごたちのわらびかる かげはやわぐさのうえにひけるも うらら陽よ 乙女子たちの蕨狩る 影はやわ草の上に引けるも |
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472 | うすみどり みかさのやまににじまいて ひとはけががきのかすみひけるも うす緑 三笠の山ににじまいて 一刷毛がきの霞引けるも |
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473 | まつやまの あおさもかすみたちてより ところどころのうすらいにける 松山の 青さも霞たちてより ところどころのうすらいにける |
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474 | とおながれ くるうぐいすのこえにひかれ それがちになるはるののじかな 遠流れ くる鶯の声にひかれ それがちになる春の野路かな |
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475 | いつたつや いつきえゆくやはるがすみ ただとおやまのまえにたなびく いつ立つや いつ消えゆくや春霞 ただ遠山の前にたなびく |
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○ | ||
476 | はなとひとのらんぶを ほうふつしえらるる さんがつのやま 花と人の乱舞を 髣髴し得らるる 三月の山 |
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477 | かすみ かすみ かすみがみえる またおれをひっぱるだろう あのやまのさくら 霞 霞 霞がみえる また俺を引張るだらう あの山のさくら |
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478 | にいめのあおさがぜんざんをそめつくした なごやかなはるがきたんだ 新芽の青さが全山を染めつくした なごやかな春が来たんだ |
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(昭和七年一月二十日) |
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塵 埃 | ||
479 | もったいな みだのおんかたつむちりの しろくもほかげにゆらめきており 勿体な 弥陀の御肩つむ塵の 白くも灯光にゆらめきてをり |
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480 | ほこりくるう つじにやすまずみはりたつ ひとをえらしとわがおもいける 埃くるふ 辻にやすまず見張り立つ 人を偉しとわが思いける |
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481 | たかまどゆ ふとくながらうひのすじに ちりきらきらとぎんのこななり 高窓ゆ 太く流らう陽の條に 塵きらきらと銀の粉なり |
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482 | あちこちを こきうるみせにものとれば ひとつひとつがほこりまみれる あちこちを 古器売る店に物とれば 一つ一つが埃まみれる |
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483 | もうもうと ほこりたつなかすずかけの なみきのひろはかぜにさおどる 濛々と 埃立つ中篠懸の 並木の広葉風にさおどる |
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484 | ほこりまう したのほそうろひのさして おもなめらかにうちみずひかる 埃舞う 下の舗装路陽のさして 面なめらかに打水光る |
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(昭和七年二月十日) |
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春 | ||
485 | ぽっかり なめらかなそらにひとつ はるらしい つき ぽつかり なめらかな空に一つ 春らしい 月 |
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486 | くさのみどりがせんめいだ しゃめんにひがすべっている あさだ 草の緑が鮮明だ 斜面に陽がすべつてゐる 朝だ |
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487 | ゆめのような あめのぎんまくを つっきっていったつばめ つばめ 夢のような 雨の銀幕を つつきつていつた燕 燕 |
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488 | はるのいしきを どっかで よびさますらしい うぐいすのこえ 春の意識を どつかで 呼びさますらしい 鶯の声 |
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(昭和七年二月十日) |
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釣 | ||
489 | うきが いけいっぱいにひろがって とりのこえが うつつになりかけた 浮子が 池イツパイにひろがつて 鳥の声が うつつになりかけた |
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490 | とつじょ うきがつくるわ わ こどうがめにほとばしる 突如 浮子がつくる輪 輪 鼓動が眼にほとばしる |
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491 | おきをまっぷたつにいとがきっている きてきがなみにきえてゆく 沖をまつ二つに糸がきつてゐる 汽笛が波に消えてゆく |
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492 | やがてあめになろうそら しかし つりざおに おれはくくられている やがて雨にならう空 しかし 釣竿に 俺はくくられてゐる |
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(昭和七年二月十日) |
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星 | ||
493 | ほしがみんなこきゅうしている いしきてきに 星がみんな呼吸してゐる 意識的に |
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494 | しずむひを もやがおおうように ひろがってしまった でんえん 沈む日を 靄がおおうように ひろがつてしまつた 田園 |
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(昭和七年二月十日) |
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春 の 宵 | ||
495 | そのおりを なれとかたりしはつきおぼろ はなちりかかるよいなりしなり そのをりを 汝と語りしは月おぼろ 花散りかかる宵なりしなり |
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(昭和七年二月十六日) |
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霞 | ||
496 | おおとねに なむほゆらぎのみえぬまで かわのながれのゆるくもあるかな 大利根に 並む帆ゆらぎの見えぬまで 川の流れのゆるくもあるかな |
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497 | かれえだに はるのひかりのほのみえて なにかたのしきここちこそすれ 枯枝に 春の光のほの見えて 何かたのしき心地こそすれ |
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498 | ゆうあかね かすみににじみにじみにつ むらむらつつまうむらさきのいろ 夕茜 霞に滲み滲みにつ 村むらつつまふむらさきの色 |
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499 | ちらほらと ちるはなびらにかぜもなく うすぐもひくうもやいもやえる ちらほらと 散る花びらに風もなく うす雲低うもやいもやえる |
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500 | なのはなの きはつちのもをかくしける かすみははたをうわばいにつつ 菜の花の 黄は土の面をかくしける 霞は畠を上ばいにつつ |
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501 | ももぞのを つつむかすみにひまありや うすくれないのひとところはも 桃園を つつむ霞にひまありや うす紅のひとところはも |
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502 | たももりも でんかかすみぬはるはいま のこるくまなくしめにけらしも 田も森も 田家もかすみぬ春は今 のこるくまなく占めにけらしも |
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503 | はるがすみ そらこくわたりあげひばり つとめをかすめはろかにきえぬ 春霞 空濃くわたり揚雲雀 つと眼をかすめはろかにきえぬ |
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504 | はなまだき やまにかすみのたちそめて はるのけはいはいまだひそけし 花まだき 山に霞のたち初めて 春のけはいはいまだひそけし |
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(昭和七年二月二十五日) |
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自分の今 | ||
505 | まいにちをくりかえすけんたい ほりかえしほりかえし ともかくもきた 毎日をくりかえす倦怠 ほりかえしほりかえし ともかくも来た |
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506 | りそうがあたまのへんで とおくなったり ちかくなったり ふわふわしている 理想が頭の辺で 遠くなつたり 近くなつたり ふわふわしてゐる |
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507 | なまりのようなもの こころのどこかで おもたくこびりついていやがる 鉛のようなもの 心のどこかで 重たくこびりついてゐやがる |
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508 | きぼうが ちからいっぱい なんとどんじゅうなおれを ひっぱることよ 希望が 力一パイ 何と鈍重な俺を ひつぱる事よ |
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509 | どうすればいいかをしりすぎて なさないおれというもの どうすればいいかを知り過ぎて 為さない俺というもの |
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510 | こころのくうきょを いったりきたりしている かれらとかれら 心の空虚を 往つたり来たりしてゐる 彼等と彼等 |
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511 | あしゅらになって おもいきりあばれてみようか それもつまらない 阿修羅になつて 思ひ切りあばれてみようか それもつまらない |
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(昭和七年三月一日) |
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熱 海 | ||
512 | いくとせを すぎにけんかもいまをゆく あたみのまちはおぼろなつかし いくとせを 過ぎにけんかも今を行く 熱海の町はおぼろなつかし |
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513 | みやげもの うるみせおおしゆのまちの みちにながらうほかげしたしも みやげもの 売る店多し湯の町の 路に流らう灯光したしも |
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514 | くだちける よるのゆぶねにわれひたり うつろにみいるでんとうのひかり くだちける 夜の湯槽に吾ひたり うつろに見いる電灯のひかり |
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515 | もだんいろ こきよくしつよきのかおり すがしきむかしのいでゆをおもう モダン色 濃き浴室よ木の香り すがしきむかしの温泉をおもふ |
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516 | もっこくの あおばゆさぶるうぐいすの にさんばみゆもまだなかぬなり 木斛の 青葉ゆさぶる鶯の 二三羽みゆもまだ鳴かぬなり |
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517 | ゆけむりは とおはげやまのまえにながれ うみのよどめるいろにとけにつ 湯けむりは 遠禿山の前にながれ 海のよどめる色にとけにつ |
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518 | まどろまん みみにひそけししずもれる いでゆのよるをしゃみのねのする まどろまむ 耳にひそけし静もれる 温泉の夜を三味の音のする |
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(昭和七年三月十日) |
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さまよう | ||
519 | ひのつきし ゆうぐれまちのさまよいに わがすくいおのめにのこりけり 灯のつきし 夕暮街のさまよいに わが好く魚の眼にのこりけり |
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520 | ゆうやみは わかきおみなのすがたよき わがすこしおいはずかしくなりぬ 夕闇は 若き女の姿よき わが少し追いはづかしくなりぬ |
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521 | くろぐろと えきよりひとのはかれては ゆうべのやみにみなきえにける 黒ぐろと 駅より人のはかれては 夕べの闇にみな消えにける |
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522 | こうがいの みちはるにしてきやいえの したしまれについくまがりしぬ 郊外の 径春にして樹や家の したしまれについくまがりしぬ |
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523 | あたらしき ようしきのへいのよきいえに おもはじらいつそとのぞきけり 新しき 様式の塀のよき家に おもはじらいつそと覗きけり |
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(昭和七年三月十日) |
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鐘 の 音 | ||
524 | うねうねと よせくるおとはなみとなり わがみみすぐもかねのひびかい うねうねと よせくる音は波となり わが耳過ぐも鐘のひびかい |
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525 | むらさきに おおかたかげるとうのした なりつくかねのおとのゆらめき むらさきに 大方かげる塔の下 鳴りつく〔ぐ〕鐘の音のゆらめき |
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526 | かねのねは あさけにうねりうねりにつ いずこのはてかきゆるさかいは 鐘の音は 朝気にうねりうねりにつ いづこの果か消ゆるさかいは |
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527 | なるかねに いまはむかしのおおえどを とうえいざんにしのびけるかも 鳴る鐘に 今はむかしの大江戸を 東叡山にしのびけるかも |
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(昭和七年三月十日) |
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苔 | ||
528 | ふかぶかと くつにしたしもあつごけの はやしのしたのふるきにおいはも ふかぶかと 靴にしたしも厚苔の 林の下の古きにほいはも |
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529 | このまとおる ひのあかるくてこけぐさに こまかくみゆるはならしきもの 樹の間透る 陽の明るくて苔草に 細かくみゆる花らしきもの |
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530 | まろらかな みぎわのいしによくつきし ビロードごけのみずにあおしも まろらかな 汀の石によくつきし 天鵞絨苔の水に青しも |
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(昭和七年三月十日) |
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春はゆく | ||
531 | ぽかぽかと かぜあたたかくしめりあり はなぐもりけるはなのしたゆく ぽかぽかと 風あたたかくしめりあり 花曇りける花の下ゆく |
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532 | ちょうじのえ ぽっきりおればあまきかの たちまちしみてまなこしばたく 丁字の枝 ぽつきり折れば甘き香の たちまちしみて眼しばたく |
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533 | くさのほの ややにのびけるおかのうえ そよろふきくるかぜなぶろうも 草の穂の ややにのびける丘の上 そよろ吹きくる風なぶろふも |
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534 | たにはたに もやいこめけるはるのいろ とおしておがわのうすらひかれる 田に畑に もやいこめける春の色 透して小川のうすら光れる |
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535 | あめはれて つよびにしいのなみきより うらうらそらにみずけむりたてる 雨はれて 強陽に椎の並木より うらうら空に水けむりたてる |
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(昭和七年三月十六日) |
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春 野 | ||
536 | くたぶれて くさにいこえばかげろうに つつまるるはるのひととなりける くたぶれて 草に憩えば陽炎に つつまる春の人となりける |
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(昭和七年三月十六日) |
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桜 | ||
537 | みとうせぬ までにしろじろさきみてる さくらのうえのそらのまあおき 見とうせぬ までに白じろ咲きみてる 桜の上の空のま青き |
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538 | うすびさす あしたのはなのいろさえて ひがんざくらをふくかぜもなく うす陽さす 朝の花の色さえて 彼岸桜をふく風もなく |
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539 | すみだがわ ゆるきながれにしろじろと さくらなみきのかげいずちまでや 隅田川 ゆるき流れに白じろと 桜並木のかげいづちまでや |
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540 | あおぞらを かがやかしげにはなむるる さくらひともとさかのまうえに 青空を かがやかしげに花むるる 桜一本坂の真上に |
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541 | むぎのいろ あおくひろごるはたのすえ かすみにあらでさくらさくなり 麦の色 青くひろごる畠の末 霞にあらで桜咲くなり |
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542 | はなさかる さすがにもがなみよしのの やまをながめてただうつろなり 花さかる 流石にもがな三吉野の 山をながめてただうつろなり |
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543 | ほりばたの さくらのさきてでんしゃより ひそかにはるをあじわいにける 濠端の 桜の咲きて電車より ひそかに春を味はいにける |
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544 | めにいらぬ かすみとなりぬさきみつる さくらのやまとなりきりてより 眼に入らぬ 霞となりぬ咲きみつる 桜の山となりきりてより |
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545 | まちばたの わかぎのさくらさきいでて ゆききのわれのほをゆるませぬ 街端の 若木の桜咲きいでて ゆききの吾の歩をゆるませぬ |
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546 | どてうえの さくらはかぜにまいくるい つちあるところはなびらのうず 土堤上の 桜は風に舞いくるい 土あるところ花びらのうづ |
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547 | もやこめて はなちりやみぬゆうづきの ほのかにもるるえだのさしかい 靄こめて 花ちりやみぬ夕月の ほのかにもるる枝のさしかい |
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548 | つきぞらは おぼろににおえりこのよいを はなのこころにわれもそはばや 月空は 朧ろに匂えり此宵を 花の心に吾もそはばや |
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549 | まばらさく さくらのはなのまさおなる そらにうかめるわかぎはさみし まばら咲く 桜の花の真青なる 空に浮かめる若木はさみし |
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(昭和七年三月十六日) |
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冠 歌 | ||
桜 ち り | ||
550 | さくらちりぬ そらなめらかにあおあおと いまもえずりしわかばのすがしも 桜散りぬ 空なめらかに青あおと 今萌えづりし若葉のすがしも |
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551 | さくらちりて みどうをめぐるおばしまの なかはしろじろはなのたまれる 桜散りて 御堂をめぐるおばしまの 中は白じろ花のたまれる |
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552 | さくらちり ふじにいそぐかゆくはるよ はなほのつぼみむらさきにじまう 桜ちり 藤にいそぐかゆく春よ 花穂の蕾紫にじまう |
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553 | さくらちりて うすらみどりのながながと うねるつつみはかわぞいのみち 桜ちりて うすら緑のながながと うねる堤は川ぞいの路 |
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554 | さくらちり きしべにたまるはなびらの かぜにふかれてひにながれゆく 桜ちり 岸べにたまる花びらの 風にふかれて日に流れゆく |
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555 | さくらちりて よどめるみずにきょうまでも はるのなごりのはなびらうける 桜ちりて 淀める水に今日までも 春の名残の花びら浮ける |
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556 | さくらちりぬ かすみもはれぬいまよりぞ めにしんりょくをわがおうべくも 桜ちりぬ 霞もはれぬ今よりぞ 眼に新緑をわが追うべくも |
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557 | さくらちり なだたあるやまもゆくひとの なくてうつりのはやきよにこそ 桜ちり 名だたる山もゆく人の なくてうつりのはやき世にこそ |
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558 | さくらちりし つつみのすそのわかくさに げんげのはなのまじりさくなり 桜散りし 堤の裾の若草に 紫雲英の花の交りさくなり |
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559 | さくらちりし えだにすきけるあおぞらを しょかのひかりははやかがよえる 桜ちりし 枝に透きける青空を 初夏の光ははやかがよえる |
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560 | さくらちりつ そぞろのわれのうなじべに かかるはなびらなつかしまれぬる 桜ちりつ そぞろの吾のうなじべに かかる花びらなつかしまれぬる |
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(昭和七年四月二十一日) |
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春 の 風 | ||
561 | やわかぜに わがまかせいるこうえんの べんちのまながいひやしんすさける やわ風に わがまかせゐる公園の ベンチのまながいヒヤシンス咲ける |
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(昭和七年五月十二日) |
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二子の桃 | ||
562 | いくせんぼん ももぎのありやはなさけば ただくれないのいろにそまりぬ いく千本 桃木のありや花さけば ただ紅の色に染まりぬ |
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563 | もものはな みちさくえだをくぐりゆけば いよよふかまりはてしなげなる 桃の花 みちさく枝をくぐりゆけば いよよ深まりはてしなげなる |
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564 | としふりし ももきのみきのあおごけと はなのてりあいみのさりがたき 年ふりし 桃木の幹の青苔と 花のてりあい見の去りがたき |
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565 | ももぞのの つちはあおかりはなのしたは むぎふのはたのつづかいてりはう 桃園の 土は青かり花の下は 麦生の畠のつづかひてり映ふ |
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566 | ふかまれる ゆうべのいろはももぞのの くれないとけてやみとなりけり 深まれる 夕べの色は桃園の くれない溶けて闇となりけり |
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(昭和七年五月十二日) |
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能登近く | ||
567 | ごとごとと ねむたくはしるきしゃのまど やまなみあおくながれさりゆく ごとごとと 眠たく走る汽車の窓 山並青く流れ去りゆく |
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568 | りょうそでは やまがきつづかいたやはたの あおきがなかをれーるひかれる 両袖は 山垣つづかひ田や畠の 青きが中をレール光れる |
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569 | なだらかな やまのせのそらあかるみて うみのまうえのけはいすらしも なだらかな 山の背の空あかるみて 海のま上のけはいすらしも |
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570 | くれなえる さくらばなかなのとのくにの はるにみいずるろーかるのいろ くれなえる 桜花かな能登の国の 春に見出づるローカルの色 |
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571 | こまつおおき やまところどころあまみづの たまりてそらのきよくうつれる 小松多き 山ところどころ雨水の たまりて空の清くうつれる |
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572 | すぎこだち あおずみけらしやますその いえおおかたはさくらさくなり 杉木立 青づみけらし山裾の 家大方は桜さくなり |
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573 | くろめける つちのなだりのはたにおう しろくれないのはなはなしらじ 黒めける 土のなだりの畠に生う 白紅の花は名知らじ |
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574 | むらさきの やまなみつづかうゆうぐれを きしゃのまどごしわがみおくりつ むらさきの 山並つづかう夕暮を 汽車の窓越しわが見送りつ |
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575 | ゆうぞらを くぎりてくろきやまのえを みょうじょうひとつとびゆくらしも 夕空を くぎりて黒き山の上を 明星一つ飛びゆくらしも |
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(昭和七年五月二十五日) |
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夜 汽 車 | ||
576 | みんなおしだまってうすぐらいともしびにうかんでいる つかれきっているかお かお かお みんなおし黙つてうす暗い灯に浮んでゐる 疲れきつてる顔 顔 顔 |
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577 | おんながぐっすりねむっている まだわかい いってやろうか そのいぎたなさ 女がぐつすり眠つてゐる まだ若い 言つてやらうか そのいぎたなさ |
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578 | こつこつさくかに わたしはふけっている ごうごうとみみなれた いっしゅのせいじゃく コツコツ作歌に 私は耽つてゐる ゴウゴウと耳なれた 一種の静寂 |
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579 | さびしさが ぼんやりみてるあみだなの にもつのひとつひとつからくる 淋しさが ぼんやり見てる網棚の 荷物の一つ一つから来る |
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580 | ひとしきりあかんぼうのこえが そうおんになきまじった かるいねむけがおそう ひとしきり赤ン坊の声が 騒音に泣き交つた 軽い眠気がおそう |
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581 | まどがならんでまっくろだ ときどきほたるらしい ひかりのせん 窓が並んで真つ黒だ 時々蛍らしい 光の線 |
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582 | よいどれがのった ひやりとした それもいつかうつつのなかに きえてしまった 酔どれが乗つた ヒヤリとした それもいつかうつつの中に 消えてしまつた |
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583 | かばん ばすけっと ふろしき ぼんやりねむいめにはいってくる カバン バスケット 風呂敷 ボンヤリ眠い眼に入つてくる |
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584 | わたしのふかすしえんが ひとびとのずじょうをながれては でんこうにとけてゆく 私のふかす紫煙が 人々の頭上を流れては 電光に溶けてゆく |
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(昭和七年五月二十五日) |
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初 秋 | ||
585 | こかげふめば つちのしめりのややにあり ひなたのあつさここにわすれぬ 樹かげふめば 土のしめりのややにあり 日向の暑さここに忘れぬ |
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(昭和七年十月十日) |
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秋 草 | ||
586 | あきはぎの こむらのまえにたたずめば のかぜひややにわれをふきすぐ 秋萩の 小むらの前にたたづめば 野風ひややに吾をふきすぐ |
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587 | ききょうのはな いとつつまじ〔し〕くはんどこに においてよきもわがちさきへや 桔梗の花 いとつつまじ〔し〕く半床に 匂いてよきもわが小さき部屋 |
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588 | とうげゆく まごのかたまでほすすきの しげむがみえぬやまのふもとに 峠ゆく 馬子の肩まで穂薄の 茂むがみえぬ山のふもとに |
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589 | ひろびろと すすきおばなのさくのべを ゆうぐれたどればたださみしけれ ひろびろと 芒尾花の咲く野べを 夕ぐれたどればたださみしけれ |
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590 | えんばたに さにわのこはぎみのあれば ひとつふたつのはなこぼれける 縁端に さ庭の小萩見のあれば 一つ二つの花こぼれける |
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591 | ふじばかま ちぐさのなかにみいでけり うらむらさきのこばなめぐしむ 藤袴 千草の中にみいでけり うら紫の小花めぐしむ |
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592 | かぜふけば くずのひろはのひるがえり おりおりみゆるむらさきのはな 風ふけば 葛の広葉の飜えり をりをりみゆるむらさきの花 |
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593 | ひのてれる ひろはのひとしおかがやける だりやのはなにこちょうとまれる 陽の照れる 広庭に一入かがやける ダリヤの花に小蝶とまれる |
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594 | おくやまの あきふかみけりさきみつる はぎみのひとのなきをおしみぬ 奥山の 秋ふかみけり咲きみつる 萩見の人のなきを惜しみぬ |
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595 | だーりやの はなのいろいろあきのひに もえたつをみぬわがひまひまを ダーリヤの 花のいろいろ秋の陽に もえたつを見ぬわが暇ひまを |
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(昭和七年十月十二日) |
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自動車は走る | ||
596 | はしる はしる とうかのせんが いくつも いくつもあとへ あとへにげてゆく 走る 走る 灯火の線が いくつも いくつも後へ 後へ逃げてゆく |
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597 | まちがぐらぐらおれにぶつかる おそろしくおおきくなっては 街がぐらぐら俺にぶつかる おそろしく大きくなつては |
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(昭和七年十月二十五日) |
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新 宿 | ||
598 | ぎんざをおさえつけたいといういとが おどっている しんじゅくのよる 銀座をおさえつけたいという意図が 踊つてゐる 新宿の夜 |
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599 | ひかりのこうさくにぐらぐらする おのずからしやをせばめてゆく 光の交錯にぐらぐらする おのずから視野をせばめてゆく |
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600 | ここばかりにあつまるふしぎなはんえいに まなこをみはるんだ いちどは ここばかりに集る不思議な繁栄に 眼をみはるんだ 一度は |
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601 | いなかものも いまはあめりかがえりで まだわかものだぞ しんじゅく 田舎者も 今はアメリカ帰りで まだ若者だぞ 新宿 |
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602 | ぐろなちかとんねるを ぞろぞろにんげんがあるくおと おと しんじゅく グロな地下トンネルを ぞろぞろ人間が歩く音 音 新宿 |
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(昭和七年十一月二十日) |
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炭 火 | ||
603 | せとひばちのしたしいしょっかん ひしひしとなる すみびのおと 瀬戸火鉢のしたしい触感 ヒシヒシと鳴る 炭火の音 |
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604 | ぼつりぼつりときゃくとかたっている ときどきはさんでみる すみび ぼつりぼつりと客と語つてゐる ときどきはさんでみる 炭火 |
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605 | ひのかけらを おそろしくおしいもののように おれはいま すみをついでいる 〔火〕のかけらを おそろしく惜しいもののように 俺は今 炭をついでゐる |
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606 | おおよくととのっているへやだ ひやっとふれる したんのかくひばち おほよく整つてゐる部屋だ ひやつと触れる 紫檀の角火鉢 |
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607 | みんなはなしにこうふんしている おおひばちのひはまっかだ みんな話に興奮してゐる 大火鉢の火は真赤だ |
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608 | すわったざぶとんはばかにふくれている しきしまに まずひをつける すわつた座蒲団は馬鹿にふくれてゐる 敷島に 先づ火を点ける |
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609 | しろばいから かおをだしているすみび ぼんやりみながら ひとをまっているおれ 白灰から 顔を出してゐる炭火 ぼんやり見ながら 人を待つてゐる俺 |
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(昭和七年十一月二十日) |
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秋 晴 れ | ||
610 | うららかに ひざすあさなりあきのそら すけるはりどはみなきらめける うららかに 陽ざす朝なり秋の空 すける玻璃戸はみなきらめける |
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611 | すすきしろく あかつちやまをなかばうずめ あきぞらのまえによくととのえる 芒白く 赭土山を半ばうづめ 秋空の前によく調〔整〕える |
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612 | そらうつす いけのすがしもすいすいと とんぼはみずにふれてはすぐる 空うつす 池のすがしもすゐすゐと 蜻蛉は水にふれてはすぐる |
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613 | こすもすの はなのみだれにあきのひは さんさんとしてここにあかるき コスモスの 花のみだれに秋の陽は さんさんとしてここに明るき |
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614 | びるでぃんぐの たかきおくじょうはたはたと はたひらめきてそらすみきれる ビルディングの 高き屋上はたはたと 旗ひらめきて空すみきれる |
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615 | たもはたも あきのいろはもかきあかき のうかいっけんまじかにありぬ 田も畑も 秋の色はも柿赤き 農家一軒まぢかにありぬ |
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(昭和七年十一月二十五日) |
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蜻 蛉 | ||
616 | こどもらの あきのひあびてうごなえる しきござのすみとんぼとまれる 子供等の 秋の陽浴びてうごなえる 敷蓙のすみ蜻蛉とまれる |
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617 | みだれさく しおんのはなにせいれいの ふたつみっつはいつもとまれる みだれ咲く 紫苑の花に蜻蛉の 二つ三つはいつもとまれる |
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618 | さわやかな あきのごごなりのをゆけば ほにおどろきてとんぼにげまう さわやかな 秋の午後なり野をゆけば 歩におどろきて蜻蛉にげまふ |
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619 | ふねつなぐ みずさお〔みさお〕のさきにせいれいの とまるがみずにきははにうつれる 舟つなぐ 水棹の尖に蜻蛉の とまるが水にきははにうつれる |
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620 | ゆうぞらを あおげばなつのかばしらの ごとせいれいのむらがりとびかう 夕空を 仰げば夏の蚊柱の ごと蜻蛉のむらがりとびかふ |
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621 | あきたけぬ ぺんはしらするかみのえに おちてきにけりおおきかとんぼ 秋たけぬ ペンはしらする紙の上に 落ちてきにけり大き蚊とんぼ |
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622 | いきこらし とんぼとらんとしのびよれば ぎろりめだまのひにひかりけり 呼吸こらし 蜻蛉とらんと忍びよれば ぎろり眼玉の陽に光りけり |
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623 | せいれいの そらにむらがるゆうべなり ゆうばえぐもをにわにあおぐも 蜻蛉の 空にむらがる夕べなり 夕映雲を庭にあふぐも |
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624 | せいれいを とらんとすればすいとゆく とらんとすればまたすいとにげぬ 蜻蛉を とらんとすればすゐとゆく とらんとすれば又すゐと逃げぬ |
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(昭和七年十二月五日) |
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寒 月 | ||
625 | はしのえの よじもさらさらおとすなり かんげつそらにつめたくひかる 橋の上の 夜霜さらさら音すなり 寒月空につめたく光る |
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626 | よみせする ひとのさむさをおもいつつ まちをぬければつきよとなりけり 夜見世する 人の寒さをおもいつつ 町をぬければ月夜となりけり |
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627 | とまぶねの すきまにあかくひのみえて あおあおしもよつきのよのかわ 苫舟の すきまに赤く灯のみえて 青あおしもよ月の夜の川 |
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628 | ふゆがれや ぞうきばやしにしもこおり さしかわすえのつきにあかるき 冬枯や 雑木林に霜こほり さし交はす枝の月にあかるき |
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629 | ふゆがれの はやしのよるはしずかなり かんげつあおげばえりにあわだつ 冬枯の 林の夜は静かなり 寒月あふげば襟に粟だつ |
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630 | よはふけぬ つきしろきみちことさらに わがげたのおとみみだちにける 夜はふけぬ 月白き路ことさらに わが下駄の音耳立ちにける |
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(昭和七年十二月十日) |
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冬 庭 | ||
631 | ふたつみつ もみじのちりばまつのはに かかるがみゆるしもしろきあさ 二つ三つ もみぢのちり葉松の葉に かかるが見ゆる霜白き朝 |
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632 | きるはなの ありやとにわにたたずめば えりもとさむくふゆかぜすぐる 切る花の ありやと庭に佇めば 襟元寒く冬風すぐる |
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633 | ふゆぞらの あかるきひなりへいそとに さくらのかれえこまやかにはれる 冬空の 明るき日なり塀外に 桜の枯枝こまやかに張れる |
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634 | なんてんの あかきつぶらみめだつなり ふゆにわのいまみなすがれける 南天の 赤きつぶら実目立つなり 冬庭の今みなすがれける |
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635 | ちりだまる おちばのなかにみいでける あかきもみじのひとはふたはを ちりだまる 落葉の中に見出でける 赤き紅葉の一葉二葉を |
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636 | ひをつけし おちばのぱっともえにける こらおどろきてにげさりにける 火を点けし 落葉のパツと燃えにける 子ら驚きて逃げ去りにける |
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637 | すがれたる にわきのなかにただひとつ あおきひろばのやつでえだはれる すがれたる 庭木の中にただ一つ 青き広葉の八ツ手枝はれる |
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(昭和七年十二月十日) |
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このごろ | ||
638 | へいぼんなせいかつをやぶろうとするいとを おれはぶんなぐる 平凡な生活をやぶらうとする意図を 俺はぶんなぐる |
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639 | くるしいときをへてふりかえる それははやいほどたのしいおもいでだ 苦しい時を経てふりかえる それは早い程楽しい思出だ |
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640 | かれを ときふして しまってからの さびしさ 彼を 説伏して しまつてからの 寂しさ |
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641 | みたされないこころをかかえているらしいかれを しゅくふくしたい おれ 満されない心をかかえてゐるらしい彼を 祝福したい 俺 |
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642 | つっぱなしちゃえとおもう むしんてきいんてり つつぱなしちやへと思ふ 無神的インテリ |
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643 | ろぼっとのびょうきは きかいでなおろう にんげんは もっとれいみょうなんだ ロボットの病気は 機械で治らう 人間は もつと霊妙なんだ |
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銀座の夜 | ||
644 | あお あか むらさき ひかり ひかり ひかり めまぐるしい せんのこうさく 青 赤 紫 光 光 光 めまぐるしい 線の交錯 |
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645 | きちょういみんのようなせいねんが いとほこらしげだ 帰朝移民のような青年が いとほこらしげだ |
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646 | わかいおんなのじんいびが ぎんざのひにおどっている 若い女の人為美が 銀座の灯に踊つている |
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647 | へりおとろーぷのかすかなかおり だんさーらしいにさんにんがゆく ヘリヲトロープのかすかな香り ダンサーらしい二三人がゆく |
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648 | あおいやなぎが いらいらしたせんちめんたるを ちょうせつしている 青い柳が 焦々したセンチメンタルを 調節してゐる |
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649 | ひとおとのじゃずがうめつくしている ぎんざのくうかんをきる 灯と音のジャズが埋めつくしている 銀座の空間を截る |
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650 | からっかぜが よるのぎんざをよけて ひびやがはらのこうそうけんちくへぶつかるんだ 空風が 夜の銀座をよけて 日比谷ケ原の高層建築へぶつかるんだ |
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651 | きらびやかなかふぇーのがいしょくからうける いっしゅのひあい きらびやかなカフェーの外飾から受ける 一種の悲哀 |
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(昭和七年十二月十日) |
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冬 木 立 | ||
652 | ふゆぞらの あぜのかれきもそのままに うつるみずたのごごしずかなり 冬空も 畔の枯木もそのままに 映る水田の午後静かなり |
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653 | ふゆがれの はやしめざしてつどうからす すわるるごとくゆうぞらにきえぬ 冬枯の 林めざして集う烏 吸はるる如く夕空に消えぬ |
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654 | はおちして くぬぎばやしはさむげなり あかるくすけるふゆのあおぞら 葉落して 櫟林は寒げなり 明るくすける冬の青空 |
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655 | ふゆこだち しもこきあさのしたかげを ゆけばかすみのはらはらとふる 冬木立 霜こき朝の下かげを ゆけば霞のはらはらと降る |
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656 | はだかぎの ちらほらみゆるみちしゆく にばしゃにひびかううそさむきおと 裸木の ちらほらみゆる道しゆく 荷馬車にひびかふうそ寒き音 |
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657 | いつしかに こがらしやみぬはだかぎの なみきのみちはつきにしろめく いつしかに 凩やみぬ裸木の 並木の道は月に白めく |
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658 | ゆきつもる こだちにすけるにさんばの からすくろかりうるしのごとくに 雪つもる 木立にすける二三羽の 烏黒かり漆の如くに |
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659 | ふゆのあさ いでゆにつかりうっとりと かれこだちするやまをみており 冬の朝 湯泉につかりうつとりと 枯木立する山をみてをり |
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(昭和七年十二月十日) |
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○ | ||
660 | ただならぬ よのうずまきのそとにいて うたなどよまんゆとりほしきも ただならぬ世のうづまきの外に居て 歌など詠まむゆとり欲しきも |
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(昭和七年十二月二十日) |
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霜 | ||
661 | すいせんの めのすんばかりにさんぼん しろしものなかにみいでしこのあさ 水仙の 芽の寸ばかり二三本 白霜の中にみいでし此朝 |
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(昭和七年十二月二十五日) |
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暮 | ||
662 | としせまり ことしとれどもこころもえず あたらしきとしまつこととせり 年せまり 事しとれども心もえず 新しき年待つこととせり |
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663 | にぎやかな しわすのまちをぬけきりて でんしゃまつまのさむさにふるう 賑やかな 師走の町をぬけきりて 電車待つ間の寒さにふるう |
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664 | そそくさと ひとはゆくなりおおかたの いえいえすがしくまつかざりすめる そそくさと 人はゆくなり大方の 家いえ清しく松飾すめる |
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665 | ときめきて しょうがつまちしこのころの こころのこるかおいけるいまはも ときめきて 正月待ちし子の頃の 心のこるか老ひける今はも |
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666 | ひやはたに かざれるまちをうかうかと ひとなみわけてつまとありけり 灯や旗に かざれる街をうかうかと 人波わけて妻とありけり |
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667 | ちょうぜんと ひとのせわしきしわすとう さかいはなれていまをあるわれ 超然と 人のせわしき師走とう 境はなれて今をある吾 |
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(昭和七年十二月三十日) |
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勅題 朝 の 海 | ||
668 | こうせいの わかきひかりをわだのはら てらすはつひをけさもみしかな 更生の 若き光を和田の原 照らす初日を今朝も見しかな |
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669 | ほがらかに うみはあけたりひをうけて うみぞいのやまみなくれなえる ほがらかに 海は明けたり陽をうけて 海ぞいの山みなくれなえる |
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670 | とのごとき あしたのうみにほをたてて すべるふねありくましろくひき 砥の如き 朝の海に帆を立てて すべる舟あり隈白くひき |
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671 | ゆらゆらと わがふねわくるうみのおもの あさのしじまにろのきしるおと ゆらゆらと わが舟分くる海の面の 朝のしじまに艫のきしる音 |
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672 | しずかなる あしたのうみよなみのほの たまたましろくたちてはきゆるも 静かなる 朝の海よ波の秀の たまたま白くたちては消ゆるも |
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673 | おきしろく あけはなれたりさざなみの みほのうらべにまつばらかすめる 沖白く 明け放れたり小波の 三保の浦辺に松原かすめる |
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(昭和八年一月一日) |
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新東京を詠む | ||
大 森 | ||
674 | いしのだん つくればろうもんどううなど こしょくさびしくめぢにひらくる 石の段つくれば楼門堂宇など 古色さびしく眼路にひらくる(本門寺) |
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675 | おかつづく きょくせんいけにまうつりて ボートゆくあとしろきおをひく 丘つづく 曲線池にまうつりて 短艇ゆくあと白き尾を引く(洗足池) |
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676 | ばいりんの なごりのあとはあらなくも かんがのいえのたちなむるよさ 梅林の 名残のあとはあらなくも 閑雅の家の立並むるよさ(八景園) |
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677 | おちこちに もりくろぐろしふゆのひに あかがわらのやねみつよつひかるも をちこちに 森くろぐろし冬の陽に 赤瓦の屋根三つ四つ光るも(馬込) |
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品 川 | ||
678 | うみぞいの きゅうかいどうはひとどおり まばらなりけるいえなみふりにし 海ぞいの 旧街道は人通り まばらなりける家並古にし(鮫 洲) |
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679 | くびおれし いしぼとけあわれとおきおか あかまつばやしのゆうぞらいろどる 首折れし 石仏あわれ遠き丘 赤松林の夕空いろどる(大 仏) |
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680 | うみかぜは ほほにつめたくはしにかかる ひといそぐなりきてきのなかを 海風は 頬に冷く橋にかかる 人いそぐなり汽笛の中を(八ツ山橋) |
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681 | まちまちの うしろはうみかふゆかもめ なくこえみだれあさけにふるう 町々の 後は海か冬鴎 鳴く声みだれ朝気にふるう(品川町) |
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682 | ゆいしょある みやしろらしもみはしらの かみなをおろがみさいしくだりぬ 由緒ある 神社らしも三柱の 神名を拝み賽し下りぬ(品川神社) |
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豊 島 | ||
683 | こだちふかき みちをくねればまながいに わせだたんぼはいえたちにける 木立ふかき 径をくねればまながいに 早稲田田圃は家建ちにける(高田町) |
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684 | ふゆがれの おおきはつきかしめはれる みどうきしものおわしますかや 冬枯れの 大樹は槻か注縄はれる 御堂鬼子母のおはしますかや(雑司ケ谷) |
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685 | のろのろと うしあまたゆくあすふぁるとの みちはふゆひのなかにつづける のろのろと 牛あまたゆくアスフヮルトの 路は冬陽の中につづける(目白) |
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目 黒 | ||
686 | ここのちに ひとはくるいしうまとびし などおもほいつけいばじょうすぐ ここの地に 人は狂ひし馬飛びし などおもほひつ競馬場すぐ |
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687 | ととのえる あきちひろらにくさかれて のわきはいまをしきりふける 整える 空地ひろらに草枯れて 野分は今をしきり吹ける(新住宅地) |
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688 | しもがれや まいくるひとのすくなかり かみほとけとてもきせつあるにや 霜枯や 参来る人の少なかり 神仏とても季節あるにや(不 動) |
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689 | しんちくの いえのうしろのたけやぶを はなれてすずめらそらにちりけり 新築の 家の後ろの竹薮を はなれて雀ら空にちりけり(碑文谷) |
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淀 橋 | ||
690 | しんじゅくの よぞらにそそるはみつこしか ねおんさいんのあかきひもゆる 新宿の 夜空にそそるは三越か ネオンサインの赤き灯もゆる |
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691 | ひとやおとに おされおされつげきりゅうの つくるところはしんじゅくのえき 人や音に 押され推されつ激流の 尽くるところは新宿の駅 |
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滝野川 | ||
692 | みずあかく もみじかかぶるたきのがわ むかしながらのあきのめいしょや 水あかく 紅葉かかぶる滝野川 昔ながらの秋の名所や(紅 葉) |
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693 | ふるきいえ おおきのみきにもえどころの なごりかすかにのこるべらなる 古き家 大樹の幹にも江戸ころの 名残かすかに残るべらなる |
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694 | はなふぶき やまにくるいてひとみだる やよいのころをめにうかべける 花吹雪 山に狂ひて人みだる 弥生の頃を眼にうかべける(飛鳥山) |
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695 | てらのもん むかしながらにゆかしけれ されどでんしゃのおとのひびきく 寺の門 昔ながらに床しけれ されど電車の音のひびき来(田 端) |
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696 | しょうぐんの たたえしたばたのよきけいも いえうずもりてつくばのみみゆ 将軍の 称えし田端のよき景も 家うづもりて筑波のみ見ゆ(道灌山) |
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杉 並 | ||
697 | たかくひくく はたけつづかいぞうきばやしの そらあかるしもふゆかぜすぐる 高く低く 畑つづかい雑木林の 空明るしも冬風すぐる(和田堀) |
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698 | きらびやかな ほんどうながるるどくきょうの こえききいればほかげゆらめく きらびやかな 本堂流るる読経の 声ききゐれば灯光ゆらめく(堀之内祖師堂) |
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699 | ひろきはら かれくさふしてべんてんの いぶせきどううみずにうつれる ひろき原 枯草伏して弁天の いぶせき堂宇水にうつれる(馬 橋) |
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城 東 | ||
700 | すなむらは ねぎばたすがれなのはたは あおあおしもよまだかたいなかなる 砂村は 葱畑すがれ菜の畑は 青あおしもよまだ片田舎なる |
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701 | みなれける たいこばしもよろしばいりんは えだこまやかにふゆぞらつづれる 見なれける 太鼓橋もよろし梅林は 枝こまやかに冬空つづれる(亀井戸) |
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702 | もりやはたけ おがわおしなべてゆうもやに つつまれあきのゆうかぜさむし 森や畑 小川おしなべて夕靄に つつまれ秋の夕風さむし(葛西橋) |
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703 | ほうすいろの みずあおあおしくびすくめ ふゆのゆうぐれはしいそぎゆく 放水路の 水青あおし首すくめ 冬の夕ぐれ橋いそぎゆく(荒 川) |
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704 | つりぶねの いくつかあしのまにみえて しずかにしずむあきのうすらび 釣舟の いくつか葦の間に見えて 静かに沈む秋のうすら日(中 川) |
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足 立 | ||
705 | かねぼうの えんとつそそりすみだがわ みぎわのよしはみだれけるかな 鐘紡の 煙突そそり隅田川 汀の葭はみだれけるかな(鐘ケ淵) |
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706 | とらっくや でんしゃゆきかうこのみちは おうしゅうがいどうとまちびといいけり トラックや 電車往き交ふこの道は 奥州街道と町人言ひけり(千 住) |
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707 | たいしどう ふりにけるかもかれこだちは がらんのうしろのそらにつらなる 大師堂 古りにけるかも枯木立は 伽藍の後の空につらなる(西新井) |
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708 | こがらしは ふゆがれさくらになりなりて つくばのやまはほのかなりけり 凩は 冬枯桜に鳴りなりて 筑波の山はほのかなりけり(荒川堤) |
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(昭和八年一月十日) |
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江戸川 | ||
709 | たをへだつ つつみのかれてほのかしら かすかにうごくはしおいりがわかも 田をへだつ 堤の枯れて帆の頭 かすかに動くは汐入川かも |
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710 | こまつがわ あたりのそらはこうじょうの ぱいえんくろくそらをけがせる 小松川 あたりの空は工場の 煤煙黒く空をけがせる |
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711 | しらさぎの ふゆたにおりるやとびさりぬ ゆうもやはろかのもりをもやえる 白鷺の 冬田に下るやとび去りぬ 夕靄はろかの森をもやえる |
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荏 原(えばら) | ||
712 | さびしげに ごきのぼさつがましませるも ひとふりむかずふゆびながらう さびしげに 五基の菩薩が坐ませるも 人ふり向かず冬陽流らう |
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713 | ここにいて うみみゆるなりゆうなぎに すなどりおぶねのあまたうけるも ここに居て 海みゆるなり夕凪に 漁り小舟のあまた浮けるも |
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葛 飾 | ||
714 | みずあおく かわますぐなりてっきょうを でんしゃはしりてあとしずかなり 水青く 川真直なり鉄橋を 電車走りてあと静かなり |
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715 | はくさいを つみたるとらっくすぎゆきぬ ばくおんながくかわにのこして 白菜を つみたるトラックすぎゆきぬ 爆音長く川にのこして |
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716 | いとひろき たんぼさみしもいえいえの ひまよりみゆるふゆのつくばね いとひろき 田圃さみしも家家の 間よりみゆる冬の筑波嶺 |
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王 子 | ||
717 | かわぐちの どてしたいちのこさつあり ぜんこうじのもじあざやかならず 川口の 土手下一の古刹あり 善光寺の文字あざやかならず |
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718 | くさもゆる つつみすべりてはるのひは すいもんのとにとどきけぶろう 草萌ゆる 堤すべりて春の陽は 水門の扉にとどきけぶろう |
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719 | かれくさの みぎわのこしてはしげたの かくるるがまでしおふくれいる 枯草の 汀のこして橋桁の かくるるがまで潮ふくれゐる |
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渋 谷 | ||
720 | はぜもみじ まさごのうえにくれないて よよぎのみやのにわしずかなる 櫨紅葉 真砂の上にくれないて 代々木の宮の庭静かなる |
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721 | たかつきの みちはおぐらくこけむせる はちまんのみやまおくにみゆるも 高槻の 路は小暗く苔むせる 八幡の宮ま奥にみゆるも |
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(昭和八年二月十日) |
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荒 川 | ||
722 | あらかわに かかるながはしからからと だいこんしろきくるまゆくなり 荒川に 架かる長橋からからと 大根白き車往くなり |
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723 | そのころの こづかがはらをしのばんと すれどあまりにときのへだたる そのころの 小塚ケ原を偲ばんと すれどあまりに時のへだたる |
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724 | あかつちの なだりやさかのめだちにつ にっぽりかいわいいえむれにけり 赭土の なだりや坂のめだちにつ 日暮里界隈家むれにけり |
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蒲 田 | ||
725 | あなもりの とりいあかきもはろらかな そらにはぎんよくゆうゆうすべるも 穴守の 鳥居赤きもはろらかな 空には銀翼悠ゆうすべるも |
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726 | もりがさきに ゆきしころおいかえりみて いまのわれはもうつろいにける 森ケ崎に ゆきし頃ほいかえりみて 今の吾はもうつろいにける |
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727 | みなれたる ろくごうがわもゆうもやの かかりてはるのけしきとなりぬ 見なれたる 六郷川も夕靄の かかりて春の景色となりぬ |
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728 | たまがわの やぐちあたりをはるゆけば げんげとみずのいろなつかしき 玉川の 矢口あたりを春ゆけば 紫雲英と水の色なつかしき |
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中 野 | ||
729 | もくあみの はかおとなえばまつのはに しぐれのつゆのまだきらめくも 黙阿弥の 墓訪えば松の葉に 時雨の露のまだきらめくも |
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730 | なまめかう まちぬけきればやくしどう むかしのままのふりにしすがた なまめかう 町抜けきれば薬師堂 昔のままの古りにし姿 |
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板 橋 | ||
731 | とおみゆる やまなみよろしもあかばねの てっきょうふたつゆうひにしるき 遠みゆる 山並よろしも赤羽の 鉄橋二つ夕陽にしるき |
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732 | ものここだ みなそこにすけてうすらびの さしてしずけしさんぽうじいけ 藻のここだ 水底にすけてうすら陽の さして静けし三宝寺池 |
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733 | せせらぎの しゃくじんいかわにそいながら はるたずねんかとしまえんてい せせらぎの 石神井川に添ひながら 春訪ねむか豊島園庭 |
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向 島 | ||
734 | すみだがわ くろきながれにありしひの さくらかりせしころのしのばゆ 隅田川 黒き流れに在りし日の 桜狩りせし頃のしのばゆ |
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735 | みめぐりや もくぼじあたりかんじゃくの いえのたまたまあるがなつかし 三圍や 木母寺あたり閑寂の 家のたまたまあるがなつかし |
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736 | わたしぶね ゆらりゆらりとうすがすむ さくらづつみのはるやむかしは わたし舟 ゆらりゆらりとうすがすむ 桜堤の春やむかしは |
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(昭和八年三月十日) |
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冬 の 夜 | ||
737 | ひとたえて まなこさえぎるものもなき まちにかんげつやなみえがける 人絶えて 眼さえぎるものもなき 街に寒月家並えがける |
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(昭和八年一月十五日) |
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雪 の 日 | ||
738 | せつかい〔ゆきくれ〕の ばさりとおちぬおいまつの おおえだしばしうちふるえるも 雪塊の ばさりと落ちぬ老松の 大枝しばし打ふるえるも |
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739 | しきりなく くるいまいつつふるゆきの そらをのきばにみつつひさなり しきりなく 狂い舞いつつふる雪の 空を軒端に見つつ久なり |
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740 | ゆきつもる やつでのひろばおもたげに かさなりあいてにわもひそけし 雪つもる 八つ手の広葉おもたげに 重なりあひて庭面ひそけし |
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741 | ゆきなだれ おおきおとすもよにかけて ゆきはしきりにふりつむるらし 雪なだれ 大き音すも夜にかけて 雪はしきりに降りつむるらし |
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742 | ふるゆきを ついてわがゆくもわかきめの もすそのなまめきふとすれちがう ふる雪を ついてわがゆくも若き女の 裳のなまめきふとすれちがう |
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(昭和八年二月四日) |
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浅 春 | ||
743 | せせらぎに はるのひびきありうらうらと みぎわのつちはまびをすいおり せせらぎに 春のひびきありうらうらと 汀の土は真陽を吸いをり |
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744 | ちらちらと いけにふりきゆはるのゆき あしのかれはにかかるともなく ちらちらと 池にふりきゆ春の雪 蘆の枯葉にかかるともなく |
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745 | ねこやなぎ いけてひさなりあおきめの ほそえにふくがいともめぐまし 猫柳 活けて久なり青き芽の 細枝にふくがいともめぐまし |
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746 | うららかな そらさしかわすかれだに にいめみいでしけさのよろこび うららかな 空さし交す枯枝に 新芽みいでし今朝のよろこび |
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747 | ようりゅうの にいはのみどりひにはえて みぎわのかげにせりつむおみな 楊柳の 新葉の緑陽に映えて 汀のかげに芹摘む女 |
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748 | かれよもぎ のこれるままにみぞがわの つちのなだりにはるにじみいる 枯蓬 残れるままに溝川の 土のなだりに春にじみゐる |
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749 | ややのびし むぎのはたけにひをあみて のうふのひとりそらあおぎおり ややのびし 麦の畑に陽を浴みて 農夫の一人空仰ぎをり |
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(昭和八年二月四日) |
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時局と日本 | ||
750 | ぜんせかいをやきつくすであろう ごうか いまぷすぷすもえあがろうとしている 全世界を焼き尽すであらう 劫火 今プスプス燃え上らうとしてゐる |
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751 | じんむいらいの ひじょうじにぶつかるんだ おれたちは 神武以来の 非常時にブツかるんだ 俺達は |
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752 | しながほえるぞ これから あかいにくをうんとくわされて 支那が吠えるぞ これから 赤い肉をうんと食はされて |
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753 | なんじゅうばいのてきにとびかかろうとする にほんのひそうなめんぼう 何十倍の敵に飛びかからうとする 日本の悲壮な面貌 |
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754 | だいくうぐんが にほんのそらから おびやかすひがこないと たれかいいえよう 大空軍が 日本の空から 脅やかす日が来ないと 誰か言ひ得よう |
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755 | しょうどとかするものの うちだのいっくが はっせんまんのむねにしみついてはなれない 「焦土と化するもの」の 内田の一句が 八千万の胸に沁み着いて離れない |
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756 | じゅうすうねんもまえからこんにちをしっていた われらのたまらない かんき 十数年も前から今日を知つてゐた 吾等のたまらない 歓喜 |
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757 | へいわのために はるまげどんのたたかいをうむのか 平和の為に ハルマゲドンの戦を生むのか |
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758 | これからいろいろのもんだいが にほんを こうふんのぜっちょうにおしあげてしもうだろう これからいろいろの問題が 日本を 昂奮の絶頂に押上げてしもうだろう |
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(昭和八年二月五日) |
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春 の 空 | ||
759 | はれかあめか まよいまよえるはるのそら ひざしをまちしかいなくくれける 晴か雨か 迷いまよえる春の空 日射しを待ちし効なく暮れける |
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760 | はなだいろに はれきわまれるそらのもと だいむさしのにはるみなぎれる 縹色に 晴れきわまれる空の下 大武蔵野に春みなぎれる |
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761 | くさにねて あおげばそらとわれのみの てんちなりけりもののおとなく 草に臥て あふげば空と吾のみの 天地なりけり物の音なく |
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762 | かきのはの さらつのみどりひにはえて とのごとくすむそらにふるえる 柿の葉の 新つの緑陽に映えて 砥の如く澄む空にふるえる |
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763 | いえいして たえがたきかもはるのそら ほどよくかすみてかぜそよろなり 家居して 堪えがたきかも春の空 ほどよく霞みて風そよろなり |
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(昭和八年二月八日) |
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冬 の 街 | ||
764 | だいびるを ふきすべるかぜにむびすくめ とぶがごとくにばすにのりけり 大ビルを 吹きすべる風に首すくめ 飛ぶが如くにバスに乗りけり |
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(昭和八年二月十日) |
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生 む | ||
765 | ちきゅうのじんつうが よりはやく よりおおきくなってゆく 地球の陣痛が より速く より大きくなつてゆく |
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(昭和八年三月一日) |
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子 | ||
766 | こはるびの あかるきにわにおりんわれ こはかけよりてせなにつかまる 小春日の 明るき庭に降りん吾 子はかけよりて背につかまる |
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767 | おのがじし もらるるさいにききとして ゆうげするこらほほえまいみつ おのがじし 盛らるる菜に嬉々として 夕餉する子らほほえまいみつ |
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768 | たまたまの そとでにおどるこどもらは ウインドーのまえにたちてうごかず たまたまの 外出におどる子供らは ウヰンドーの前に佇ちてうごかず |
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(昭和八年三月一日) |
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わ が 性 | ||
769 | こころあわぬ ひとにふるるをことさらに いとうわがさがときおりなげかう 心合はぬ 人にふるるを殊更に いとうわが性時折なげかふ |
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770 | われをいる つめたきひとみをひとのかげに さけたきよわきさがをもつなり 吾を射る つめたき眸を人のかげに 避けたき弱き性をもつなり |
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771 | そうねんの とけあうおもうどちたちと あさはるのよをさざめきふかす 想念の とけ合うおもうどちたちと 浅春の夜をさざめき更かす |
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772 | わがままな さがきためんとさんじゅうねん つとめつとめておもうにまかせず わがままな 性きためんと三十年 つとめつとめておもうにまかせず |
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773 | われをしる ひとのみまことのともとして まじわりにつついまをたらえる 吾を知る 人のみまことの友として 交りにつつ今を足らえる |
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774 | よのひとと へだたりおおきわがさがに ひきこもごものわきもするなり 世の人と へだたり多きわが性に 悲喜交ごもの湧きもするなり |
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(昭和八年三月六日) |
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インテリ | ||
775 | いんてりのあおじろいかおが みぎをむいたり ひだりをむいたり していることよ インテリの蒼白い顔が 右を向いたり 左を向いたり してゐる事よ |
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776 | いったいまるくすのべんしょうほうは どこへいくんだ はくぶつかんか 一体マルクスの弁証法は 何処へ行くんだ 博物館か |
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777 | ばーなーど しょうは ようするにいぎりすのべらんめーさ バーナード ショウは 要するに英国のべランメーさ |
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778 | ○○というばいきん こいつをさっきんするやくざいはないのか ○○といふ黴菌 コイツを殺菌する薬剤はないのか |
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779 | いっさいはやりなおしでござる もうこうやくのたねはつきたから 一切はやり直しで御座る もう膏薬の種は尽きたから |
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780 | あかはじめじめと しんじゅんてきに しろはなつのひのよう しゃくねつてきだ 赤はジメジメと 浸潤的に 白は夏の日のよう 灼熱的だ |
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781 | うちゅういしがとっぺんしかけているぜ いんてりたちよ 宇宙意志が突変しかけてゐるぜ インテリ達よ |
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(昭和八年三月十日) |
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代議政体 | ||
782 | だいぎしはへいたいのように よくとうせいされたもんだあらきたいしょうに 代議士は兵隊のように よく統制されたもんだ荒木大将に |
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783 | ひびやのろぼっとせいさくにん あらきりくぐんたいしょうかっか 日比谷のロボット製作人 荒木陸軍大将閣下 |
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784 | せいとうせいじなんていうものは いくらさがしたってありやしない 政党政治なんていうものは いくら探したつてありやしない |
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(昭和八年三月十日) |
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世 界 | ||
785 | ひっとらーのあのめと むっそりーにのあのめとどっちだ ヒットラーのあの眼と ムッソリーニのあの眼とドッチだ |
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786 | しょうかいせきが じよくとこっかいしきとを はかりにかけて かんがえている 蒋介石が 自欲と国家意識とを 秤にかけて 考えてゐる |
|
(昭和八年三月十日) |
||
桜 の 頃 | ||
787 | ひとこうし このよいそとははるさめの しとしとふりてなまあたたかき 人恋ふし この宵外は春雨の しとしとふりてなまあたたかき |
|
788 | ひっそりと ひとのいぬへやにめにうつる となりのさくらいまさかりなり ひつそりと 人の居ぬ部屋に眼にうつる 隣の桜今さかりなり |
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789 | やえつばきの はなここだにもあめやみし つちのおもてにむざんにちれる 八重椿の 花ここだにも雨やみし 土のおもてに無残にちれる |
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790 | ほがらかな はるのあさぞらいくすじも やなぎのえだのかかりてうごかず ほがらかな 春の朝空いくすじも 柳の枝のかかりてうごかず |
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791 | にわにさかる さくらのはなをふきあまる かぜはわがいるへやにとどまる 庭にさかる 桜の花をふきあまる 風はわがゐる部屋にとどまる |
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792 | はなぐもる そらひをなめてうっとうし さくらはようやくちらんさまなり 花曇る 空日をなめてうつとうし 桜はようやく散らんさまなり |
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793 | まつがえの みどりのいろにすけてみゆ はなのさかりはこよなくよろし 松ケ枝の 緑の色にすけてみゆ 花のさかりはこよなくよろし |
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794 | しっとりと あさつゆふくむさくらばな たまたまちるがなまねくみゆも しっとりと 朝露ふくむ桜花 たまたま散るがなまめく見ゆも |
|
(昭和八年三月十日) |
||
浅春を惜しむ | ||
795 | たんばいに ゆかんもさむしみすぐるも おしとまよいつきょうもくれける 探梅に ゆかんも寒し見すぐるも 惜しとまよいつ今日も暮れける |
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796 | へいぼんな わざくりかえすわれなりき そのひそのひのたちてゆきにつ 平凡な 業くりかえす吾なりき 其日その日の経ちてゆきにつ |
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(昭和八年三月十二日) |
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庭めぐむ | ||
797 | たかむらを くろくえがけるまるまどの あかるきまひるをたのしとみるも 篁を 黒くえがける丸窓の 明るき真昼をたのしと見るも |
|
798 | そうしゅんの ひかりみそらにほのめくか もみじのかれえだこまやかにすける 早春の 光み空にほのめくか 紅葉の枯枝こまやかにすける |
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799 | ささやかな どばしのみどりのしばくさに はるはようやくうごきそむらし ささやかな 土橋の緑の芝草に 春はやうやくうごき初むらし |
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800 | まーがれっとの にわにここだもしろきはな さきむるるひをたのしみにつつ マーガレットの 庭にここだも白き花 咲きむるる日をたのしみにつつ |
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801 | いけおきし ねずみやなぎにめのふけば いけのみぎわにそとさしにける 活けおきし 鼠柳に芽のふけば 池の汀にそと挿しにける |
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802 | やまぶきの しだるるはなえおりおりに ゆるがせすぐるはるのあさかぜ 山吹の しだるる花枝をりをりに ゆるがせすぐる春の朝風 |
|
(昭和八年三月十八日) |
||
世を観る | ||
803 | はえよりもうるさいもの とうきょうしの○○ 蝿よりもうるさいもの 東京市の○○ |
|
804 | ○○がえらいからつづくんじゃない あとがまがみあたらないからなんだ ○○が偉いからつづくんじやない 後釜が見当らないからなんだ |
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805 | ふぁっしょがいんふれになって まるきしずむがでふれになっちゃった ファッショがインフレになつて マルキシズムがデフレになつちやつた |
|
(昭和八年三月十八日) |
||
摘 草 | ||
806 | つみくさに いもやこらつれゆきしひの ころのゆとりをふといまおもう 摘草に 妹や子らつれゆきし日の 頃のゆとりをふと今おもふ |
|
(昭和八年四月十日) |
||
○ | ||
807 | ひとこうる なやみをしりてむねのとを いかしくしめつわれはきにけり 人恋ふる なやみをしりて胸の扉を いかしく締めつ吾は来にけり |
|
(昭和八年四月十日) |
||
雨 の 日 | ||
808 | さみだれは そらにけむるもがらすどを とおしてむねにしみいるごとし 五月雨は 空にけむるも硝子戸を とうして胸にしみいるごとし |
|
809 | びわのはの いとおもたげにゆれもなく しょうしょうとしてきょうもあめふる 枇杷の葉の いとおもたげにゆれもなく 瀟々として今日も雨ふる |
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810 | つりびとに ふたりまであいぬまちはずれの みちにひとなくあめしきりなり 釣人に 二人まで遭いぬ町はづれの 路に人なく雨しきりなり |
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811 | あおあおと かわはながれついかだぶね おおいわひとつをこゆるのはやき 青あおと 河は流れつ筏舟 大岩一つを越ゆるのはやき |
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812 | こだちみな かげえのごとしはしこえて くるひとのありみのかさをきて 木立みな 影画のごとし橋こえて くる人のあり簑笠を着て |
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813 | はざくらの つつみをゆけばあめしずく おりおりかさにあたるおとすも 葉桜の 堤をゆけば雨雫 をりをり傘にあたる音すも |
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814 | さみだれに ねおんのひすじにじまいて まちのやなみはもくすがごとし 五月雨に ネオンの火條にじまいて 街の家並は黙すがごとし |
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815 | まつのはに たまるしずくのはらはらと はりどにあたりぬあめやみたらし 松の葉に たまる雫のはらはらと 玻璃戸にあたりぬ雨やみたらし |
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816 | さみだれは きょうもふりつつきりのはな おとなくちるがなにかさみしき 五月雨は 今日もふりつつ桐の花 音なくちるが何かさみしき |
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(昭和八年四月十日) |
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青 苔 | ||
817 | ひとえだの やなぎをさしてこけつきし つちをそのままそとかむせけり 一枝の 柳をさして苔つきし 土をそのままそとかむせけり |
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818 | たかむらの かげのあたりはことさらに こけのいろはもあおあおとして 篁の かげのあたりは殊更に 苔の色はも青あおとして |
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819 | やまどうろうの こけふかふかとしてあめのひは いけのみずよりなおあおずめる 山灯籠の 苔ふかふかとして雨の日は 池の水よりなほ青ずめる |
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820 | うらにわは ひとのあゆまずめずらしき こけいちめんにはなさえもみゆ 裏庭は 人の歩まず珍らしき 苔一面に花さえもみゆ |
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821 | つくばいの みずごけひざしにあおあおと しずかにみればゆらぎさえあり つくばいの 水苔日ざしに蒼あおと 静かにみればゆらぎさえあり |
|
(昭和八年四月十日) |
||
朝 | ||
822 | ふかぎりを すいつつあさのみちゆけば とあるへいうえきんもくせいさく 深霧を 吸ひつつ朝の路ゆけば とある塀上金木犀咲く |
|
823 | ひえびえと さつきのあさはまださむき わかばのみどりにつゆきらめくも ひえびえと 五月の朝はまだ寒き 若葉の緑に露きらめくも |
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824 | とをくれば ありあけのつきそらにあり このはのゆらぎみえぬしずけさ 戸をくれば 有明の月空にあり 木の葉のゆらぎみえぬ静けさ |
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825 | からからと くるまのおとしぬひっそりと まだあけやらぬそとものけはい からからと 車の音しぬひつそりと まだ明けやらぬ外面のけはい |
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826 | ほしうする そらをみあげつむねはりて すがしきあさけすうもうつろに 星うする 空を見上げつ胸はりて すがしき朝気吸ふも空ろに |
|
(昭和八年四月十日) |
||
世 相 | ||
827 | ひややかに われはききおりまゆあげて ともはせそうをなげきてやまず 冷やかに 吾はききをり眉上げて 友は世相をなげきてやまず |
|
828 | だいじょうに あらずしょうじょうにまたあらぬ きょうちのありやとともはといけり 大乗に あらず小乗にまたあらぬ 境地のありやと友は問いけり |
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829 | むらさめの それのごとくにむねすぎぬ われをあやまるひとのことばも 村雨の それのごとくに胸すぎぬ 吾を過る人の言葉も |
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830 | そのひとに よかれとおもいすることの あだとなるこそいともなげかし その人に 善かれとおもひする事の あだとなるこそいともなげかし |
|
(昭和八年四月十日) |
||
蝶 | ||
831 | ちょうひとつ わがへをすぎぬひらひらと はなにかくらうまでをたちにつ 蝶一つ わが辺をすぎぬひらひらと 花にかくらうまでを立ちにつ |
|
(昭和八年四月十六日) |
||
快 よ き | ||
832 | かえりきて あせのにじまうわがはだぎ さとぬぎすててあおばにむかう 帰りきて 汗のにじまうわが肌着 さとぬぎすてて青葉に向ふ |
|
(昭和八年五月十日) |
||
初 夏 | ||
833 | まるまどの そとはしいがきあおあおと しげらいてかぜわがへやをすぐ 丸窓の 外は椎垣あおあおと 茂らいて風わが部屋をすぐ |
|
834 | かじんらの わらいのどよみひとりいの にかいにききてあかるかりける 家人らの 笑ひのどよみ独り居の 二階にききて明るかりける |
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835 | しょかのひは なごやかにながれわれはいま あおしばのうえにことたわむるる 初夏の陽は なごやかにながれ吾は今 青芝の上に児とたわむるる |
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836 | もののけの おりおりおそうけはいすも よふけのへやにひとりふみよむ 物の怪の をりをりおそうけはいすも 夜ふけの部屋にひとり書読む |
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837 | しみつきし こころのちりもうまいにて ぬぐわれたりしほがらかなあさ しみつきし 心の塵も熟睡にて ぬぐわれたりしほがらかな朝 |
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838 | たまたまに あさおきすればにわがきの やまにれわかばのひかるがまぶしも たまたまに 朝起きすれば庭垣の 樞若葉の光るがまぶしも |
|
(昭和八年五月十日) |
||
浴 後 | ||
839 | ゆあみして はだえもかろくえんばたに あおばにむかいうっとりといる 浴みして 肌もかろく縁端に 青葉にむかいうつとりとゐる |
|
840 | わがからだ ふとりけるとていもいうに はらなどはりつかがみにむかう わが身体 肥りけるとて妹言ふに 腹などはりつ鏡にむかう |
|
841 | ぬれがみに くしをいるればさわやかな にわかぜながきかみのけなぶる 濡れ髪に 櫛を入るればさわやかな 庭風ながき髪の毛なぶる |
|
(昭和八年五月十日) |
||
長 瀞 | ||
842 | ふねはいま あおさきわまるとろにきて うはしきりなくあゆくわえくる 舟は今 青さきわまる瀞に来て 鵜はしきりなく鮎くわえくる |
|
人 の 心 | ||
843 | おもうこと かなうたまゆらひそかなる さみしさのわくこころとうもの おもう事 かなうたまゆらひそかなる さみしさの湧く心とうもの |
|
(昭和八年五月十三日) |
||
春 の 夜 | ||
844 | おぼろよの さくらのしたをそぞろくる しろきおもわはそのひとなりけり おぼろ夜の 桜の下をそぞろくる 白き面わはその人なりけり |
|
(昭和五年五月十六日) |
||
藤 | ||
845 | ひのもとに のみあることをききてより こころしてみるふじのはなはも 日本に のみあることを聞きてより 心してみる藤の花はも |
|
桐 の 花 | ||
846 | さきそろい きりのはなうるわしむらさきの あおばをけしていろなおはゆる 咲きそろい 桐の花美はし紫の 青葉を消して色なほ映ゆる |
|
847 | きりのはな ちるゆうぐれはあきのひの かれはのちるにさみしさかよう 桐の花 ちる夕暮は秋の日の 枯葉のちるにさみしさかよう |
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848 | このゆうべ にわかぜなきにはらはらと はなぞちるなりきりのおおきは 此の夕べ 庭風なきにはらはらと 花ぞちるなり桐の大樹は |
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(昭和八年五月十八日) |
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朝 月 | ||
849 | かきわかば つゆにひかりてすみきらう そらほのかにもあさづきのこる 柿若葉 露にひかりて澄みきらう 空ほのかにも朝月のこる |
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850 | もやはれて やまのすがたのあざやかさ いましあさづききえなんとすも 靄はれて 山の姿のあざやかさ 今し朝月消えなんとすも |
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851 | あさまだき うみもやふかしみあぐれば ますとにかかるみかづきのかげ 朝まだき 海靄ふかし見上ぐれば マストにかかる三ケ月のかげ |
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852 | あかときの やまのぼりゆけばいただきに みえがくれするつきのめをひく あかときの 山登りゆけば巓に みえがくれする月の眼をひく |
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853 | とのごとき こめんにちさくあさづきの うつりてやまにまだきりのこる 砥の如き 湖面に小さく朝月の うつりて山にまだ霧のこる |
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(昭和八年五月二十日) |
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夕 月 | ||
854 | つきとしも おもえぬばかりまちのはてし おれんじいろのおおきえんのぞく 月としも 思えぬばかり街のはてし オレンヂ色の大き円のぞく |
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855 | ゆうもやの たんぼはやみになりにけり つきはひそかにおがわにうける 夕靄の 田圃は暗になりにけり 月はひそかに小川にうける |
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856 | もりのいろ くろずみにけりややはなれ ふつかのつきのかそけきひかり 森の色 黒ずみにけりややはなれ 二日の月のかそけきひかり |
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857 | えんとつの けむりうすらにいつかごろの つきのあたりのそらにまよえる 煙突の 煙うすらに五日ごろの 月のあたりの空にまよえる |
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858 | くもすこし ただようそらのあかるみぬ いずこにかつきいでたるらしも 雲少し ただよう空の明るみぬ いづこにか月出でたるらしも |
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(昭和八年五月二十日) |
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ヒットラー | ||
859 | だんだんちへいせんじょうにういてくる ぐうぞう ひっとらー だんだん地平線上に浮いてくる 偶像 ヒットラー |
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860 | えいやふつがにがいかおしてみてる だだっこ ひっとらー 英や仏がにがい顔して視てる 駄々ツ子 ヒットラー |
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861 | がくしゃなんかへともおもわない ひっとらーのべらんめーぶり 学者なんか屁とも思はない ヒットラーのベランメーぶり |
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862 | とびはなれたかるわざし あどるふ ひっとらー 飛び放れた軽業師 アドルフ ヒットラー |
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(昭和八年五月二十八日) |
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蛙 | ||
863 | とぎれとぎれ かえるなくなりさなえだふく かぜすこしありてゆうづきあわき とぎれとぎれ 蛙鳴くなり早苗田ふく 風少しありて夕月あわき |
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(昭和八年六月十二日) |
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夏 の 月 | ||
864 | わがかげを ふみつつゆけばなつのつき あかるくてらすかわぞいのみち わがかげを ふみつつゆけば夏の月 明るくてらす川添の道 |
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(昭和八年六月十六日) |
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夏 の 女 | ||
865 | ひのまちを あでなゆかたのおみなゆく うしろすがたにふとめをひかる 灯の街を あでな浴衣の女ゆく 後姿にふと目を引かる |
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866 | もりあがる きょくせんみずぎにしっくりと うみべのすなにうちふすおみな もり上る 曲線水着にしつくりと 海辺の砂にうち臥す女 |
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867 | ひ〔しゃ〕のころもの おみなすずしげたそがれの うちみずのみちつつましくゆく 紗の衣の 女涼しげたそがれの 打水の路つつましくゆく |
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868 | ゆうやみに おぼろげながらみちをゆく なつのおみなのみなよしとみゆも 夕暗に おぼろげながら路をゆく 夏の女のみな美しとみゆも |
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869 | えんだいに うちわをかざすいろしろき おみなのおもわゆうやみにうく 縁台に 団扇をかざす色白き 女のおもわ夕闇にうく |
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870 | みぞがわに ものあらいいるおみなあり なつのゆうひにはぎのまあかき 溝川に 物洗いゐる女あり 夏の夕陽に脛のまあかき |
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(昭和八年六月十九日) |
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河原撫子 | ||
871 | ひでりがわ ながれほそみていみじくも さきいでにけりかわらなでしこ ひでり川 流れ細みていみじくも 咲きいでにけり河原撫子 |
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872 | はつはつに ながれにそいていくつかの なでしこのはなかわらにさける はつはつに 流れに沿いていくつかの 撫子の花河原に咲ける |
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873 | ゆうづきの ひかりはあわしなでしこの はなほのめけるつゆくさのなか 夕月の 光は淡し撫子の 花ほのめける露草の中 |
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874 | よなよなを つきのしずくにいきづきて あしたをにおうかかわらなでしこ 夜な夜なを 月の雫にいきづきて 朝を匂ふか河原撫子 |
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875 | かれもせで ひとりかわらにさきつくる なでしこのはなのちさきいのち 枯れもせで ひとり河原に咲きつくる 撫子の花の小さきいのち |
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(昭和八年六月十九日) |
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奥 日 光 | ||
876 | なめらかな とのものごとくこはすみて そらももりはもあざやかなかげ 滑らかな 砥の面のごとく湖はすみて 空も森はも鮮かなかげ |
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877 | なつやまの しげみにすけてきららきらら さざなみひかるみずうみのおも 夏山の 茂みにすけてきららきらら 小波光る湖の面 |
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878 | りゅうすむか みずどすぐろきやまあいの このかぜなりてしらくもはしる 龍すむか 水どすぐろき山間の 湖の風なりて白雲はしる |
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879 | もーたーの ひびきこだましこんぺきの こすべりゆけばおもうつきりさめ モーターの 響こだまし紺碧の 湖すべりゆけば面うつ霧雨 |
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880 | にじのごとき ごしきぬまとうこをしたに みつあえぎゆくもしらねおくやま 虹の如き 五色沼とう湖を下に 見つあえぎゆくも白根奥山 |
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881 | やまのみち つくればしらじらふくれいる ちゅうぜんじこのこのまにすける 山の路 つくれば白じらふくれゐる 中禅寺湖の木の間にすける |
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(昭和八年六月十九日) |
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滝 | ||
882 | とうとうと はくえんたてつふりおつる たきのしぶきにわがおもぬるる とうとうと 白煙たてつふりおつる 滝のしぶきにわが面ぬるる |
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883 | おおぞらに もりあがりもりあがりなだれおつる おおたきみあげてただうつろなり 大空に もり上りもり上りなだれおつる 大滝見上げてただうつろなり |
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884 | いわひだを しろくあやなしたきみずの なだるがよろしもみじにすけて 岩ひだを 白く綾なし滝水の なだるがよろし紅葉にすけて |
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885 | あわゆきの ごとくにおつるおおたきを かすめつむらむらいわつばめとべる 泡雪の ごとくにおつる大滝を かすめつむらむら岩燕とべる |
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0886 | たきつせの きおいくじけるひとところ ぬるるいわごけうすびさせるも 滝津瀬の きほいくじけるひとところ 濡るる岩苔にうす陽させるも |
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(昭和八年六月十九日) |
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吾 | ||
887 | よのつねの ひとのさだめとあまりにも へだたりのあるわがみなりけり 世の常の 人の運命とあまりにも へだたりのある吾身なりけり |
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(昭和八年七月十日) |
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夏 来 る | ||
888 | やまにうみに さそうぽすたーえきないに ここだにみゆるしょかとなりけり 山に海に 誘ふポスター駅内に ここだにみゆる初夏となりけり |
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(昭和八年七月二十日) |
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朝 顔 | ||
889 | さきたての あさがおのまえにわれありて きりのしめりにふとほほなづる 咲きたての 朝顔の前に吾ありて 霧のしめりにふと頬なづる |
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890 | あさがおの はなのうえはうにいづるを ゆびもてつめばあおきかのする 朝顔の 花の上はう新蔓を 指もてつめば青き香のする |
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891 | ひのさせば はなのしぼむがはかなかり おみなのさだめににかようあさがお 陽のさせば 花のしぼむがはかなかり 女の運命に似通ふ朝顔 |
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892 | あさがおに むかうわれのみいまありて このあめつちのひそかなるかも 朝顔に むかう吾のみ今ありて この天地のひそかなるかも |
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893 | だいりんの あさがおつみてへやぬちに かざればつまはものいいかくる 大輪の 朝顔つみて部屋ぬちに かざれば妻はものいいかくる |
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894 | さきつくる あさがおめぐしさりながら なつははなにもたけにけるかな 咲きつくる 朝顔めぐしさりながら 夏は花にもたけにけるかな |
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(昭和八年七月二十日) |
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山寺の夏 | ||
895 | ろうそうの しらひげふるえつゆうぐれの にわにむかいてただもくしおり 老僧の 白髯ふるえつ夕暮の 庭にむかいてただ黙しをり |
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896 | このてらの ふるきかいろうふきぬくる かぜのひえありせみなきしきる この寺の 古き廻廊ふきぬくる 風の冷あり蝉鳴きしきる |
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897 | なもしらぬ つるものおおきにわいしに はびこりてよろしこのてらのにわ 名も知らぬ 蔓もの大き庭石に はびこりてよろしこの寺の庭 |
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898 | しめやかに ろうそうとわがかたりおり へやはおぐらくひぐらしのなく しめやかに 老僧とわが語りをり 部屋はおぐらく蜩の鳴く |
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899 | やまでらの よるはしんかんとふくろうの なくねわびしくふけりゆくなり 山寺の 夜はしんかんと梟の 啼く音わびしくふけりゆくなり |
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(昭和八年七月二十日) |
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白 雨 | ||
900 | しらさめの ふるけはいらしこのはみな ざわめきたちてかぜまどゆする 白雨の ふるけはいらし木の葉みな ざわめきたちて風窓ゆする |
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901 | なつくさの なえたるままにきょうもまた くもひろごらずくれゆきにける 夏草の 萎えたるままに今日もまた 雲ひろごらず暮れゆきにける |
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902 | しらさめに にわあらわれてすがすがし とびいしのこけひにあおくはゆ 白雨に 庭洗はれてすがすがし 飛石の苔陽に青く映ゆ |
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903 | ふりいずる このしらさめにいまのきゃく いずこののきにたたずむならめ ふりいづる この白雨に今の客 いづこの軒にたたづむならめ |
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904 | ゆうづきの こよいのそらのさやけさよ きょうしらさめのふりしをうかめぬ 夕月の 今宵の空のさやけさよ 今日白雨のふりしを浮めぬ |
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905 | あめのひの にわみつあればあじさいの はなのしずくはむらさきにおつ 雨の日の 庭見つあれば紫陽花の 花の雫はむらさきにおつ |
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(昭和八年七月二十日) |
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日 盛 り | ||
906 | ほそうろは ひにもえたぎりすずかけの かげのみしるくひとあしたえける 舗装路は 陽にもえたぎり篠懸の 影のみしるく人足絶えける |
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907 | きんぎょうり やすらうこかげにまちをゆく ひとはおおかたここにあつまる 金魚売 やすらう木蔭に街をゆく 人は大方ここに集る |
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908 | たいようの かがやきひさしなつくさの いくまんつぼはなえんとすなり 太陽の かがやきひさし夏草の 幾万坪はなえんとすなり |
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909 | ひびかいて とらっくゆきぬひざかりの まちにかげなくやなぎもゆれず ひびかいて トラックゆきぬ日盛りの 街にかげなく柳もゆれず |
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910 | かわきたる にわのももくさちからなく ひまわりひとりおおしくさける かわきたる 庭のもも草力なく 向日葵ひとり雄々しく咲ける |
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(昭和八年七月二十日) |
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○ | ||
911 | なんぱはみはらやまへ こうははしんぺいたいへしににゆく 軟派は三原山へ 硬派は神兵隊へ死ににゆく |
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912 | じょがくせいがだらくしたんじゃない おやのまねをしたまでさ 女学生が堕落したんじやない 親の真似をしたまでさ |
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913 | げんだいきょういくとは きんせんとこうかんに かつじをあたまへちゅうにゅうすることだ 現代教育とは 金銭と交換に 活字を頭へ注入する事だ |
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914 | いがくとは やくざいやぶつりでは びょうきはなおらないということを おしゆるてんぎょうだ 医学とは 薬剤や物理では 病気は治らないといふ事を 教ゆる天業だ |
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(昭和八年七月二十日) |
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虹 | ||
915 | きぎのはを ならしてゆきししらさめの はやうるわしきにじとなりける 木々の葉を 鳴らしてゆきし白雨の はや美しき虹となりけり |
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夏の多摩川 | ||
916 | しらさめの どよもしけるもみずきよき たまのかわぞこひにすけるなり 白雨の どよもしけるも水清き 玉の川底陽にすけるなり |
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○ | ||
917 | こうみょうに そむくひとらのあやうかり このうつしよのくるるときはも 光明に そむく人らのあやうかり 此の現世の暮るる時はも |
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(昭和八年八月十日) |
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小 春 日 | ||
918 | なんてんの へいよりたかしあかきみの かがやくところあおぞらにして 南天の 塀より高し赤き実の かがやくところ青空にして |
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919 | まながいの やまふところはひにあかく だんだんばたけはすでにはるなり まながいの 山ふところは日に明く だんだん畑はすでに春なり |
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920 | ちゃばたけに のこるはなありふとゆびを ふるればほろほろちりにけるかも 茶畑に のこる花ありふと指を ふるればほろほろ散りにけるかも |
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921 | こはるびの そのうららさよかれえだの えだよりえだにことりせわしも 小春日の そのうららさよ枯枝の 枝より枝に小禽せわしも |
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922 | あじさいの かれえだくぐりつほおじろの ちにかげおとしうつりゆくかも あぢさゐの 枯枝くぐりつ頬白の 地にかげおとしうつりゆくかも |
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(昭和八年八月二十日) |
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秋うごく | ||
923 | しいのはを わたるゆうかぜまどにいり ゆあみのあとのはだのすがしさ 椎の葉を わたる夕風窓に入り 浴みの後の肌のすがしさ |
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924 | ふじまめの かぜにふるえつゆうぞらの くものうごきにはやあきのみゆ 藤豆の 風にふるえつ夕空の 雲の動きにはや秋の見ゆ |
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925 | いらかには なつびてらえどのきのかげ たちきのかげにあきうごくらし 甍には 夏陽照えど軒のかげ 立木のかげに秋うごくらし |
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926 | いまだしも あつさのこれどそのそこに あきのけはいのうすらながるる いまだしも 暑さのこれどその底に 秋のけはいのうすら流るる |
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927 | おかのうえに ゆうひせにうけたてるわが かげのなかなるすすきひとむら 丘の上に 夕陽背にうけ立てるわが 影の中なる芒ひとむら |
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928 | みずうてば はぎのしげみのさみだれぬ こよいのにわにつきいでよかし 水打てば 萩の茂みのさみだれぬ 今〔此〕宵の庭に月いでよかし |
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929 | つきのよき あきまたれぬるわがにわの まつのこずえのそらにしげりて 月のよき 秋待たれぬるわが庭の 松の梢の空に茂りて |
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(昭和八年八月二十一日) |
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蜩 | ||
930 | あかときを けたたましくもひぐらしの なけばいずらかとをくるおとする あかときを けたたましくも蜩の 鳴けばいづらか戸をくる音する |
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931 | ひぐらしの やまのゆうべをひたなけり ふもとあたりにほかげみえそむ 蜩の 山の夕べをひた鳴けり 麓あたりに灯光みえそむ |
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932 | ひぐらしの こえとおのきてやますその みちたんたんとむらにつづかう 蜩の 声遠のきて山裾の 路坦々と村につづかふ |
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933 | うらやまは ひぐらしのこえかどのたは かえるなくなりふるさとのいえ 裏山は 蜩の声角の田は 蛙鳴くなりふるさとの家 |
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934 | くぬぎうの こだちおぐらくひぐらしの こえはしじまをこだましあうも 櫟生の 木立おぐらく蜩の 声はしじまをこだまし合ふも |
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(昭和八年八月二十一日) |
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萩 | ||
935 | ゆうづきの うすらあかりにみずうてば にわべのこはぎぬれひかりけり 夕月の うすら明りに水うてば 庭べの小萩濡れ光りけり |
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936 | いしがきは なかばかくろいあきはぎの さきしだれつぐさんもんのそと 石垣は 半ばかくろひ秋萩の 咲きしだれつぐ山門の外 |
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937 | はぎおおき あまでらのありまさかりの いまをおりおりわがかいまみつ 萩多き 尼寺のありまさかりの 今ををりをりわが垣間みつ |
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938 | はじめての あきなりしんきょのさにわべに みそはぎさくがいともうれしき はじめての 秋なり新居の小庭べに みそ萩咲くがいともうれしき |
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939 | はぎむらの うつるみずのもにちりうける はなのいささかみえにけるかも 萩むらの うつる水の面に散りうける 花のいささか見えにけるかも |
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940 | あさつゆに そでぬらしつつはぎのにわ ひさにさまよいさまよいにける 朝露に 袖ぬらしつつ萩の庭 久にさまよいさまよいにける |
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(昭和八年八月二十一日) |
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吾 と 人 | ||
941 | よをなげく ひとにあいけりわがかたる こえいつしかにはりあがりつも 世をなげく 人にあいけりわが語る 声いつしかに張り上りつも |
|
942 | そのひとの なやみしりつもものいわず すぐるわれはもときのみたねば その人の なやみ知りつもものいはず すぐる吾はも時の満たねば |
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943 | ほがらかな ゆめをかかえてたつにわべ むしなくこえもしたしまれぬる ほがらかな 夢をかかえて立つ庭べ 虫啼く声も親しまれぬる |
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944 | ちからなき われにはあれどまごころを くむひともありこのよたのしも 力なき 吾にはあれど真心を 汲む人もありこの世たのしも |
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(昭和八年八月二十一日) |
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五・一五事件 | ||
945 | とっけんかいきゅうによいきょうかしょができた ご・いちごじけんのさいばんちょうしょ 特権階級に良い教科書が出来た 五・一五事件の裁判調書 |
|
946 | ほうとじょうとりとぎとのよつどもえ ご・いちごじけん 法と情と理と義との四つ巴 五・一五事件 |
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(昭和八年八月二十一日) |
||
蝉 | ||
947 | こはせみを とりそこねたらしほちゅうあみ ふりつつこのまをひたぬいゆくも 子は蝉を とりそこねたらし捕虫網 ふりつつ木の間をひたぬいゆくも |
|
(昭和八年九月十二日) |
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○ | ||
948 | おおいなる のぞみにいくるわれにして なおいささかなことをしあんずる 大いなる のぞみに生くる吾にして なほいささかな事をし案ずる |
|
(昭和八年九月十二日) |
||
秋 風 | ||
949 | どらいぶの じどうしゃのまどふきいるる あきのよかぜのみにしむるなり ドライブの 自動車の窓吹きいるる 秋の夜風の身にしむるなり |
|
(昭和八年九月十六日) |
||
秋 | ||
950 | たかむらは かさともいわずさにわべの あきのまひるのものしずかなる 篁は かさともいはず小庭べの 秋の真昼のものしづかなる |
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951 | あきのひは しょうじをもれてころもぬえる つまのよこがおあかるくてらす 秋の陽は 障子をもれて衣縫える 妻の横顔明るくてらす |
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952 | あきのひは ななめになりぬとうのかげ いとおおらかにつちにながるる 秋の陽は 斜になりぬ塔のかげ いとおほらかに土に流るる |
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953 | きばみける いちょうひともとえだはりて かがよいたてりふるどうのまえ 黄ばみける 公孫樹一本枝はりて かがよい立てり古堂の前 |
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954 | こどもらは しばふのうえにむしろしきて あきびをあみつよねんもなげなる 子供等は 芝生の上に蓙しきて 秋陽をあみつ余念もなげなる |
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955 |
えんばたに ゆうべしたしみわれあれば かぼそくなけるこおろぎのこえ 縁端に 夕べしたしみ吾あれば かぼそく啼ける蟋蟀の声 |
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956 | たまたまに ふじまめゆするかぜありて わがやのあきはまどべにふかし たまたまに 藤豆ゆする風ありて わが家の秋は窓べにふかし |
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957 | しずかなる やしきまちはもへいこゆる もろぎのはいろにあきたけにける 静かなる 屋敷町はも塀こゆる 諸木の葉色に秋たけにける |
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(昭和八年九月十八日) |
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赤 蜻 蛉 | ||
958 | ゆうされば あかとんぼのむれいゆく そらをみるなりのきばあおぎつ 夕されば 赤蜻蛉のむれいゆく 空を見るなり軒端あほぎつ |
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959 | ここだにも あかとんぼのとびかえる しおんのはなのさきみだるにわ ここだにも 紅蜻蛉の飛びかえる 紫苑の花の咲きみだる庭 |
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960 | ほしいねの かけなめるうえとんぼの とまるるがありはなるるがあり 干稲の かけなめる上蜻蛉の とまるるがありはなるるがあり |
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961 | おかのうえ みあぐるそらをとんぼの ゆうふくかぜにもつれゆくなり 丘の上 みあぐる空を蜻蛉の 夕ふく風にもつれゆくなり |
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962 | あきのみず しずかにすめるささがわに かげをひきてはとんぼのゆく 秋の水 静かにすめる小川に 影をひきては蜻蛉のゆく |
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(昭和八年九月十八日) |
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秋 空 | ||
963 | さんまやく けむりはのきにただよいて すみきるそらにすわれゆくかも 秋太刀魚焼く けむりは軒にただよいて すみきる空にすわれゆくかも |
|
964 | かりたての しいのはにすくあおぞらの すがすがしもよあきばれのごご 刈りたての 椎の葉にすく青空の すがすがしもよ秋晴の午後 |
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965 | あきぞらの かがやかしげよわたりどり はねいそがしげにみつよつゆくも 秋空の かがやかしげよ渡り鳥 羽いそがしげに三つ四つゆくも |
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966 | あきのくも うごくけもなにいけのもに うつりてかすめるとりひとつあり 秋の雲 うごくけもなに池の面に うつりてかすめる鳥一つあり |
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967 | くりやべに やおやのたかきこえすなり われはあきぞらねながらにみつ 厨べに 八百屋の高き声すなり 吾は秋空臥ながらに見つ |
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968 | いらだたる こころおさえてそうがいの あきすむそらをわがしばしみる いらだたる 心おさえて窓外の 秋すむ空をわがしばしみる |
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969 | そらはよく すめるあさなりなにがなし わがむねぬちのさやかなるかも 空はよく すめる朝なり何がなし わがむねぬちのさやかなるかも |
|
(昭和八年九月十八日) |
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武蔵野をゆく | ||
970 | とりたてて いうほどもなきけいながら むさしのべにもあきはみゆめり とりたてて 言ふほどもなき景ながら 武蔵野辺にも秋は見ゆめり |
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971 | すすきむら わけのぼるつきのむさしのを おもえばなにかしたしさおぼゆ 芒むら わけのぼる月のむさし野を おもえば何かしたしさおぼゆ |
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972 | おかのうえに たてばあきはもさなかなり もりのとぎれにふじがねみゆる 丘の上に 佇てば秋はも最中なり 森のとぎれに富士ケ峯みゆる |
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973 | たまたまに たんぼよこぎるでんしゃあり あきすむそらにたかくひびかい たまたまに 田圃よこぎる電車あり 秋すむ空に高くひびかい |
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974 | あかまつの かげのいくつもながらえる おかをかこみてすすきむらおう 赤松の 影のいくつも流らえる 丘をかこみて芒むら生ふ |
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(昭和八年九月十八日) |
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五・一五事件から | ||
975 | とっけんかいきゅうのこえいがさびしい ひじょうじのあき 特権階級の孤影がさびしい 非常時の秋 |
|
(昭和八年九月十八日) |
||
今 | ||
976 | おどるひっとらー なぐるひっとらー けっとばすひっとらー 躍るヒットラー 殴るヒットラー 蹴つ飛ばすヒットラー |
|
(昭和八年九月十八日) |
||
コスモス | ||
977 | こすもすの はなのみだれにあきのあめ そそぎてにわのひるしずかなる コスモスの 花のみだれに秋の雨 そそぎて庭の昼静かなる |
|
978 | さきさかる こすもすのはなにわわたる そよろのかぜにふるえのやまず 咲きさかる コスモスの花庭わたる そよろの風にふるえのやまず |
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979 | あきのかぜ みにしみわたるこのあした こすもすのはないろあせにける 秋の風 身にしみわたるこの朝 コスモスの花色あせにける |
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980 | こすもすの ひにてるあたりとんぼの むらがりみえてにわのあかるき コスモスの 陽に照るあたり蜻蛉の むらがり見えて庭の明るき |
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981 | かんのんの がぞうのまえにこすもすを いけてこととるひまをたらえり 観音の 画像の前にコスモスを 生けて事とるひまを足えり |
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982 | さきみつる こすもすのはなまどにすけ いくたびとなくわがめいざなう 咲きみつる コスモスの花窓にすけ いく度となくわが眼誘ふ |
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(昭和八年十月十日) |
||
冬 近 し | ||
983 | あさまだき とこはなるればまどあかり うすらつめたくきょうもあめらし 朝まだき 床はなるれば窓明り うすら冷く今日も雨らし |
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984 | こころせば とぎれとぎれにむしなける にわしろじろとつきのてらせる 心せば とぎれとぎれに虫鳴ける 庭白じろと月のてらせる |
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985 | でんえんを ふくあきあぜのつめたかり のがわにうつるみかづきのかげ 田園を ふく秋風の冷たかり 野川にうつる三ケ月の光 |
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986 | みじかひに はやおぐらかりくりやべに ゆうげのしたくかもののおとする みぢか日に はや小暗かり厨べに 夕餉の仕度か物の音する |
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987 | かりおえし まつのこずえのあかるさよ みきあかあかとゆうひにはゆる 刈り終えし 松の梢の明るさよ 幹あかあかと夕陽に映ゆる |
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988 | あかまつの おうおかのえのさむざむし ふゆちかまれるゆうつひのいろ 赤松の 生ふ丘のへのさむざむし 冬近まれる夕つ陽の色 |
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989 | いささかの わくらばかぜにふるえつも となりのさくらそらにえだはり いささかの わくら葉風にふるえつも 隣の桜空に枝はり |
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(昭和八年十月十日) |
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秋 風 | ||
990 | あきかぜに あふられながらもろこしの はたけのまうえをとんぼながるる 秋風に あふられながらもろこしの 畑のま上を蜻蛉ながるる |
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虫 の 声 | ||
991 | むしのねの しらべはかなしわすれいる はかなきこいもおもほいぞする 虫の音の しらべはかなし忘れゐる はかなき恋もおもほいぞする |
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晩 秋 | ||
992 | たかおさん みねのもみじばもえのこり むさしへいやのあきたけにける 高尾山 峯のもみぢ葉もえのこり 武蔵平野の秋たけにける |
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(昭和八年十月十六日) |
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武蔵野探秋 | ||
993 | たまさかに いでてしぜんにふるるとき むねほがらにきもあかるかり たまさかに いでて自然にふるる時 胸ほがらかに気も明かり |
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994 | とりたつる ほどのけいなきむさしのも たまがわあたりのあきはこのもし とりたつる ほどの景なき武蔵野も 玉川あたりの秋はこのもし |
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995 | あきのいろ ぞうきばやしをそめつつも もみじのいろはいまだしなりけり 秋の色 雑木林を染めつつも 紅葉の色は未だしなりけり |
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996 | ひだりやの さけるいえありみぞかわに はなあでやかにかげおとせるも 緋ダリヤの 咲ける家あり溝川に 花あでやかにかげおとせるも |
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997 | ゆうもやは うれたのうえにもやいつつ でんかしらかべおぐらくなりぬ 夕靄は 熟れ田の上にもやいつつ 田家の白壁おぐらくなりぬ |
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998 | すすきほを みちみちおりててにあまる ほどともなればえきのまぢかき 芒穂を 途みち折りて手にあまる ほどともなれば駅のまぢかき |
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999 | ゆうもやの そらにまたたくむらのひを はろかにみつつでんしゃをまつも 夕靄の 底にまたたく村の灯を はろかにみつつ電車を待つも |
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(以下三首百草園にて) | ||
1000 | はすいけを かこみてなだるつちにおう くさにもあきはしるかりにける 蓮池を かこみてなだる土に生ふ 草にも秋はしるかりにける |
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1001 | すがれたる はすいけにかかるはしのうえに たてばゆうひのつめたくてらす すがれたる 蓮池にかかる橋の上に たてば夕陽の冷たくてらす |
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1002 | かきややに うれてあきそらよくすめる わがかけじゃやにうたくちずさむ 柿ややに 熟れて秋空よく澄める わが掛茶屋に歌口ずさむ |
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(昭和八年十月十八日) |
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折にふれて | ||
1003 | よのおわり ちかめるらしもいまわしき ことのみふえつことしもくれける 世の終り 近めるらしもいまはしき 事のみふえつ今年も暮れける |
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1004 | ものをいう ことのかなわぬわれにして せんすべもなくただありにける ものを言ふ 事のかなわぬ吾にして せんすべもなくただありにける |
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1005 | さばかれて はかなくおつるひとみつつ いわうようなきさびしさにおり 審判かれて はかなく落つる人見つつ いはうようなき淋しさにをり |
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1006 | わがことば みみかたむくるひとびとの いずるがまでをもくしゆかなん わが言葉 耳かたむくる人々の いづるがまでを黙しゆかなむ |
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1007 | もくもくと よをうちながめやがてくる ときのそなえをしずかにせなばや 黙もくと 世をうちながめやがてくる 時の備えを静かにせなばや |
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(昭和八年十月十九日) |
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非 常 時 | ||
1008 | せいとうは せいとうをにんしきすればいいんだ そしてじだいを 政党は 政党を認識すればいいんだ そして時代を |
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1009 | にほんひじょうじのせいさんしゃとしてのとっけんかいきゅう 日本非常時の生産者としての特権階級 |
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1010 | げんこつをふところにかくしてへいわのためのかいぎをする 拳骨を懐にかくして平和の為の会議をする |
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(昭和八年十月二十日) |
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待 つ | ||
1011 | てんのとき きたるをまちつおおもりの いおりにおきふすわがみなりける 天の時 来るを待ちつ大森の 庵におき伏す我身なりける |
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松 茸 | ||
1012 | まつたけの かおりくりやをながれきつ われがみかくのいよよつのるも 松茸の 香り厨をながれ来つ われが味覚のいよよつのるも |
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(昭和八年十一月十六日) |
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冬 枯 | ||
1013 | ふゆがれの ぞうきばやしをのぞくつき わがいゆくままどこまでもそう 冬枯の 雑木林をのぞく月 わがいゆくままどこまでも添ふ |
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1014 | わがささや うらはたんぼになりており のわきのふけばとしょうじのなる わが小家 裏は田圃になりてをり 野分のふけば戸障子の鳴る |
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1015 | ふきつのる かぜにしろじろくまざさの はのひらめくもうらやまなだり ふきつのる 風に白じろ熊笹の 葉のひらめくも裏山なだり |
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1016 | ふきさらす ふゆのつつみのかれやなぎ ただひねもすをゆれているなり ふきさらす 冬の堤の枯柳 ただひねもすをゆれてゐるなり |
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1017 | かれのはら ひをなめてふくこがらしに むごたらしきまでにじられにける 枯野原 日をなめてふく凩に むごたらしきまでにぢられにける |
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1018 | かれやなぎ ゆれしずもればしとしとと ふゆのこさめのふりいでにける 枯柳 ゆれしづもればしとしとと 冬の小雨のふりいでにける |
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(昭和八年十一月十八日) |
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冬 静 か | ||
1019 | せいじゃくは ここにきわむかそういんの まひるまのにわうごくものなし 静寂は ここにきわむか僧院の まひるまの庭うごくものなし |
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1020 | はろばろし ふゆのたんぼをみわたせば そらにちいさくからすむれゆく はろばろし 冬の田圃を見渡せば 空に小さく鴉むれゆく |
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1021 | なげいれの きくさきすぎてはなびらの ひそかにちれるはつふゆのとこ 投入の 菊咲きすぎて花びらの ひそかにちれる初冬の床 |
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1022 | ゆうまけて ふゆひのとどくにわすみに いとひそけくもびわのはなさく 夕まけて 冬陽のとどく庭隅に いとひそけくも枇杷の花咲く |
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1023 | あぜにたてば ふゆたはさみしはくげつの ひかりほのかにみずにうつれる 畔に立てば 冬田はさみし白月の 光ほのかに水にうつれる |
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(昭和八年十一月十八日) |
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○ | ||
1024 | いいわけにけんめいなせいとう はさんまえのさいむしゃのよう 言訳に懸命な政党 破産前の債務者のよう |
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1025 | あかをふやすのはしんぶんなんだ えいゆうてきにかくから 赤を殖やすのは新聞なんだ 英雄的に書くから |
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1026 | こうびきのいぬと ゆうかんまだむ どれだけちがう 交尾期の犬と 有閑マダム どれだけちがふ |
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(昭和八年十一月二十四日) |
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白 鷺 | ||
1027 | びるでぃんぐ くろぐろとたてりふゆのつき いましまうえにするどくひかる ビルディング 黒ぐろとたてり冬の月 今し真上にするどく光る |
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1028 | ひらひらと さわにおりけりしらさぎの つきのひかりをはねにたたえつ ひらひらと 沢に下りけり白鷺の 月の光を羽にたたえつ |
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小 雀 | ||
1029 | ガラスどに いきをころしつみいるなり わがまがないのまつがえのすずめ 硝子戸に 息をころしつ見いるなり わがまながいの松ケ枝の雀 |
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(昭和八年十二月二十五日) |
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日 本 | ||
1030 | いわく こんぽんてきかいぞう こんぽんてきなになにで じつは こんぽんてきむさく 曰く 根本的改造 根本的何々で 実は 根本的無策 |
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1031 | しゅぎせいさくはどうどうこんぽんてきで やることは おざなり 主義政策は堂々根本的で やる事は 御座なり |
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1032 | こえいしょうぜんたり よんひゃくゆうよのせいみん 孤影悄然たり 四百有余の政民 |
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1033 | せいとうざいばつのかいしょう いちにちはやいだけ それだけたすかるんだ 政党財閥の解消 一日速いだけ それだけ助かるんだ |
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1034 | とっけんかいきゅうをゆすぶっている めにみえぬ じしん 特権階級をゆすぶつてゐる 眼にみえぬ 地震 |
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(昭和八年十二月二十九日) |
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初 春 | ||
1035 | つつがなく またしょうがつをむかえてし いとどぼんなるよろこびにいる 恙なく また正月をむかえてし いとど凡なるよろこびにゐる |
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1036 | あたらしき ころもにきぶくれこどもらは ひにあたるえんにはしゃぎいるなり 新しき 衣に着ぶくれ子供らは 日あたる縁にはしやぎゐるなり |
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1037 | はつはるの うすらねむたきひるすぎを とおくきこゆるおいばねのおと 初春の うすらねむたき午すぎを 遠く聞ゆる追羽子の音 |
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(昭和九年一月五日) |
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わ が 家 | ||
1038 | かいのきゃく かえりしあとのさびしさを たたみみつめてしばしありける 会の客 かえりし後のさびしさを 畳見つめてしばしありける |
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1039 | まつのこずえも そらもまなこにしみつきぬ さんねんたちしにかいのわがへや 松の梢も 空も眼にしみつきぬ 三年たちし二階のわが部屋 |
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1040 | にかいより おりるたまゆらひるなれや いおやくにおいのふとながれくる 二階より 降りるたまゆら午なれや 魚焼くにほいのふと流れくる |
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1041 | このなくに こころとられてうたのそう まとまりかぬるこのもどかしさ 児の泣くに 心とられて歌の想 まとまりかぬるこのもどかしさ |
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1042 | たのしもよ きのあうひととかたりあかし さよもいつしかくだかけのこえ たのしもよ 気の合ふ人と語り明し 小夜もいつしかくだかけの声 |
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(昭和九年一月五日) |
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冬 晴 | ||
1043 | はりかえて あかるきしょうじにひとえだの まつひっそりとうつりているも はりかえて 明るき障子に一枝の 松ひつそりと映りてゐるも |
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1044 | ふゆのそら すみきわまりてむさしのを つくばおろしのひすがらにふく 冬の空 すみきわまりて武蔵野を 筑波颪の日すがらにふく |
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1045 | みあぐれば はやしのかれえしょうきんの あちこちわたりゆくがめぐまし 見上ぐれば 林の枯枝小禽の あちこちわたりゆくが愛まし |
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1046 | しもふかき あしたなりけりかんすずめ うらさやがしくさにわとびちる 霜ふかき 朝なりけり寒雀 うらさやがしく小庭とびちる |
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1047 | おいまつの みきしもどけてりゅうのごと ぬれしきはだにあさひもえたつ 老松の 幹霜どけて龍のごと 濡れし木肌に朝日もえたつ |
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1048 | やまはだの あらわにさむしかれのこる くさにふゆびのあたるともなく 山肌の あらわにさむし枯のこる 草に冬陽のあたるともなく |
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(昭和九年一月五日) |
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追 羽 子 | ||
1049 | ひじょうじは ふかまりにつつはるされど おいばねなどつくこころだになし 非常時は ふかまりにつつ春されど 追羽子などつく心だになし |
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(昭和九年一月十六日) |
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水 仙 | ||
1050 | こうりんの えかもふりつむしらゆきと いろてりはゆるすいせんのはな 光琳の 絵かもふりつむ白雪と 色てりはゆる水仙の花 |
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(昭和九年一月二十日) |
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年の始め | ||
1051 | このとしの なにかあかるくおもほいて しんしゅんのいまいそいそすごす この年の 何か明るくおもほひて 新春の今いそいそ日過す |
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(昭和九年一月二十九日) |
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春 | ||
1052 | あさざめの ふすまのぬくきふれごこち したしまれぬるはるとなりけり 朝ざめの 衾のぬくきふれ心地 したしまれぬる春となりけり |
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1053 | ふゆぞらの すみよわまりてうすらにも かすみたちしがいまぞめにいる 冬空の 澄みよはまりてうすらにも 霞立ちしが今ぞ眼に入る |
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1054 | もりばなの すつるがなかよりひとくきを つまとさせしやびんのすいせん 盛花の 捨つるが中より一茎を 妻とさせしや瓶の水仙 |
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1055 | ひとくれの ゆきまだみえてうらさみし ふゆはてんひのにわのかたすみ ひとくれの 雪まだ見えてうらさみし 冬果てん日の庭のかたすみ |
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1056 | あおみける すずかけなみきすがしみつ ほこりのたえしうごのまちゆく 青みける 篠懸並木すがしみつ 埃のたえし雨後の街ゆく |
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1057 | かすめしは ひばりなりけりむぎのおか かえりみすればはやそらにきゆ かすめしは 雲雀なりけり麦の丘 かえりみすればはや空に消ゆ |
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1058 | みんなみの こまどのそらにふくらめる うめのつぼみをみつあさげくう みんなみの 小窓の空にふくらめる 梅の蕾を見つ朝餉食ふ |
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1059 | かわほそく ながれけどおしさりながら さくらのつくるまでをゆかなん 川細く 流れけ遠しさりながら 桜のつくるまでをゆかなん |
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1060 | ひとのたけ なつはこえんかいまはただ ふなべりまでのわかくさのむら 人のたけ 夏は越えんか今はただ 舟べりまでの若草のむら |
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1061 | くくだちの ふきのあおさをしたしみつ あめしずやかなにわにたたずむ くくだちの 蕗の青さをしたしみつ 雨しづやかな庭にたたずむ |
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1062 | つゆおもく やえやまぶきのたわみおり かぜまだみえぬあさのひととき 露おもく 八重山吹のたわみをり 風まだみえぬ朝のひととき |
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1063 | くれたけの ささはのあめにぬるるいろ ときわぎよりもすがしかりけり 呉竹の 笹葉の雨にぬるる色 常盤〔磐〕木よりもすがしかりけり |
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1064 | のうふたつ ひざのあたりにほののびし むぎふのおかにかぜやわめくも 農夫たつ 膝のあたりに穂ののびし 麦生の丘に風やわめくも |
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1065 | めっきりと やまはあおみぬしとしとと きょうもあさよりはるのあめふる めつきりと 山は青みぬしとしとと 今日も朝より春の雨ふる |
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1066 | ひえくさの ほゆるるかぜをながめいて こころおちいるはるのひるすぎ 稗草の 穂ゆるる風をながめゐて 心おちゐる春の午すぎ |
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(昭和九年二月六日) |
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対 座 | ||
1067 | わらうたび なみだのいずるくせはまだ そのままにしてとしかさねけり 笑ふたび 涙のいづる癖いまだ そのままにして年かさねけり |
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1068 | いきたらう いまのわれにしてあるときは やまにいりたきここちこそすれ 生き足らう 今の吾にしてある時は 山に入りたき心地こそすれ |
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(昭和九年二月六日) |
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時 局 | ||
1069 | がっこうのこうちょうを きょういくするがっこうをたてろ 学校の校長を 教育する学校を建てろ |
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1070 | てんこうばやり どうです かねもちがびんぼうには 転向ばやり どうです 金持が貧乏には |
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1071 | ふんかさんじょう たいぜんとして せいとうのだいどうだんけつ 噴火山上 泰然として 政党の大同団結 |
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1072 | じゃーなりすとが しんしそうのやりばにこまっているいま ジャーナリストが 新思想のやり場に困つてゐる今 |
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1073 | ぶきみなそれんのほうれつにかこまれながら まんしゅうのていせいいわいは おめでたい 無気味なソの砲列にかこまれながら 満州の帝政祝ひは おめでたい |
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(昭和九年二月六日) |
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鶯 | ||
1074 | ふとみたる ささむらかげにうごくもの うぐいすならめはつねきかばや ふとみたる 笹むらかげに動くもの 鶯ならめ初音聞かばや |
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(昭和九年二月十六日) |
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世 紀 末 | ||
1075 | しゅうまつの よとはなりけりれいぜんと わがみるめにはまざまざうつる 終末の 世とはなりけり冷然と わが観る眼にはまざまざうつる |
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冬 陽 | ||
1076 | はれつぐる ひよりうれしみきょうもまた ひあたるえんにぬくもりにけり 晴れつぐる 日和うれしみ今日もまた 陽あたる縁にぬくもりにけり |
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(昭和九年二月十六日) |
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柳 | ||
1077 | ようりゅうの わかばのにおいすがしみつ ゆくかたがわはおだのつづける 楊柳の 若葉のにほいすがしみつ 行く片側は小田のつづける |
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(昭和九年三月十六日) |
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夜 桜 | ||
1078 | つきあかり はなにおぼめくこのよいや ものなつかしくいもとさすらう 月明り 花におぼめくこの宵や ものなつかしく妹とさすらう |
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1079 | ひとすまぬ いえいのかきにさきさかる さくらみあげてなにかさみしき 人住まぬ 家居の垣にさきさかる 桜見上げて何かさみしき |
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1080 | はなにうく はなみのひととなずさわぬ わがさがたらうとしとなりけり 花に浮く 花見の人となづさはぬ わが性足らう年齢となりけり |
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1081 | ひしひしと はなおるけはいはるのよの おぼろのつきにぬすびとみえず ひしひしと 桜折るけはい春の夜の おぼろの月にぬす人見えず |
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1082 | ひるなかの ひとでいといてよざくらを みまくきぬればよきつきよなり 昼中の 人出いといて夜桜を 見まく来ぬればよき月夜なり |
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1083 | かわかぜの ふくやきしべにちりだまる さくらのはなびらまろびおちにつ 川風の ふくや岸辺にちりだまる 桜の花びらまろびおちにつ |
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1084 | あまぐもを きづかいつつもうかららと はなみてまわりたらうこのよい 雨雲を きづかいつつもうかららと 花みてまわり足らう此宵 |
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1085 | ごごになりて かぜややいでぬあおくさの つつみにはなのしろじろたまる 午後になりて 風ややいでぬ青草の 堤に花の白じろたまる |
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(昭和九年三月二日) |
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春 閑 | ||
1086 | うからたち つみくさにいでしかおともなし ごごかんにしてへやのしずけさ うからたち 摘草にいでしか音もなし 午後閑にして部屋の静けさ |
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1087 | はるぞらは がらすどにすけてのどかなり まつのこぬれにむかうわがいま 春空は 硝子戸にすけてのどかなり 松の木梢に対ふわが居間 |
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1088 | うらはれし そらにめぶきのさやけさよ きゃくとかたらいながらめのそる うらはれし 空に芽ぶきのさやけさよ 客と語らいながら眼の外る |
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1089 | しずみゆく はるひのなかをさびしらに ちょうのひとつがまだのにまよう しづみゆく 春陽の中をさびしらに 蝶の一つがまだ野にまよう |
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1090 | ゆきずりの おみなさくらそうのたばもてり はるをたずねてきつるののみち ゆきずりの 女桜草の束もてり 春をたづねて来つる野の路 |
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1091 | ゆうばえの むらだちくもをこえにける からすありけりはかがやせ 夕映の むらだち雲を越えにける 鴉ありけり羽かがやかせ |
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(昭和九年三月六日) |
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鳩 | ||
1092 | わがにわに おりおりはとのまいきぬも ひやしんすさくはなのあたりに わが庭に おりおり鳩の舞い来ぬも ヒヤシンス咲く花のあたりに |
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1093 | みずまけば いそいそとしてついあゆむ はとにみいりつあかるむこころ 水まけば いそいそとして啄あゆむ 鳩にみ入りつ明るむ心 |
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1094 | やまぶきの ちりしそぼふるあめのにわ えちえちあゆむはとのあしあかき 山吹の ちりしそぼふる雨の庭 えちえち歩む鳩の足紅き |
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(昭和九年三月六日) |
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春 の 曙 | ||
1095 | ほのぼのと しらむしょうじにかげうつる めぶきのえだにことりうごける ほのぼのと 白む障子にかげうつる 芽ぶきの枝に小鳥うごける |
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(昭和九年三月十六日) |
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思 ふ | ||
1096 | れいめいの ひかりみちくるわがむねの おもいにえしらぬなみだいざなう 黎明の 光みちくるわが胸の おもいにえしらぬ涙いざなふ |
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1097 | おおいなる のぞみのわけばあめつちも わがものとさえおもほゆもおかし 大いなる 望みの湧けば天地も わがものとさえ思ほゆもおかし |
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1098 | はなたれて はてなきそらにまいいゆく とりにくらべてわれをみつむる はなたれて 涯なき空に舞いいゆく 鳥にくらべて吾を視つむる |
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1099 | くものうえ おもうがままにかけめぐる りゅうじんのわざふとおもいみし 雲の上 おもうがままにかけめぐる 龍神の業ふとおもいみし |
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1100 | ぬばたまの やみにひとつのひかりおり ひろぎゆくかもつちのはたてに ぬば玉の 闇に一つの光降り ひろぎゆくかも地のはたてに |
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(昭和九年四月十六日) |
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昭和九年四月 | ||
1101 | しゅんじつちちとして ないかくもえんめい 春日遅々として 内閣も延命 |
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1102 | はちじゅういくさいのさんちょうろうが ゆうゆうせいじこうさく よはひじょうじ 八十幾歳の三長老が 悠々政治工作 世は非常時 |
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1103 | とっけんかいきゅうとはだいしんぶんとそうしてふごう 特権階級とは大新聞とそうして富豪 |
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1104 | とうとうなくなっちゃった ぶんしょうになるほどのじんかくしゃが にほんに とうとう無くなつちやつた 文相になる程の人格者が 日本に |
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1105 | かねのやりばにこまっているふごう からだのやりばにこまっているるんぺん 金の遣り場に困ってゐる富豪 身体のやり場に困ってゐるルンペン (全集未収録) | |
1106 | せいれんけっぱくでびくびくしている ○○ほうしょう 清廉潔白でびくびくしてゐる ○○法相 |
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(昭和九年四月十六日) |
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春の山路 | ||
1107 | きのめふく ころのやまじはたのしけれ うきうきとしてわれひとりすぐ 木の芽ふく 頃の山路はたのしけれ うきうきとして吾一人すぐ |
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希 望 | ||
1108 | かがやける さきつおもいつねむらえぬ さよのうれしさくるしさにおり かがやける 前途おもひつ眠らえぬ 小夜の嬉しさ苦しさにをり |
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燕 | ||
1109 | おおたきを みあぐるめぢにきのつけば かばしらのごといわつばめとべる 大滝を 見上ぐる眼路に気のつけば 蚊柱のごと岩燕とべる |
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(昭和九年四月十六日) |
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温 泉 | ||
1110 | ゆけむりに ほかげおぼろなやまのゆの よるのしじまをひとりゆにいる 湯けむりに 灯光おぼろな山の温泉の 夜のしじまを一人湯にゐる |
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(昭和九年五月十日) |
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五月の街 | ||
1111 | さやけさの ごがつのまちよじどうしゃの まどにひらめくわかばのひかり さやけさの 五月の街よ自動車の 窓にひらめく若葉のひかり |
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(昭和九年五月十六日) |
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こ の 頃 | ||
1112 | なにもかも ゆるしてやりたきここちすも さつきのあさのはればれしそら 何もかも 赦してやりたき心地すも 五月の朝のはればれし空 |
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1113 | なねなどと いいのけてまだまのあらず ひたにほりするわれにありけり 金などと 言ひのけてまだ間のあらず ひたに欲する吾にありけり |
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1114 | あくまでもと こころくだきてこのわれに つかうるひとのあるよたのもしき あくまでもと 心砕きてこの吾に 仕ふる人のある世たのもしき |
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1115 | めさむれば いまみしゆめとあまりにも かけはなれたるいまにてありき 目さむれば 今見し夢とあまりにも かけ放れたる今にてありき |
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1116 | しつれんの はなしなどするおみなあり おもながにしてまゆほそきかも 失恋の 話などする女あり 面長にして眉細きかも |
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1117 | うつりたての たどたどしさのかたづきて つねのこころにかえりけるきょう うつりたての たどたどしさの片付きて 常の心にかえりける今日 |
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(麹町に移りて) (昭和九年五月十六日) |
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青 | ||
1118 | ろくがつの そらににじめるろくしょうの いろはあおばのふかきかさなり 六月の 空に滲める緑青の 色は青葉のふかき重なり |
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1119 | あせややに にじまいにけるこだちもる かぜせにうけてめにあおたみつ 汗ややに にじまひにける木立もる 風背にうけて目に青田見つ |
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1120 | いえたてて すまばやとおもうおかありき まともにふじのいただきもみえ 家建てて 住まばやと思ふ丘ありき まともに富士の巓も見え |
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1121 | くわばたの わかめきらきらひにてらい ほおじろいちわききとあそべる 桑畑の 若芽きらきら陽にてらい 頬白一羽嬉々とあそべる |
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1122 | まつなみきが おとすはだらのごごのひを ゆあみつこうまらとおみゆくかも 松並木が おとすはだらの午後の陽を 浴みつ仔馬ら遠みゆくかも |
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1123 | ふるめける しゃもんのうえのあおぞらに さくきりのはなわざとしからず 古めける 社門の上の青空に 咲く桐の花わざとしからず |
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(昭和九年六月一日) |
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青 葉 | ||
1124 | たまさかの そとでのめにぞしみらなり あおばわかばのふかまれるいろ たまさかの 外出の眼にぞしみらなり 青葉若葉のふかまれる色 |
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(昭和九年六月十日) |
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金 | ||
1125 | ひとのため つくすにさえもかねのこと こころづかいすよこそかなしき 人の為 尽すにさえも金の事 心づかいす世こそかなしき |
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(昭和九年六月十日) |
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釣 魚 | ||
1126 | むねぬちに かいきみたしつひねもすを おだいばおきにはぜつりにけり 胸ぬちに 海気充しつひねもすを 御台場沖に鯊釣りにけり |
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(昭和九年七月十日) |
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心 | ||
1127 | ものをこわし ここちよしとうひとのはなし そのひとのこころつかめざるわれ 物を毀し 心地よしとう人の話 その人の心つかめざるわれ |
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1128 | かねからんと おもいしもからですみにけり このうれしさのたとえがたなき 金借らんと 思ひしもからですみにけり この嬉しさのたとえがたなき |
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1129 | くさばなの さくをまちいるもどかしさ それにもにたるあるときのわれ 草花の 咲くを待ちゐるもどかしさ それにも似たるある時の吾 |
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1130 | おおぜいの らいきゃくさりししずけさよ たばこのけむりふとみあげつつ 大勢の 来客去りし静けさよ 煙草の煙ふと見あげつつ |
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1131 | すいみつとうを くいてべとべとするゆびに まんねんひつをやおらはさみぬ 水蜜桃を 食ひてべとべとする指に 万年筆をやをらはさみぬ |
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1132 | きまぐれな こころがよるのしんじゅくに きてしまいけりつまもともなる 気まぐれな 心が夜の新宿に 来てしまいけり妻も倶なる |
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1133 | ひとのこいの はなしきけどもそらごとの ごとくにありぬわれおいけるか 人の恋の 話きけども空事の ごとくにありぬ吾老いけるか |
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1134 | ふとこころ くらくなりけりちゅうしゃにて まかりしというひとのこのはなし ふと心 暗くなりけり注射にて 死りしといふ人の児のはなし |
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1135 | このびょういんの かんじゃのこらずなおしたし とおもいつながきろうかをゆくも この病院の 患者残らず治したし と思ひつ長き廊下をゆくも |
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1136 | いっぴきの かをはたきたるこころよさ かかるこころはたれももてるや 一疋の 蚊をはたきたる快さ かかる心は誰ももてるや |
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(昭和九年七月二十三日) |
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○ | ||
1137 | いささかの ことはじむればきもたまの ちいさきひとびとでんぐりかえりし いささかの 事はじむれば胆玉の 小さき人びとでんぐりかえりし |
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(昭和九年八月十日) |
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縁 日 | ||
1138 | なにかいう こじきのこえをあとにして えんにちのひにわれまぎれける 何か言ふ 乞食の声を後にして 縁日の灯に吾まぎれける |
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(全集未収録)(昭和九年八月十六日) |
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秋 近 し | ||
1139 | あきちかみ はたらかなんとするこころ ぼつぼつとしてわきてくるなり 秋近み 働かなんとする心 勃ぼつとして湧きてくるなり |
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(昭和九年九月十日) |
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天 国 | ||
1140 | てんごくの みちをしらずばわれはいま よのうたてさになきくずれけん 天国の 道を知らずば吾は今 世のうたてさに泣きくづれけむ |
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(昭和九年九月十日) |
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公園の秋 | ||
1141 | こうえんの あきしらぬげにひとびとの おおかたすぽーつなどによりいる 公園の 秋知らぬげに人びとの 大方スポーツなどに集りゐる |
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(昭和九年九月十六日) |
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秋 陽 | ||
1142 | えんさきの こぎくのはちのさむげなる うすらうすらにあきびさしおり 縁先の 小菊の鉢の寒げなる うすらうすらに秋陽さしをり |
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(昭和九年十月十日) |
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世 外 | ||
1143 | いまわしき よのことごともせんまんり さかるがごとしかんのんえがきつ いまわしき 世の事ごとも千万里 さかるが如し観音描きつ |
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秋 の 町 | ||
1144 | さわやかな かぜそよわたるあきのまち せるのすそさばきこころよきかも さわやかな 風そよわたる秋の街 セルの裾さばき快きかも |
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(昭和九年十月十六日) |
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秋たけぬ | ||
1145 | ねころびて てんじょうあおげばじゅうがつと いうにばったのへんがくにあおき 臥ころびて 天井仰げば十月と いふにバッタの扁額に青き |
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1146 | きくいけて たらうあさかなながあめの やみてしょうじにひのうららかさ 菊生けて 足らう朝かな長雨の やみて障子に陽のうららかさ |
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1147 | きのしまる ふゆのけはいにさかりいる こどもらたちをおもいづるあさ 気のしまる 冬のけはいにさかりゐる 子供等達を思いづる朝 |
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1148 | ねこのこえ さよのしじまにすみとおり ふみよむあきのみみにうるさき 猫の声 小夜のしじまにすみとほり 書読む秋の耳にうるさき |
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1149 | のうそんの つかれしきじのしんぶんを みぬひとてなくむねのおもかり 農村の 疲れし記事の新聞を 見ぬ日とてなく胸の重かり |
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(昭和九年十月二十六日) | ||
吾を観る | ||
1150 | ひとよりも たのしきことありひとよりも くるしきことありわがさだめかも 人よりも 楽しき事あり人よりも 苦しき事ありわが運命かも |
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1151 | われをそしる ひとのはなしをよそごとの ごとくききいるわれをみいでぬ 吾をそしる 人の話を他事の 如くききゐる吾を見出でぬ |
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1152 | うそいいて やすくわたれるよのなかと おもうひとたちみるがかなしき 啌言ひて 安く渡れる世の中と おもう人達見るが悲しき |
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1153 | まがびとの はばるよにありほがらかに いくるこのさちおおきからずや 曲人の はばる世にありほがらかに 生くるこの幸大きからずや |
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1154 | このひごろ わがむねぬちにたむろして すぎけるこいほ〔このも〕しひとのありけり 此日ごろ わが胸ぬちに屯して すぎける恋ほ〔好も〕し人のありけり |
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1155 | しゅじゅつなど やばんのきわみとわれいえば まゆをひそむるいんてりのかれ 手術など 野蛮の極と吾いえば 眉をひそむるインテリの彼 |
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1156 | はらだちを おさえつつありにほんめの しがーにいつかひのつきてあり 腹立ちを 制えつつあり二本目の シガーにいつか火の点きてあり |
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1157 | かんがえの まとまりかぬるもどかしさ たいざのかれはわれをみつむる 考えの まとまりかぬるもどかしさ 対座の彼は吾を見つむる |
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(昭和九年十月二十六日) |
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夕 鴉 | ||
1158 | ゆうばえの ひかりのなかをむらむらと むれからすすぎひはくれにける 夕映の 光の中をむらむらと むれ鴉すぎ日は暮れにける |
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(昭和九年十一月十日) |
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○ | ||
1159 | わがために こころくだきつつくすひとを おもうこころのあかるさにおり わが為に 心くだきつ尽す人を 思ふ心の明るさにをり |
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(昭和九年十一月十日) |
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野 分 | ||
1160 | むらがらす のわきにあふられあふられて ゆうべのそらにきえにけるかも むら鴉 野分にあふられあふられて 夕べの空に消えにけるかも |
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(昭和九年十二月十日) |
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寒 夜 | ||
1161 | かくふみは いまだおわらずさよふけて ひおけにひのけつきなんとすも 書く文は いまだ終らず小夜ふけて 火桶に火の気尽きなんとすも |
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(昭和九年十二月十六日) |
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夢 | ||
1162 | くうそうと おもいしのぞみじっそうと あらわるるゆめかかえひさなり 空想と おもひしのぞみ実相と 現はるる夢抱え久なり |
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(昭和九年十二月十六日) |
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春未だし | ||
1163 | ふゆがれの やなぎそよがずほりばたは ただいたずらにじどうしゃゆきかう 冬枯れの 柳そよがず濠端は ただ徒らに自動車往き交う |
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1164 | しもやけの なんてんのはがふゆにわの あかるきもののひとつとなりけり 霜焼の 南天の葉が冬庭の 明るきものの一つとなりけり |
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1165 | はつうまの たいこのおとかこがらしに とぎれとぎれにうちまじりくも 初午の 太鼓の音か木枯に とぎれとぎれにうち交りくも |
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1166 | こうばいの ひとはちかいてえんばたに おけばさすひにはるほのめくも 紅梅の 一鉢購いて縁端に 置けばさす陽に春ほのめくも |
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1167 | いずらよりか からすのいちわあふれきて とまるともなくすぎゆきにける いづらよりか 鴉の一羽あふれきて とまるともなく過ぎゆきにける |
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1168 | とこいけの まつのえこけにみやまぢを しのびけるかもしずけさのごご 床活けの 松の枝苔に深山路を 偲びけるかも静けさの午後 |
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(昭和十年一月十日) |
||
吾 | ||
1169 | うつりゆくの なんぞはやきやわがさだめ ひとつきたらずにかくもなりしか うつりゆくの 何ぞ速きやわが運命 一月足らずにかくもなりしか |
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1170 | おもうこと いえぬよわさのまだあるか めしたのかれにいいよどみつつ 思うこと 言えぬ弱さのまだあるか 目下の彼にいひよどみつつ |
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1171 | すくわれて うれしむかれのよこがおを みつわがむねにせまるものあり 救はれて 嬉しむ彼の横顔を 見つ吾胸にせまるものあり |
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1172 | きんざんの さいくつなどをかたりいる かれのすがたのいたいたしさよ 金山の 採掘などを語りゐる 彼の姿のいたいたしさよ |
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1173 | ほかほかと とこぬちにあるこころよさ さんじゃくさきにあさのひさせる ほかほかと 床ぬちにある快よさ 三尺先に朝の陽させる |
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1174 | しろきものを しろしといえぬなれのくせ さびしからめやつねにこころは 白きものを 白しと言えぬ汝の癖 淋しからめや常に心は |
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1175 | こころおけぬ ひとにかこまれふゆのよを かたりあいつるあたたかさにおり 心おけぬ 人にかこまれ冬の夜を 語り合いつるあたたかさにをり |
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(昭和十年一月十日) |
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人 の 道 | ||
1176 | ひとのみち ふめばやすかりやすからぬは ひとたるみちをふまねばなりける 人の道 ふめば安かり安からぬは 人たる道をふまねばなりける |
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(昭和十年一月十日) |
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冬 の 月 | ||
1177 | おおぞらの そこいにふゆのつきさえて でんせんいくすじしもにひかれる 大空の 底ひに冬の月冴えて 電線いくすじ霜に光れる |
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1178 | くろぐろと もののけのごとしかんげつの そらした〔げ〕にひとつおおきびるたてり 黒ぐろと 物の怪の如し寒月の 空下に一つ大きビル建てり |
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1179 | ひゅうひゅうと かぜなりすぐるよるなりき かんげつしろくおおうちやまくろし ひゆうひゆうと 風鳴りすぐる夜なりき 寒月白く大内山黒し |
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1180 | うなばらの そこいはかくもふゆがれの はやしにつきのひかりただよい 海原の 底ひはかくもや冬枯の 林に月の光ただよい |
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1181 | ぎんばんと みゆるはしものおかなれや つきはいましもむさしのてらす 銀盤と 見ゆるは霜の丘なれや 月は今しも武蔵野照らす |
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1182 | にぶいろに ぬりつぶされしふゆのよの つきてるしたにねむるまちまち 鈍色に 塗りつぶされし冬の夜の 月照る下に眠る街々 |
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(昭和十年二月十日) |
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○ | ||
1183 | かたはりて ものいうくせのかれなりき そのかれいまはおみなのごとかり 肩はりて 物言ふ癖の彼なりき 其彼今は女の如かり |
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春 立 つ | ||
1184 | はるはまず ひとのこころにたちそむか きのうとおなじさむかぜふけども 春は先づ 人の心に立ちそむか 昨日と同じ寒風ふけども |
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(昭和十年二月十日) |
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女 | ||
1185 | おみななれ いかにけはいをこらすとて さみしからずやほほえみなくば 女汝 いかに化粧をこらすとて 淋しからずや微笑なくば |
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1186 | ほほえみは おみなのいのちかもいつもかも おみなにあえばしかおもいける 微笑は 女の命かもいつもかも 女に会えばしか思いける |
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1187 | おみなありき としわかくしてうつくしく いなかへかえりぬいまいかにせし 女ありき 年若くして美しく 田舎へ帰りぬ今如何にせし |
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1188 | ながしめに ひとみるくせのかのじょなりき みをあやまるはかかるおみなや ながしめに 人見る癖の彼女なりき 身を過るはかかる女や |
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(昭和十年二月十八日) |
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雨 後 | ||
1189 | あたらしき みどりはあめにさえかえり ぬれはゆるなりたにのなだりに 新しき 緑は雨に冴えかえり 濡れ映ゆるなり渓のなだりに |
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1190 | うららけき ひすじにうごのくさのはら みどりさやかにもえたぎろえる うららけき 日條に雨後の草野原 緑さやかに萌えたぎろえる |
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1191 | くさのほは つゆしとどにてちろちろと うごのつちみぞまだせせらげる 草の穂は 露しとどにてちろちろと 雨後の土溝未だせせらげる |
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1192 | したしもよ やなぎわかばのあさみどり いけにしだれてしずかなるあさ したしもよ 柳若葉の浅みどり 池にしだれて静かなる朝 |
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1193 | しとしとと あめふるひなりまどくれば ぢんちょうのかのほのにおいくも しとしとと 雨ふる日なり窓くれば 沈丁の香のほのにほひくも |
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1194 | ふりつぐる あめをかこちつくるきゃくの おおきひなりきさくらさきそむ ふりつぐる 雨をかこちつ来る客の 多き日なりき桜咲き初む |
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1195 | けぶらえる あめのゆうべににじむひを なつかしみつつはるのまちゆく けぶらえる 雨の夕べに滲む灯を なつかしみつつ春の街ゆく |
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1196 | でんせんに ふるえるつゆをながめつつ はるさめのひをうっとうしむも 電線に ふるえる露をながめつつ 春雨の日をうつとうしむも |
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(昭和十年三月十一日) |
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春 の 水 | ||
1197 | つりびとは うきをみつめてうごなわず ながるともなきはるのささがわ 釣人は 浮子を見つめてうごなわず 流るともなき春の小川 |
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(昭和十年三月十六日) |
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光 明 | ||
1198 | こうみょうに じゅうするひとのことたまは いとこころよきひびきありけり 光明に 住する人の言霊は いと快きひびきありけり |
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(昭和十年三月二十五日) |
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身辺詠(一) | ||
1199 | おもうこと ひとつひとつがはこびゆく そのたのしさにわれはいくなり 思ふ事 一つ一つが運びゆく そのたのしさに吾は生くなり |
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1200 | いそがしさを このむさがあるわれなりき そをほめそやすひともありけり 忙しさを 好む性ある吾なりき そを称めそやす人もありけり |
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1201 | こいすてう ほどにあらねどいまいちど あいみまほしくおもうおみなあり 恋すてう ほどにあらねど今一度 会い見まほしく思ふ女あり |
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1202 | わがために すくわれたりといそいそと くるひとらありわがよあかるき わが為に 救はれたりといそいそと 来る人らありわが世明るき |
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1203 | きゃくはみな かえりてしずかなひとときを たばこをふかすくせもたのしき 客はみな 帰りて静かな一時を 煙草をふかす癖もたのしき |
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1204 | えだぶりの よきかいどうのぼんさいに おりおりこころをやりつわざとる 枝ぶりの よき海棠の盆栽に おりおり心をやりつ業とる |
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1205 | よせいけし さくらやまぶきとこにみつ せめてもはるをなつかしみけり よせ活けし 桜山吹床に見つ せめても春を懐しみけり |
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1206 | よめなつくし つみきくれたりののかおり まことゆたかにゆうげたのしむ 嫁菜土筆 摘み来呉れたり野の香り まこと豊かに夕餉たのしむ |
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(昭和十年四月十日) |
||
彼 | ||
1207 | つまあるが おかしとおもいぬいつもかも せんにんぜんととりすますかれ 妻あるが 可笑しと思ひぬいつもかも 仙人然ととりすます彼 |
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1208 | いささかの ことにもくちをとがらせど あえてにくめぬかれにてありき いささかの 事にも口をとがらせど 敢て憎めぬ彼にてありき |
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1209 | うちむかう かれのおもてのほがらさに いわんことどもおしつぶしけり うち対う 彼の面のほがらさに 言はん事ども押しつぶしけり |
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1210 | かにかくに あかるきよなりわれかこむ ひとのおのおのたらうおもみれば かにかくに 明るき世なり吾かこむ 人の各おの足らう面見れば |
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1211 | いまのよに かかるひとらのかくまでに つどうところのたにあるべきや 今の世に かかる人らの斯くまでに 集ふ処の他にあるべきや |
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(昭和十年四月十日) |
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新 居 | ||
1212 | うつりすみて いまだなずさぬへやながら そこらみまわすたのしさにおり うつり住みて 未だなづさぬ部屋ながら そこら見廻すたのしさにをり |
|
1213 | きゃくあれば ときのおしかりきゃくなくば うらさみしけれこれがひとのこころか 客あれば 時の惜しかり客なくば うらさみしけれこれが人の心か* |
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1214 | げんこうや えなどなすべきことおおし このいえにきてはたすべかりき 原稿や 絵など為すべき事多し 此家に来て果すべかりき |
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1215 | ささやかな しんきょのへやをみまわしつ いえもちたてのわかきころおもう ささやかな 新居の部屋を見廻しつ 家持ちたての若き頃思ふ |
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1216 | いっけんの いえをかるさえやすかりぬ いともかんそなせいかつ〔くらし〕にあるみは 一軒の 家を借るさえ易かりぬ いとも簡素な生活にある身は |
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(昭和十年四月十日) |
||
○ | ||
1217 | ささやかな いえをかりしもえにうたに いそしまんとてきょううつりける ささやかな 家を借りしも絵に歌に いそしまんとて今日うつりける |
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(昭和十年四月十二日) |
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新 芽 | ||
1218 | もろきぎの しんめはつゆにぬれひかり あさのさんぽのすがすがしさよ 諸木々の 新芽は露に濡れ光り 朝の散歩のすがすがしさよ |
|
(昭和十年四月十二日) |
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春 の 陽 | ||
1219 | むらさきの かすみのおくにどんよりと ひうけてさくらのやまたたずまう むらさきの 霞の奥にどんよりと 陽うけて桜の山たたずまふ |
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(昭和十年四月十六日) |
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六月の空 | ||
1220 | でぱーとの おくじょうにいてろくがつの そらをあおげばかぜすがすがし デパートの 屋上に居て六月の 空を仰げば風すがすがし |
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1221 | ほりばたの あおやぎのえださゆるがず しだれえながくそらまうつれる 濠端の 青柳の枝さゆるがず しだれ枝ながく空まうつれる |
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1222 | あおくさの かのめずらしもこのひごろ みやこにすめるわれのにいでて 青草の 香のめづらしも此日頃 都に住める吾野にいでて |
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1223 | かぜかおる このこころよさあさとでの まちのすずかけいきいきとして 風薫る この快よさ朝戸出の 街の篠懸いきいきとして |
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1224 | このゆうべ あつからなくにせるまとい ほりのつつみをさすらいにける この夕べ 暑からなくにセルまとい 濠の堤をさすらいにける |
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(昭和十年六月十五日) |
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身辺詠(二) | ||
1225 | ひもすがら なにかこころのうかなさを うちやぶりけるいちまいのはがき 日もすがら 何か心の浮かなさを うち破りける一枚の葉書 |
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1226 | くちさきで いいのがれんとするかれの おもてをみつめつわれかなしけり 口先で 言い逃れんとする彼の 面を見つめつ吾悲しかり |
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1227 | あたらしく とういすかいていくたびも かけてみたりきこどものごとく 新しく 藤椅子購いていくたびも 掛けてみたりき子供のごとく |
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1228 | おうごんを なんじゅうおくももちてみばやと ときおりおもうわれのおかしさ 黄金を 何十億ももちてみばやと 時をりおもう吾のをかしさ |
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1229 | くるひとを みなたらわしてかえさんと こころづかいすわれのさみしさ 来る人を みな足はして帰さんと 心ずかいす吾のさみしさ |
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1230 | よろこびの いまにもきたるここちして こころはずみつきょうもひすぎぬ よろこびの 今にも来る心地して 心はずみつ今日も日すぎぬ |
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(昭和十年六月十五日) |
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玉 川 | ||
1231 | たまがわの ながれはしろししんりょくの おかははてなにそらをつづかう 玉川の 流れは白し新緑の 丘ははてなに空をつづかふ |
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1232 | ありやなしの かぜにふるえるいしのまの かわらなでしこめぐしみにつつ ありやなしの 風にふるえる石の間の 河原撫子めぐしみにつつ |
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1233 | はしのかげ おおらかにながしたまがわの ろくがつのかぜややあたたかし 橋の影 おほらかに長し玉川の 六月の風ややあたたかし |
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1234 | たまがわや じゃかごいくつもぬれひかり ろくがつのかぜみずわたりくる 玉川や 蛇籠いくつも濡れ光り 六月の風水わたりくる |
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1235 | さおかたげ つりびとふたりゆきずりぬ あめふるかわのみなせのはやき 竿かたげ 釣人二人ゆきずりぬ 雨ふる川の水瀬のはやき |
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1236 | たまがわの ましたにながらうおかのうえに いえたてすまばやとつまふというも 玉川の ま下に流らう丘の上に 家建て住まばやと妻ふといふも |
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1237 | わかあしの すくすくはえてみずきよき こぬまのきしにしばしたたずむ 若葦の すくすく生えて水清き 小沼の岸にしばしたたずむ |
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1238 | はなねぎの すがれはさみしはつなつの あおきはたけのめだつがなかに 花葱の すがれはさみし初夏の 青き畑の目立つが中に |
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1239 | はしにいて かわみおろせばあおずめる このみなそこにあゆおどるにや 橋にゐて 川見下ろせば青づめる この水底に鮎踊るにや |
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(昭和十年七月十八日) |
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『山と水』 全一二三九首収録 |
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